どらごんぼーる考察

がんだまぁBlogからドラゴンボール記事を移植しました。以後ドラゴンボール考察はここで展開します。

超サイヤ人になるための「怒り」の条件

「穏やかな心を持ちながら激しい怒りによって目覚めた」のが超サイヤ人とは悟空の弁ですが、一方でベジータは「自分への怒り」によって目覚めたと語っています。ベジータの場合、伝説上の存在と思われていた超サイヤ人が悟空により具体化し、それを目指してもなかなか辿り着けなかったことから、超サイヤ人になれないという現実、つまり自分への不甲斐なさに対する怒りであったと推測することができます。

しかし、この「自分の不甲斐なさへの怒り」というのは、ベジータに限ったことではないのではないか、と思い至りました。

 

というのも、悟空が超サイヤ人になったのは、クリリンを殺された怒りからですが、殺したフリーザへの怒りだけでなく、それを阻止できなかった自分への怒りも含まれていたと思えるからです。悟空はその後、自分が星の爆発に巻き込まれて死ぬリスクを負ってまで、ナメック星に残ってフリーザを自ら倒すことにこだわります。それだけクリリンが大切だったとも言えますが、その後勝敗が決したことで決着をつけずに戦いを終わらせようとしており、必ずしもフリーザを殺さないと気が済まなかったわけではありません。気が済まなかったのは、自らの不甲斐なさであり、超サイヤ人となり完全にフリーザを上回る力を得たことで、その気持ちはある程度解消できたのしれません。不甲斐なさによる逆上という意味では、トランクスがセルに殺された時のベジータに似ています。違いは、ベジータはセルを倒せる力を持っていませんでしたが、悟空はフリーザを倒す力を持っていたことです。

 

このように考えると、悟飯が超サイヤ人2になれたのも、「16号が破壊された怒り」というよりも、「16号が破壊されるまで力を引き出せなかった自分の不甲斐なさへの怒り」と理解することができます。悟空とクリリンの絆の深さに対して、悟飯と16号の絆がそこまで深いとは言えず、それなのに同じような怒りで覚醒したのは、「自分への不甲斐なさ」が同等だったのではないかと推測することができるのです。

それは未来のトランクス(アニメ版)も同様だし、未来の悟飯もそうやって覚醒したと考えることができます。

 

そうであるなら、超サイヤ人になれるかどうかの境界線は、「自分自身の無力の自覚」と「それでもさらに強くなりたいという気持ち」の2つが揃ったかどうかなのではないか、と解釈することができます。フリーザと戦った際のベジータは、ずっと自分は強いと思っており、それが打ち砕かれた際に、怯え涙しフリーザに勝つことを諦めてしまいました。そこでそれでもフリーザを倒したいという気持ちがあったなら、その時点でベジータ超サイヤ人になれていた可能性があります。ただベジータは悟空に負けるのは悔しくても、フリーザに負けるのは悔しいと思えなかったのでしょう。それくらい、幼少時からフリーザには逆らえないことを(無意識的に)理解していたのだと思います。

 

逆に悟空に足りなかったのは、相手をなんとしても倒さなければならないという意志だったのではないかと思います。悟空は基本的に敵との戦いを試合と認識しているため、相手を殺してでも勝ちたいとまでは思っていません。しかしフリーザに対して、それではダメだと自覚したのがクリリンの死だったのでしょう。最初にクリリンを殺したタンバリンは、かめはめ波で消滅させていますからね。悟空にとってクリリンの死は精神的なリミッターの解除を意味しているとも言えます。幼少時に一定の戦闘力に達していたら、この時点で超サイヤ人になっていたのかもしれませんが、タンバリンがクリリンに殺されるのを悟空が止めるのは不可能に近く、自らの責任はほとんどなかったため、不甲斐なさを感じることはなかったのでしょう。

 

サイヤ人は戦闘民族であり、本能的に闘争を求め、より強くなろうとする種族ですが、心が折れるほど自分の限界を自覚した上で、それでも強くなりたいという強い意志を持つことで、一つ上の領域にたどり着けるようになっているのかもしれません。

ただ、一度目覚めるとある程度自由にコントロールできるようになることから、悟天やトランクスが幼少時に苦労せずに超サイヤ人になれたのは、やはり超サイヤ人覚醒後に設けた子だからなのかもしれません。原作コミックでは、未来のトランクスも最初から超サイヤ人になれていたので、実は現代同様に簡単に覚醒していた可能性があります。悟飯の死で目覚めたアニメ版のトランクスは、超サイヤ人覚醒前のベジータの子だったということなのでしょう。

 

映画「ブロリー」におけるブロリー超サイヤ人覚醒は、パラガスの死によるものですが、これはどちらかと言うと悲しみによる覚醒のようにも見えます。これは旧版ブロリーと共通なのかもしれませんが、すでにブロリーは大猿の力を引き出している時点でほぼ怒りに身を任せている状態のようであるため、超サイヤ人になるのに必要なのは怒りではなく別の感情ということなのかもしれません。

超サイヤ人ゴッドになるためには正しい心が必要であるということもあり、超サイヤ人自体が大猿化とは異なる、人間的な感情を必要としているのかもしれませんね。

ベジータにとっての悟飯

ベジータは悟飯のことを割と評価している、とネット上では良く語られています。実際にベジータが悟飯のことをどのように思っていたのか、掘り下げてみたいと思います。

 

まず、ベジータラディッツが殺された際、サイヤ人と地球人の混血は戦闘力が高いという仮説に辿り着いています。それを聞いたナッパが、地球人との間にたくさん子を作れば最強の民族ができるのではと言いますが、ベジータはそれでは自分たちの立場が危うくなると否定しています。

ベジータは当初より、自らの立場を危うくするくらいにはサイヤ人と地球人との混血(=この時点では悟飯のみ)を評価していたことになります。

ベジータは王子であることから、自分自身が最強であるというだけでなく、サイヤ人という種が最強の民族であることに誇りを持っており、それ故に種の存続についても関心がありますし、それだけではなく自分が王でいられるかどうかも判断基準の一つであったことがわかります。だからカカロットに負けないことにもこだわったのでしょう。

 

次に、ベジータは直接悟飯と対峙し、悟空との戦いで大きなダメージを受けた状態で、怒りにより戦闘力がアップしている状態の悟飯に苦戦していました。万全であれば相手にならない実力差ではあるものの、5歳で自分に恐れず向かってくる悟飯にそれなりに脅威を感じたようです。

ナメック星で悟飯と再会した際には、本音かどうかは分かりませんが、サイヤ人の血を引いている者が悟空を含めて3人しかいないことを大事に思っているように見せており、最長老に力を引き出してもらった悟飯の気を悟空と勘違いするなど、単なるガキではないという認識を常に持っています。

ギニュー特戦隊フリーザとの戦いでは、自身の力だけでは勝ち目が薄いこともあり、悟飯の戦闘力はそれなりに頼りにしている様子が見えました。実際、窮地に陥るたびにブチ切れて強力な攻撃力を見せる悟飯には何度も驚かされており、ある意味では悟空やピッコロよりも悟飯がブチ切れた時の強さを知っているキャラクターとも言えます。悟飯がブチ切れる時は、ピッコロが死んでいたり、悟空が(多くの場合クリリンも)戦闘不能になっている時がほとんどですからね。

その意味では、確かに悟飯のポテンシャルの高さを一番知っているのはベジータであったと言えます。セルの相手に悟空が悟飯を指名した時も、驚いてはいましたが、ピッコロやクリリン達ほどの抵抗感は見せておらず、実際に悟飯がセルと戦うために力を解放した時には、逆にベジータが一番驚いていたように見えます。多くの仲間たちが「まだ子供の悟飯にはセルの相手は無理だ」と思う中、ベジータだけは純粋に戦闘力だけで悟飯をみていたのではないでしょうか。

そんなベジータだから、再生後のセルの攻撃から悟飯に庇われた際も、素直に謝ることができたのかもしれません。これが悟飯以外のキャラだったら、「余計なことをしやがって」とか言うのが目に見えています。自分より明らかに強いということを認めていたからこそ、悟飯には謝れたとも言え、ある意味ではベジータは悟空よりも先に、悟飯の強さを認めていたのかもしれません。悟空のことを認めるのは、ブウ編の最終局面ですからね。

 

ベジータは悟飯の強さを誰よりも認め、そして地球人との混血の強さを良く知っているからこそ、トランクスを悟飯より強くすることを一つの目標とします。そして実際に悟天に勝った際は、非常に喜んでいました。

ブウを倒し悟空が生き返った後は、あまりトランクスを鍛えなくなったようですが、これは悟空を含め自分自身がまだ強くなれる可能性を見出したことで、悟空より強くなるという目的がより現実化したためでしょう。次にトランクスを鍛えることがあるとすれば、それは自分自身がこれ以上強くなることはないと思った時でしょうね。

 

悟飯に対する感情に戻ると、成長後に再会した際は腕が鈍っている悟飯のことを気にしていました。そして実際にダーブラと戦う悟飯を見て、想像以上に鈍っていることを知り大きく苛立っていました。その苛立ちが悟空以上であったのは、性格によるものだけではなく、それだけ悟飯の強さを認めていたからなのでしょう。もし悟飯が自分の子だったなら、絶対に鍛えていたはずなのにという気持ちもあったはずです。ブウに悟飯が殺されたと思っていた際は、「よくも殺しやがったな」と柄でもない台詞を言っていたこともありました。それだけ惜しい存在だと思っていたことがわかります。

 

その後、ベジータは死亡し、生き返った後は悟飯たちが地球ごと消滅してしまったため、悟飯と顔を合わせることはありませんでしたが、ベジータの悟飯への態度は一貫しており、それが「サイヤ人と地球人の混血という優良種」であり「自分や悟空を超えるポテンシャルを持っている」ということです。

おそらく、ベジータは「サイヤ人と地球人の混血」がより優れた存在であるという仮説を立てており、そのモデルが悟飯であることが確かであるため、純粋なサイヤ人は悟空とベジータが死ねば絶滅するものの、地球人との間に子孫を設ければより優れた種族として生き残ることができる、ということに王族として希望を持っているのだと思います。悟空に対しては同じ純粋種としてのライバル心がありますが、悟飯に対してはその次の世代のサイヤ人の希望として、次元が異なる期待をしているということです。

 

また、それに加え、悟飯に対する個人的なシンパシーもある可能性があります。というのも、悟飯は5歳でサイヤ人やフリーザ軍との殺し合いに身を投じており、悟空以上に壮絶な幼少期を過ごしています。それは、幼少時よりフリーザ軍として戦っていたベジータにとっても同じです。それも親が王であったが故に、王子としての運命から逃れられませんでしたし、戦闘力では父を超えていたが故に、幼くして最強のサイヤ人としての責任も背負っていました。悟飯も、父親が悟空だったからこそラディッツに攫われ、悟空以上の戦闘力を持っていたが故にピッコロに鍛えられ最前線に出ることになったわけです。

ピッコロが悟飯に自分を重ねていた部分があったように、ベジータにも自分を重ねている部分があったのではないかと思います。そうなると、ピッコロとベジータも似たもの同士だったことになりますが、まぁ双方の様子を見ると確かに似たもの同士かもしれません。

 

このように考えると、ベジータにとって悟飯は単なる「カカロットのガキ」というだけではない存在であるように思えますが、ブウに自爆した後はあまり直接絡むことがないため、その背景があまり生かされていないのが残念です。アルティメット悟飯を見てベジータがどう思ったのかとか、見てみたかった気がしますね。もちろん最新のビーストに関するリアクションも気になるところです。

悟飯は、力の大会やスーパーヒーローの一件を踏まえ、本業だけじゃなくて修行もある程度しておかなければと思うようになっているはずなので、ベジータが見直す機会も出てくるのではないかと思います。修行相手はオレンジピッコロで十分そうですが、ベジータとの修行なんかも、一度は見てみたい気がしますね。

 

 

人造人間の永久エネルギー炉について考える

人造人間は人工物だから気がない、というのがドラゴンボールの基本設定ですが、しかし人造人間も気弾のようなものを発射することができます。これは気でないなら何なのでしょうか?

エネルギー吸収型の人造人間は、人間から気を奪うことで自分のエネルギーに変換しています。そのため、人間の「気」をベースにしていることは間違いなさそうです。ただその質が変わっているため、普通の人間のように感知することができないということなのでしょう。

どんな人間にも少しの気があるという設定ですから、おそらく気の根源は生命エネルギーで、人間が生命活動している限り気を使用しているということになります。その生命活動を感知することができるのが作中のキャラクターたちで、人造人間の場合は人間の生命活動とは違う動力源で生きているから感知できない、と考えるべきなのかと思います。

 

少なくとも16号以降の人造人間は、エネルギー吸収式と永久エネルギー式の2種類が存在します。エネルギー吸収式は、有限ですが人間からエネルギーを補充できるタイプで、永久エネルギー式は、人間からの吸収を行わなくとも無限にエネルギーを生成できるものと考えられます。

この永久エネルギー式というのが限りなくオーパーツで、このシステムがあれば人類はエネルギー問題を解決できるんじゃないかと思うのですが、そもそもドラゴンボールの世界のエネルギー源が不明なため(アラレちゃんも存在しているわけですし)、すでに珍しくない技術なのかもしれません。

いずれにせよ、人間の生命エネルギーに相当するエネルギーを無限に生成できるのですから、その技術は驚異です。おそらく食事も排泄も不要ですし、老化もしないので、ある意味ではフリーザベジータもドクターゲロに改造してもらえばドラゴンボールを使わなくても不老不死になれたことになります(笑)。

おそらくこの永久エネルギー炉を開発できたことで、人造人間の戦闘力が大幅に高まったのだと思います。フリーザ超サイヤ人以上のパワーを発揮できていたのは、この無限に生成できる人工の気の出力によるものでしょう。当時悟空の戦闘力をサイヤ人編レベルで想定していたドクターゲロにとっては、強くなりすぎてしまったと考えても致し方なく、16号は世界を滅ぼす力、17号・18号も言うことを聞かないため迂闊に動かせない存在と認識していたのも当然なのかもしれません。

 

永久エネルギー炉のもう一つの謎は、セルが吸収するとエネルギーが無限ではなくなるということです。そもそもセルの気は感知できるのですが、これはセルが人為的に生み出された生物であるからで、決して機械の動力で動いているわけではありません。おそらく、吸収した17号と18号の永久エネルギー炉は、自身の生命活動のエネルギー源にしているのではなく、自身の進化のためのエネルギーとして使用しているのではないかと思います。だから18号を吐き出すと退化してしまうわけです。ただ、体の構成物質として必須なのではなく、あくまでも形態を維持するためのエネルギー源として使用しているだけなので、死の淵から蘇ってパワーアップしたことで18号の動力炉なしで完全体になることができたのではないでしょうか。

 

何故セルが吸収するのが16号ではだめだったのかというのも謎ですが、セル自身が生物なので、完全な機械の動力炉を組み込むのが困難で、人間を有機的に改造した17号・18号の方がセルにとっては取り込みやすかったのでしょう。その意味では、17号・18号は通常の人間としての生物的機能をある程度残していることから、人工心臓のような感じで一部の臓器を代替する形で永久エネルギー炉を搭載していると考えることができます。人間ベースの人造人間で永久エネルギー式なのは17号・18号だけのはずですから、セルが吸収する必要があったのもその2体以外にあり得なかったわけです。

 

さて、では永久エネルギー炉の動力はどのように生み出しているのでしょうか?それは、エネルギー吸収式の場合人間の気を動力に変換できるということがヒントです。人間の気を人造人間の動力に変換できるのですから、17号・18号は自身の「人間としての気」を動力源にすれば人造人間の動力に変換することができます。そうして発生したエネルギーの一部を自身の人間としての生命活動に使用すれば、その生命活動により発生した気を元にまた人造人間の動力を発生させられます。これを無限に行うのが永久エネルギー炉なのではないでしょうか。

もっとも、エネルギー保存の法則の観点から、同じエネルギーを変換し続けても動力は増えませんので、人間の気を変換した際により大きな動力を得ているか、何らかの外部エネルギーの摂取(食事とか)は必要としていた可能性があります。ただ、疲労しないという意味では身体活動が劣化しないということでしょうから、莫大な生命エネルギーが常時供給されていると考えることができ、常に仙豆を食べているような状態と考えると、それだけ大きな変換効率になっていると考えた方が現実的かもしれません。

その仮説に立って考えると、人間の気を人造人間のエネルギーに変換した際、同じエネルギー量でもより効率の良い動力を得ることができると考えられます。それを可能としたのが、ドクターゲロの超技術だったということになるのではないでしょうか。

 

だとすると、完全ロボット型である16号の永久エネルギー炉は、いったい何を元にエネルギーを発生しているのでしょうか。16号がドクターゲロの息子・ゲボをモデルにしているという設定が追加されたことから、16号の身体は機械でできていても、一部のみゲボの臓器が使用されている可能性があります。気を発生させるメカニズムだけ生体部品を使っているという可能性ですね。

そもそも人間が気を発生させる原理が不明であるため、これ以上厳密に考察することは難しいのですが、このように考えると、人造人間の解像度も上がってくるのではないかと思います。

この考察におけるドクターゲロの技術を使えば、悟空たちの気をさらに増幅させる装置を作ることも可能かもしれませんので、ドクターヘドが生存し悟空たちと協力関係になったことは、割と大きな意味を持つのかもしれません。

 

悟空と競い合うベジータの足跡を辿る

もはやドラゴンボールどころか、全漫画の代表的なライバル関係と言っても過言ではない悟空とベジータですが、直接対決したのは2回だけ(初戦とバビディ洗脳時)しかありません。映画「スーパーヒーロー」での対決はお互い変身していない修行みたいなものですしね。

しかし、直接対決は少なくとも、2人は常に作中で交互にパワーアップを繰り返し、競争してきました。今回は主にベジータの視点でその経過を振り返ってみたいと思います。

 

(1)初戦(地球)

 地球のドラゴンボールを手に入れるためにナッパと共に地球にやってきたベジータ。その戦闘力はこの時点で18000。ピッコロの1330がMAXだった当時の地球の戦力など、多少パワーアップしたところでまず負けることはないと思っていたでしょう。悟空が復活して8000以上の戦闘力を得たとしても、その倍以上の戦闘力を隠しているとは微塵も思っていなかったと思います。更に大猿化で最大180000までパワーアップする余地がありますからね。ベジータとしては、強くてニューゲームで序盤の街に来たくらいの感覚だったはずです。

 しかし実際には、界王拳というチートでベジータを凌ぐ戦闘力を発揮してきた悟空。その反動でボロボロになったものの、絶対負けない楽なクエストだと思っていたところ致命傷を負わされたベジータのプライドはズタズタでした。しかも悟空だけなら大猿化で楽勝だったところ、ヤジロベーに尻尾を切られるわ元気玉を当てられるわ大猿悟飯に襲われるわ、悟空の仲間たちに煮湯を飲まされ、しかも殺されそうになったところを悟空の温情(?)に救われるという屈辱的な結末に終わりました。

 とはいえ、純粋な戦闘力での勝負はまだベジータの勝ち。悟空の界王拳も大猿化ほどの倍化がまだできなかったため、この時点ではまだベジータは「仲間の協力があったから負けただけでタイマンでは自分の方が上」と思っていたはずです。

 

(2)ナメック星

 本来のドラゴンボール入手という目的を果たすために、フリーザを追ってナメック星に向かったベジータ。地球での傷を癒したことでドドリア以上の戦闘力を獲得し、ザーボンには負けたものの治療を受けたためそのザーボンを上回る戦闘力を得ました。しかし悟空はナメック星に向かいながら何度も瀕死から回復を繰り返し、ギニュー特戦隊を圧倒する戦闘力と10倍界王拳に耐えれられる身体(つまりほぼノーリスクの大猿化)を得ていました。今思うとベジータよりも回復の回数が多いので強くなっているのは当たり前なのですが、ベジータ的には優っていた素のスペックで負けたことに強い危機感を覚えます。

 ベジータギニュー特戦隊との戦いからの回復と、クリリンに傷つけさせての回復でネイルと同化したピッコロ以上の戦闘力を獲得しますが、最終形態のフリーザにはまるで通じず、一方的に殺されてしまいました。悟空はギニュー戦後の一度の回復でベジータよりは善戦できましたが、フリーザの半分の力に10倍界王拳でまるで通じず、20倍界王拳でも痛みを感じさせるのが精一杯でした。フリーザに手も足も出なかったという意味では悟空もベジータも同じですが、決定的な差異が超サイヤ人化。ここからベジータの目標が「超サイヤ人になること」になります。

 

(3)人造人間編

 苦労の末、超サイヤ人になることに成功したベジータ。直接悟空と戦ってはいませんが、「本来の素養は自分の方が上だから、同じ超サイヤ人なら自分の方が強いはず」という自信で人造人間に挑みます。しかし勝つことができず、超サイヤ人を更に超えるための修行を開始。ここでは「どうやって超サイヤ人を超えるか」というアプローチでの勝負となり、「更に肉体を強化することでより大きな気に耐えられるようにする」というベジータに対し、「超サイヤ人状態に身体を慣らすことでより大きな気に耐えられるようにする」という悟空の方がより大きなパワーアップに成功しました。その後、同じアプローチで修行しなおしたであろうベジータは屈辱的だったでしょうね。

 しかし悟飯が更に上位の変身を行い、悟空当人は死亡してしまったことで、ベジータの目標は一旦失われ、トランクスを悟飯より強くすることが新たな目標になります。悟空が1日だけ戻ってくると知る日まで。

 

(4)ブウ編

 ベジータは一応超サイヤ人2への変身を実現していましたが、セル戦時の悟飯には及ばないと思っていたようで、あの世で修行していた悟空にも勝てる自信はなかったようです。しかし1日だけ帰ってきた悟空との勝負だけを楽しみにしていたベジータ界王神バビディ一味の争いに巻き込まれ、その状況を利用して悟空と戦うことを思い付きます。バビディにあえて洗脳されたベジータは悟空と互角の戦闘力を得て戦いを楽しみますが、それがブウを復活させてしまったため、責任を取るように自爆しました。

 その後生き返ったベジータですが、悟空が超サイヤ人3を隠していたことに怒りを覚える中、ブウと戦う悟空の姿を見て自分より何が優れているかを理解します。それが「勝つ」のではなく「負けない」ためのたゆまぬ努力。超サイヤ人2を知ったうえで、その更なる上を目指していた悟空は、目の前の敵に勝つためだけではなく、当時の悟飯やそれを上回るかもしれない未知の強敵が現れても負けないように修行していました。これまで「王子であるはずの自分の方が優れているはずなのに」と思っていたベジータは、そもそも鍛えるためのアプローチで悟空に負けていたことに気づき、素直に悟空が優れていたことを初めて認めたのでした。

 

(5)ウイスへの師事

 ビルスの登場で更なる上の領域があることを知った悟空とベジータ超サイヤ人ゴッドへの変身を経て、ビルスの師であるウイスの教えを得ることにします。ベジータにとってはこれが生まれて初めての「師匠」ですね。共に超サイヤ人ブルーへの変身を身につけ、互いに欠点を指摘された悟空とベジータは、それぞれの欠点解消を課題に修行を続けています。

 アニメや漫画での変身はとりあえず置いておいて、鳥山原作だけで考えると、当面の目標はジレンの領域への到達。無駄のない力の使い方を目指した結果、ベジータはついに変身なしの勝負で悟空に勝つことができました。この点で、ベジータは変身に頼らない勝負では悟空に少しリードしたことになります。

 

 このように、常に悟空をベンチマークの基準に置いて強くなってきたベジータは、ウイスという共通の師を得ることで悟空を上回ることに成功しました。自らの欠点を指摘され、その改善をするのも初めてだったでしょうし、悟空と共に競い合える環境になったのも初めてだったので、それまで独学続きだったベジータが初めて悟空と同じ土俵に立てたことになります。その意味では、今のところ「同じ条件なら悟空より強い」というベジータのプライドは回復できたのかもしれません。

 

 ところで、書いていて思ったのですが、悟空とベジータの初戦以降の「瀕死から回復した回数」ってどっちが多いんでしょうね。

 悟空はベジータ戦後の回復で1回、重力修行中に3回、ナメック星では1回回復しています。その後は、19号戦後の回復(仙豆食べた時は物理的なダメージは少なかったけど、その後エネルギーを吸収されて瀕死になってる)とセルジュニア戦後の回復くらいでしょうか。計7回です。ブウ編でのベジータ戦後の回復は瀕死というほどではない(傷ついてはいたが気絶していたのが主原因)のと、そもそも死人なのでカウントしなくてもいいかと思います。ブウへのトドメを指すときもドラゴンボールの力で回復していますが、瀕死ではないですね。「超」を含めると復活のF編で1回瀕死から回復しています。

 ベジータは悟空戦後の回復で1回、ザーボン戦・リクーム戦・フリーザ戦で各1回。その後18号戦、セル完全体戦で各1回ですね。ブウ編での悟空戦後の回復はやはり瀕死とは言えません。純粋ブウ戦では生き返った後瀕死になっているのでその後回復したとして1回でしょうか。トータルは7回で、実は悟空と同じです。そう考えると、「超」では悟空とあまり差がないように見えるのは妥当なのかもしれません。ベジータは「超」では瀕死から回復する描写がないので、復活のFの分だけ悟空の方が回数が多いですが、元々の戦闘力はベジータの方が上なのでそこでトントンということでしょうか。

 悟空とベジータの競い合いは界王拳、大猿、超サイヤ人化と割と変身効率の勝負になっていて、純粋な実力差は瀕死の回数でしか差がなかった可能性もあるのかもしれません(?)。

 

もし人造人間編をリメイクするなら

ドラゴンボールの人造人間編は、作者が当初メインの敵と考えたキャラが次々と変わっていき、それに伴う辻褄合わせが上手くいかずに粗の多いシナリオになってしまっています。

もし完全新作として人造人間編をリメイクするとすれば、どのような物語になると綺麗になるか、少し考えてみました。

 

まず、大前提として、「人造人間により壊滅した未来から来たトランクスにより、歴史が改変され、世界が救われる」「最後に悟空は死に、悟飯が敵を倒す」という物語の始点と終点は変えないとします。ここを変えたら別の作品になってしまいますし、以後のシナリオに続きませんからね。

 

そして敵は、最初からセルであるとします。何故かと言うと、超サイヤ人となった悟空たちより強い敵としては、他の人造人間より説得力があるからです。

バイオテクノロジーを駆使して生み出されたフリーザ以上の超生物がセルで、それにより未来は壊滅したという物語にします。

 

同時に、人造人間編が「敵のモブがいない」というのもできれば改善したいと思っています。このせいで、ゲームにする際など世界観の幅が狭くなってしまっているんですよね。

また、鳥山氏が「二人組の敵」を重用し、強そうに見える方が格下であるという原則をよく用いるので、セル自体が複数存在するというパターンでいきたいと思います。

 

つまり、敵はセル単体ではなく、セルと同様の技術で作られたバイオロイドの人造人間たちで、その目的はレッドリボン軍に代わる世界の征服か、そのための露払い(統治機構の壊滅)ですかね。「スーパーヒーロー」でレッドリボン軍が存続していたことが明らかになったので、彼らのための行動としても良いと思います。

特に強い個体がセルで、その相棒となるもう一人の人造人間が当初からいたとします。これは、人造人間20号に相当するドクター・ゲロ自身が変異した姿として良いと思います。ゼロから造ったバイオロイド(ナメック星人フリーザ親子など異形の生物を含む)と、既存の人間を改造して造った(仮面ライダー的な?)バイオロイド(地球人と似た生物であるサイヤ人の細胞のみ使用)がいるとすれば、18号も出すことができます(いないとクリリンが結婚できないので)。

 

トランクスが未来で戦っていた相手もセルです。未来ではセル以外の人造人間は倒されており、セルだけが手に負えなくなった状態が良いでしょう。

現代では各地で行動を開始した人造人間たちをZ戦士が分散して迎え撃つことに。悟空はセルと戦うも、心臓病が発病し勝てる相手に勝てないというのは原作の19号戦と同じ。この時点では、セルも超サイヤ人に勝るほどの強さではなく、現れたベジータには勝てない点は19号と同じ。ただ死ぬことはなく、ゲロと共に逃走します。

セルはここでゲロと決裂し、ゲロを吸収してパワーアップ。17号と18号を吸収して完全体になるのではなく、同種の人造人間はすべて吸収できることにしましょう。ナメック星人が同化するようなものですね。

パワーアップしたセルはベジータたちを圧倒。セルは十分強くなったとしてベジータたちにとどめを刺さず、悟空との再戦(瀕死から復活してパワーアップしていることを期待)を目指して移動を開始するところ、ピッコロが神様と融合してそれを阻止するも取り逃がすところは原作通り。その間に復活した悟空たちは精神と時の部屋で修行するのも同様です。

その後は割と原作通りでいける気がするんですが、ここで位置づけに困るのが18号の存在。クリリンが18号に情が移るも結局セルに吸収されてしまう、というくだりは残したいので、各地で戦う人造人間の一人が18号で、クリリンが戦う相手だったということにしましょうか。

セルは神と融合したピッコロに勝てないと悟り、撤退して仲間の人造人間たちを吸収してパワーアップすることを企み、まず原作通り17号を吸収してピッコロを倒し、次に修行を終えてパワーアップしたベジータに勝てないため18号を吸収、というのは原作と同じ流れです。以降も大体同じですね。

 

原作でセルが未来から来たように、トランクスの未来のセルもタイムスリップしてきて、現代のセルと融合してさらにパワーアップしてしまうという展開もなしではないのですが、それをやると未来に帰ったトランクスの無双が描けなくなるので悩ましいところです。いずれにせよセルがまた別の未来からくることで世界線がややこしくなるのは避けたいところですね。

 

シナリオ展開はそのくらいで良いとして、あと変更したいのはキャラクターの動機ですね。「セルがやっつける悪役としての説得力が薄い」「悟空が無理矢理悟飯の覚醒を促す不自然さ」「悟空の死やその後のセルの復活のご都合主義」あたりは直したいところです。

まずセルというキャラクターに関しては、インプットされているのが「悟空を抹殺し、その後社会を破壊すること」ということにしてみます。社会の破壊というのは、要するにレッドリボン軍が世界を征服できるよう、地球の統治機構を破壊して無政府状態にするということですね。トランクスの未来では悟空がすでに死んでいるため、この社会の破壊を実行している状態ということです。

悟飯の覚醒を促す悟空に関しては、もう少し切羽詰まった状況にしたいですね。余裕しゃくしゃくで当初から悟飯に勝たせる気満々の悟空ではなく、悟空が明確に悟飯を鍛え上げて悟空以上の実力を引き出したものの、それを思い通りにコントロールできないため、戦いの中でその力が自然と出てくることを期待して参戦させるも、「本当は戦いたくない」という気持ちがブロックになっていたために力を発揮できず、それが16号の言葉で引き出されるという展開ですかね。

悟空の死に関しては、セルのプログラムが悟空の抹殺優先であるが故に、悟飯に追い詰められても悟空を殺すことを優先し、悟空との自爆を試みた際に悟空が周囲を巻き込まないために瞬間移動してみんなを守るという展開ですかね。その後の再生に関しては、16号もバイオロイドだとして、その16号を吸収してパワーアップするというのが妥当でしょうか。16号は悟飯覚醒時に死亡しないといけませんが、バイオロイドなので再生能力がある、セルが保険として完全に殺していなかったなど考えようはあるかなと思います。

 

つまり人造人間編リメイクのアイデアの要点はこのようになります。

  • 敵はバイオロイドの人造人間複数、多くは人間と大差ない外見だがセルは特別異形の存在
  • セルは他の人造人間を吸収(同化)してパワーアップしていく
  • セルの目的は悟空の抹殺(悟空より強くなること)、その次に世界の壊滅

 

悟飯が最後にしかスポットライトが当たらないのもどうかと思うので、何か戦いたくなくなる要素を入れたいですね。例えば、セルとゲロ以外の人造人間は無理矢理改造された存在なので、実は話せば分かり合える(18号や16号ともそれで和解)ことを知り、戦い以外の解決方法を知るとかですね。

原作のこのキャラだと分かるように18号とか16号と言っていますが、これもセルのように別の名前を付けてもいいのかなと思います。そもそもモブの人造人間の呼び方も欲しいですね。ガンマみたいなやつ。

 

原作のセル編やブウ編は、タイマン勝負の方が少年漫画的に映えるので、一人の強力な敵に味方キャラが次々と戦いを挑むパターンばかりになってしまっていましたが、フリーザ編のように複数のキャラが複数の場所を移動する展開でも面白い話は作れるので、特にセルが完全体になるまではそういう話にできたら面白いんじゃないかと思います。

 

ビルスが老界王神を封印した理由

 老界王神をゼットソードに封印したのはビルスであると鳥山明氏自身が後から設定しましたが、そもそも何故封印してしまったのでしょうか。些細な言い争いからだったと言いますが、だとしても封印してしまうというのはやや酷すぎる気がします。

 もちろん、界王神を殺してしまうと自身も死んでしまうため、相手を無力化するためには封印するしかないのだと思いますが、ここから思い起こされたのが、ピッコロ大魔王と神様の関係です。シェン=神は、自殺をせずピッコロを倒す手段として、魔封波を使用しています。この場合はピッコロの方が絶対悪だったので、界王神と破壊神の関係とは異なりますが、自分の分身と相容れず、殺せないから封印するという解決手段をとったという意味では、ビルスの行動と神の行動は一緒です。

 ところで、老界王神は自身を封印した者を「やたら強くて悪い奴」と表現しました。ビルスは作中描写から決して悪い奴ではないのですが、界王神視点では「やたら悪い破壊神」であった可能性は十分あります。そもそも界王神と喧嘩して封印してしまうような破壊神は、同じ世界のバランスを保つために存在する神として出来が良いとは言えません。魔人ブウフリーザを放置していたことも含め、神としては優秀ではなかったと言えます。破壊神から神としての役割を取ったら、「やたら強くて悪い」だけの存在になってしまい、それが老界王神から見たビルスだったのでしょう。

 よく言われるのが老界王神の後のセリフ「今の魔人ブウほどではない」という表現で、ビルスはブウより遥かに強いので矛盾しているのではないかということですが、そもそも当時のビルスがブウより強くなかった可能性もあるのではないかと思います。なにしろ、7500万年も前の話ですからね。いくら寿命が長いとは言え、その頃からビルスが全く強くなっていないというのも違和感があります。ウイスの元で修行したという設定もありますからね。もちろん、破壊神である以上「破壊」の力はあるでしょうから、ブウを消滅させることは可能だったと思いますが。

 つまり老界王神にとってビルスは「やたら強いだけで神の役割を果たさない悪い破壊神」であり、「当時はブウほど強くもないし、ブウに比べれば凶悪な存在ではなかった」のではないかと思います。

 

 一方のビルスにとっては、そのように自分を悪く思っている老界王神が気に食わなかったのだと思いますが、封印するほどだったのでしょうか。まず、ビルス界王神を殺せませんので、実力で黙らせることはできません。しかも、老界王神は魔女とポタラで融合しているので多彩な術を使うことができます。これがビルスにとって小賢しかったこともあるでしょう。そして封印の決め手となった能力が老界王神の「限界以上に潜在能力を引き出す」力だったとして、それがビルスの脅威になるとすれば、おそらく老界王神の力でビルス以上の戦闘能力を持った戦士を生み出すことだったのかなと思います。どんなに強くてもビルスの破壊の力でどうにでもなりそうですが、そのような戦士を複数生み出されると話は変わってきます。

 つまり、老界王神ビルスにこう言った可能性があります。お前が破壊神としての役割をちゃんと果たさないなら、次世代の界王神候補たちの潜在能力を引き出して、破壊神以上の戦闘能力を与え、彼らに破壊神の役割を行わせる。お前にはもう頼らない、と。

 こう考えると、その後東西南北の界王神と大界王神がいた理由とも繋がります。破壊神との和解を諦め、界王神だけで世界の秩序を維持するために界王神の数を増やしたのです。しかし老界王神が封印されてしまったために、予定していた潜在能力を引き出す行為は行われず、残った界王神たちだけでは魔人ブウを倒すことはできなかったのでしょう。

 この間、ビルスウイスと共に修行し、ブウをはるかに超える力を身につけたことになるはずですが、それでもブウを倒す役割を果たさなかったのは、以前の考察の通りビビディやバビディに眠らされてしまったからなのだと思いたいところです。

 これらの考察が正しいとすれば、ビルスは老界王神の力を恐れ、ビビディやバビディの魔力に屈したことになるので、戦闘力は高いが搦手の術に弱い、脳筋タイプのキャラということになりますね…(笑)。案外悟空とは似たもの同士なのかもしれません。だからこそ、悟空と戦うことを楽しんでいたのでしょうか。ウイスが悟空やベジータを好んで鍛えているのも、性格的にかつてのビルスに通じる部分があるからなのかもしれません。もし悟空が破壊神になったとしても、その役割を律儀に果たしそうには見えませんしね。ベジータは王子なのでもう少し真面目にやるかもしれませんが。

 

 

身勝手の極意と超サイヤ人ゴッドの関係

 悟空の現状最強の形態である「身勝手の極意」ですが、本来は「極意」の名の通り形態というよりは技に近いものであり、それ故にコミック版「超」では亀仙人がそれに近い技を披露していたりします。

 また、「力の大会」では最強の戦士であったジレンは、映画「スーパーヒーロー」で戦闘力自体は悟空やベジータと大差なく、作中で大きな実力差があったのは力の使い方の無駄の無さ(アニメの演出ではそうは見えませんでしたが)によるものということが語られていることもあり、基本的に「超サイヤ人ゴッド」以上の領域では、戦闘力の高さよりも気の扱いの技巧の差により実力差が生じていると考えることができます。

 しかし、悟空の身勝手の極意はどちらかと言うと「変身」に近い扱いで、任意発動がまだできないものの超サイヤ人ゴッドの上位形態(髪が逆立たないのでブルーの延長ではない)のように見えなくもありません。実際のところ、身勝手の極意とは何なのでしょうか。

 

 その本質は、「復活のF」でウイスが説明していたように、「考えるよりも先に身体が勝手に動く状態」であり、無我の境地のような精神状態の類と考えた方が良いのかなと思います。見た目はあまり変わらない「兆」の状態の方がよりそれっぽく、銀髪に変化する完全な状態はある意味気の質が変化している状態と言え、超サイヤ人とは別種の気を纏うことで身勝手の極意を扱える状態をコントロールしていると考えることもできます。

 ジレンは身勝手の極意を会得しているわけではないにもかかわらず、身勝手の極意の状態の悟空と互角に戦えていたことから、力の使い方を限りなく極めていたと考えられます。悟空の身勝手の極意は反動が非常に大きいことから、ある意味界王拳のように体に負担をかけることで無理矢理極意の状態を維持していると考えられ、それではジレンを一瞬圧倒できても勝つのは難しかったでしょう(ナメック星での悟空とフリーザの逆パターン)。

 悟空は映画「ブロリー」で超サイヤ人ゴッドになった際、相手の力をいなすような戦い方をしていましたが、おそらくこの方向性の延長上に身勝手の極意があると考えられます。超サイヤ人ブルーは、超サイヤ人と同様に気を常時纏うことで戦闘力の上昇を実現している形態ですが、この戦い方ではパワーロスが大きく、ジレンのような領域の戦士には通用しないということになります。超サイヤ人ゴッドは、神の気を得るとっかかりのようなもので、その気の練り方を覚えれば、変身せずともかつての超サイヤ人3以上の戦闘力を発揮することが可能でしたが、そのような平時でも精度の高い気を練ることができる領域の先に身勝手の極意があるのではないかと思います。

 かつて悟空は常時超サイヤ人でいられるようになることでより高い戦闘力の発揮が可能となりましたが、常時神の気を纏うくらいのことはできないと、身勝手の極意を極めるのは難しいように思います。少なくとも、反動が大きすぎる戦い方は本来の身勝手の極意の目指すところではないと思われ、銀髪の形態は一時的に極めた状態を維持するためのテクニックでしかないのかなと思います。超サイヤ人3みたいに後から邪道な変身として扱われるかもしれません。

 そもそも、超サイヤ人ゴッドは「神の気」を会得しているだけで、気の純度が上がっている以外に大きな違いはなく、必ずしも身勝手の極意を会得する条件ではないと考えられます。ただ、ウイスビルスは神の気を得て身勝手の極意を習得しているのでしょうから、純度の高い気を纏った方が身勝手の極意には近づきやすいのかもしれません。しかしジレンは神の気を得ているようでもなければ身勝手の極意を使用していたわけでもなく、単純に気の使い方、力の使い方を極めているだけの人だったので、神の気や身勝手の極意だけが更なる強さを得るための手段ではありません。

 

 個人的に、身勝手の極意に一番近かったのは映画「超サイヤ人孫悟空」に登場した擬似超サイヤ人だったんじゃないかと思っています。無意識の状態で本能的に相手を攻撃するという戦い方は、身勝手の極意やジレンにも通じるものがあります。その意味では、身勝手の極意は理屈とテクニックで行うものではなく、本能的なものに頼る部分が大きく、おそらく神の気を纏っていないであろう悟飯ビーストやブロリーが、神の気を持つ超サイヤ人ブルーよりも上位であるように見えるのもその点にあるのかもしれません。

 その意味では、悟空が身勝手の極意を完全に会得するためには、大猿の力が必要だったりする可能性もあるのかなと思います。それだと超サイヤ人4+身勝手の極意というヒーローズでも成し得ない究極の形態になりそうですが。

 

 いずれにせよ、身勝手の極意は超サイヤ人ゴッドの気を下地に、無意識で戦う力が必要になると考えられます。同等の極意を得るにも、神の気に匹敵する戦闘力を無駄のない戦い方法で行使する必要があり、今後のドラゴンボールのインフレの方向性はここにありそうです。