どらごんぼーる考察

がんだまぁBlogからドラゴンボール記事を移植しました。以後ドラゴンボール考察はここで展開します。

人造人間が現れるまでの3年間の重要性

メカフリーザ撃破から人造人間登場まで、3年の年月が経過しているわけですが、この3年間のミッシングリンクは割と重要なんじゃないかということに思い至りました。

というのも、ラディッツが現れて以降、悟空と悟飯はこの3年間+精神と時の部屋の1年間しか一緒に修行した時間がないのです。ラディッツ襲来前は修行していませんでしたし、ブウを倒した後は悟飯が学問の道に進んでいます。そのため、悟空がちゃんと悟飯と武道家として向き合ったのは、ほとんどこの3年間だけなんです。

更に、悟空とピッコロが一緒に修行したのもこの時期だけです。悟空はラディッツ戦以降、原作ではほとんどピッコロと会話していません(フリーザ最終形態戦のわずかな間のみ)。人造人間編でも悟空とピッコロは前線に出るタイミングがすれ違い続けているので、セルゲームまで同じ戦場に並び立つことはありませんでした。

要するに、悟空・悟飯・ピッコロが3人で過ごすという、悟飯にとって最も幸せだったであろう時間が、この3年間だけだったと言っても過言ではないのです。

そう考えると、セルゲーム時にセルに悟飯を怒らせようと仕向ける悟空と、それを咎めるピッコロの関係にももっと深い意味が感じられるとは言えないでしょうか。

 

この3年間の修行がどんな感じであったかは、あまりはっきりとは明言されていません。アニメでも運転免許を取ろうとしたくらいで大した補完がなく、コミックの扉絵で、超サイヤ人になった悟空が悟飯とピッコロの2人を相手にしているカットがあったくらいです。

しかし当時の実力差を考えると、確かに超サイヤ人になった悟空は悟飯とピッコロが2人がかりになっても勝てないレベルだったでしょうから、そういう意味では悟空にとってちゃんとした修行になっていたかは怪しいところです。実際精神と時の部屋で修行するまでは、悟空が明確にレベルアップしていた印象はありませんでした。新技も特になかったし。どちらかというと、超サイヤ人の力をより自在にコントロールする修行をしていたのかもしれません。

ピッコロは20号を圧倒できるほどレベルアップしていましたので、超サイヤ人の悟空を相手に戦うことでかなり成長できたと考えられます。悟飯は精神と時の部屋に入る前の実力が全く不明なので分かりませんが、ピッコロと同等レベルには強かったのかもしれません(フリーザ第3形態戦の時点でブチ切れたらピッコロに負けていなそうだったので)。

 

また戦闘力以上に、3人の人間的な交流はかなり深まったんじゃないかと思います。悟空とピッコロはラディッツ戦の時点ではまだピッコロが悟空の命を狙う関係で、それ以降の交流はありませんでした。悟飯にとっては父親である悟空と、師匠であるピッコロの違いを明確に感じられる時期だったはずです。おそらく悟飯に対してはピッコロのほうが厳しい態度で接するも、悟空よりも気持ちに寄り添える関係であったように思います。年齢的にはピッコロのほうが悟飯に近いですからね。

そういう意味では、悟飯とピッコロの関係性が深まったのもこの時期だったはずです。当時劇場版の影響もあり悟飯とピッコロは親密なイメージでしたが、原作を考慮するとナッパ戦の最後でようやくピッコロが悟飯への情を露わにしただけで、悟飯のピッコロへの信頼はともかく、ピッコロの悟飯への優しさはそこまで強く出ていません(フリーザとの決戦中でしたし…)。むしろそれまで悟飯に対してツンデレ気味だったピッコロの態度が軟化していく時期だったんじゃないかと思います。

 

悟空と悟飯の関係に関しては、ちゃんと2人で修行したのは精神と時の部屋からだったようにも見えるので、そんなに2人が組手をする機会はなかったのかもしれません。悟飯はラディッツが来るまでに悟飯と修行をしたことがなかったようなので、悟飯にとっても父は修行の相手ではないという固定観念を持っていた可能性があります。また、ただでさえ超サイヤ人という次元の違う存在になってしまっているため、対等に修業をするというイメージは持ちにくかったという側面もあったのかもしれません。

悟空の死後は何かと悟空の服を着たがった悟飯が、人造人間編ではまだピッコロの服を着ているということは、悟飯にとってはまだ師匠はピッコロであるという自覚があったと考えられます。そのことからも、主な組手の相手は悟空とピッコロ、悟飯とピッコロという関係で、悟空と悟飯が直接戦うことはあまり多くなかったのかもしれませんね。まぁ、精神と時の部屋での修業を経ても悟飯はピッコロの服を欲しがったのですが、その時点では悟空の服は悟空のものというより、亀仙流のものという意識もあったんだとは思います、悟飯は亀仙人の教えは受けていないですし、悟空の服を着るとクリリンやヤムチャともお揃いになっちゃいますからね。

 

悟空とピッコロの関係についても、この時期に大きく変わった可能性が高いです。フリーザ戦までの悟空とピッコロの関係は、ラディッツ戦の時と同じまま、再戦を約束したライバルだったはずです。その再戦は修行期間に果たされたはずですが、超サイヤ人という圧倒的な差が生じたため、ピッコロは悟空に完全に負けてしまっていたはずです。ベジータほどのプライドはなかったかもしれませんが、それでも歯がゆい思いはあったはずです。そのため、最終的にピッコロが悟空に匹敵する力を得るには神様と同化するしかないという考えには、もうこの時点で至っていたんじゃないかと思います。それはドラゴンボールを失うのと同義であるため、本当に世界が危機に瀕した時の最終手段であるとも考えていたでしょう。

悟飯との関係も含めて、ピッコロにとって悟空は「いつか超えるべきライバル」から一歩離れた存在になり、いなくなると悟飯が悲しむ「悟飯の父」になっていたと考えられます。かつて殺すべき宿敵だったところ、悟飯寄りの目線で悟空を見ることができるようになったことで、セルゲーム時の発言に繋がっていったのではないでしょうか。だとすると、あの時悟空にアドバイスできたのはまさにピッコロだけだったはずです。クリリンやヤムチャでは、悟空に近い世代の大人としてアドバイスすることはできても、悟飯側の目線になることはできません。

 

この3年間のドラマがもっと描かれていれば、セル戦がより味わい深くなるような気がするので、ここのミッシングリンクを新作で描いてくれてもいいんじゃないかという気がしました。悟飯がピッコロにだけ「お父さんは僕が危ない時に絶対助けに来てくれるんだ(実際ナッパ戦、リクーム戦、フリーザ戦の実例がある)」って語るエピソードを入れて、セル戦で悟飯を戦わせる悟空にピッコロが怒るのに繋げるとかね。まぁ、原作者がいない以上あんまり期待はできませんが…。

 

なお、この悟飯にとって幸せな3年間は、トランクスの未来世界における悟飯にはなかった時間でもあったと言えます。悟空は途中で心臓病で死んでしまいますし、人造人間の襲来を知らないので修行していないことから、ピッコロと修行する機会もほとんどなかったはずです(チチが勉強に専念させているはず)。そう考えると、未来の悟飯が余計に悲惨に感じられてしまいますね。

DAIMAはどうすればもっと面白くできたか

 鳥山明最後の原作作品である、ドラゴンボールDAIMA。原作者ならではの大量の新規設定の追加でオタク的には面白かったですが、娯楽アニメとしても楽しめたかというと微妙なところがありました。鳥山プロットを神聖視しすぎたようにも思え、もっとアニメスタッフ側で面白くなる加工をしても良かったような気がしますので、ファン目線で少し考えてみました。

 

(1)悟空のデバフの明確化

 GT同様悟空が子供になるのですが、手足が短くなったので如意棒を使う、気のコントロールが以前より上手くできなくなり、その分パワーダウンしているという描写はあったものの、それ以上の作劇上の意味は「悟空が子供のほうがコミカル度が増す」という点くらいしかありませんでした。

 もっと明確に、悟空が弱くなっていて、段々力を取り戻すという展開がほしかったなと思います。最終回後の感想でも書きましたが、GTでは子供の悟空が瞬間移動を使えなくなっていたように、様々な特技を使えなくなっていて敵に苦戦するものの、だんだん取り戻していくという描写にすべきだったと思います。かめはめ波、舞空術、超サイヤ人化、瞬間移動と、原作で習得した順番に使えるようになっていくとエモかったように思います。超サイヤ人になれないから界王拳を使うなんて描写があってもよかったかもしれませんね。子供の身体では負担が大きすぎて無理かもしれませんが。

 

(2)悟空とパンジの物語に絞る

 これも最終回後の感想で書きましたが、DAIMAの新キャラクターで明確にキャラが立っていたのはパンジくらいだったので、いっそ彼女と悟空の二人旅にして、悟空とブルマのリブートみたいにした方が面白かったんじゃないかと思います。正直界王神はメインキャラになるほどの個性はありませんでしたし、グロリオはヤムチャのようなポジションにして、最初は敵として(当時の悟空では)非常に苦戦する相手として描いた上で仲間になれば、もう少し悟空とグロリオの関係性も強くできたように思います。最初はシナリオ通りみんなで魔界に来るも、途中でトラブルが起きて悟空がはぐれるという展開にすればそれで良かったと思いますね。

 パンジの物語は父親との関係がメインなので、それが悟空の父親としての自覚を促してその後の物語に続く、という感じにしても良いと思います。そこにベジータが絡んできてもいいかもしれません。多分父親の自覚は、ベジータの方が強いので。

 

(3)悟空以外の子供化の影響を明確に

 悟空こそ子供になった影響が描かれていましたが、他のキャラクターは全く影響が分かりませんでした。界王神は当初の通り魔法のような技を使えていましたし、ベジータやピッコロはただ声優が変わっただけのようにしか見えませんでした。もちろんパワーダウンはしていたんでしょうけど、最後にピッコロさんがやらかしたのも子供化の影響のせいということにしておけばもう少しみんな納得できたような気もします。

 例えば界王神=ナハレは界王神としての実力でアリンスやデゲスを止めようとするもパワーダウンしてて負けちゃうとか、ベジータがその時点の悟空よりも強くて「オレの方がガキの頃から色々な技を使えた」みたいな優位性を出すとか、何か一捻りほしかったような気がします。

 

(4)ピッコロとネバの絡みを増やす

 ベジータは色々見せ場がありましたが、ピッコロはマジで魔界に来た意味がほとんどなく、最後にミスるだけの役割しかありませんでした。せっかく真のナメック人の故郷に来たというのに、そこに関するエピソードに何も絡まないのはあまりにも惜しすぎます。大魔王という単語も出てくるのにピッコロ大魔王絡みのネタが何もなかったのも解せません。

 ネバもボケ老人のように見せてすごい人だったというだけだったので、例えばネバの悪の分身体みたいなのを出して、そいつもダーブラの後釜を狙っていて、最終的に同化して真の力を取り戻して終盤に悟空に力を与えるとか、そういうのでピッコロが話に絡む余地を与えても良かったのになぁ、とは思います。

 

(5)デゲスがサードアイを得る

 やっぱりゴマーはラスボスの器ではなかったので(笑)。ザマスの二番煎じっぽくなっちゃいますが、むしろザマスのリベンジ的な意味でこっちをラスボスにしてよかったんじゃないかと思います。退場の流れがあまりにも呆気なさ過ぎたので。

 ゴマーがサードアイを得る→子供のベジータが戦う→ピッコロの活躍でサードアイが外れる→デゲスがそれを得てパワーアップ→子供の悟空が戦う→悟空が大人に戻る→サードアイ外しに失敗→魔人クゥが成功するの流れで良かったんじゃないでしょうか。

 

 大きく分けてこれくらいやるだけで各キャラの活躍度やバトルの盛り上がりはだいぶ変わったんじゃないかという気がします。鳥山氏は編集者の修正があって初めて名作を生んでいた部分もあるんで、単に原作を丸投げするだけでなく、そこにディスカッションで別の人の意見を混ぜて良いものを作る、という作業があってよかったように思います。やっていたのかもしれませんが、足りていなかったかなと。

 「神と神」は元々他のスタッフが考案したプロットを鳥山氏が修正したものでしたが、「復活のF」はほぼ鳥山原作で展開に批判もありました。「ブロリー」はアニメオリジナルのバーダック・ブロリー・ゴジータのエピソードを鳥山氏が再編集したようなものですし、やはり鳥山氏とそれ以外のスタッフのアイデアの両方があって良い作品が生まれているように思えます。「スーパーヒーロー」はどこまで鳥山氏以外のアイデアが入っていたか分かりませんが、最後の魔貫光殺砲は鳥山氏のアイデアだとは思えない(基本的に悟空以外のキャラの技を忘れているので)ので、ファンが感動したところほど鳥山氏以外のアイデアが入ってるような気がします。

 もう鳥山氏の新しいアイデアを他のスタッフが修正という流れで作品を作れない以上、既存の鳥山作品のリメイクに向かうしかないのはなんとなく理解できますが、その方向に行くなら、DAIMAもいつかリメイクしてほしいところです。

 

ドラゴンボールで与えられる「永遠の命」の定義

 ドラゴンボールで度々悪役が叶えようとする願い、「永遠の命」。

 実際に叶えたことがあるのは、劇場版ZのガーリックJr.と、超のザマスだけですが、具体的にどんな理屈で不死身になっているのかよく分からないので、考察してみたいと思います。

 

 まずガーリックJr.に関しては、不老不死になっていますが、具体的に致死量の大ダメージを受けた描写がないため、不死のメカニズムを判断する材料がありません。

 ザマスに関しては、何度も致死量のダメージを受けて無傷で再生している描写があるので、不死身というのは無限再生能力を備えていることが分かります。

 そこで思い当たるのが、ドラゴンボールには「死者の肉体を修復する」力があるということです。過去にドラゴンボールによる死者復活の原理を考察した際に、肉体の再生程度は願い事の内容次第で決まるものであり、実際には神龍は自由に肉体を再生する能力があると考えました。そのことから考えると、ドラゴンボールによる願い事の力には元々肉体の再生能力があるので、それを無限に実行できる能力を得たのがザマスと言えるのかなと思います。ドラゴンボールの世界では、おそらく肉体を失うと魂があの世に行き、それが「死」であると定義されているように思われるのですが、その肉体が永遠に失われない仕組みになっているため、決して「死ぬ=あの世へ行く」ことはない、ということです。

 不老不死についても同じで、老いがないというのは、常時新しい肉体に更新され続けているということで、身体が老化する度に修復されているということなのかなと思います。その間の代謝がどうなっているかはよく分かりませんが、そもそも食べなくても死なないんでしょうから、代謝していないんでしょうかね。

 

 では、ドラゴンボールで不死になった者を殺す手段はないのでしょうか。肉体の再生には本人の戦闘力は影響しないので、神龍の力を上回る戦闘力をもってしても殺すのは無理でしょう。一番簡単なのはドラゴンボールで不死の解除を願うことかなと思います。ただ下位の神龍の力では上位の神龍の力を上書きできないかもしれないので、超ドラゴンボールの力で不死身になったザマスは、超ドラゴンボールかそれ以上の力の持ち主(大神官とか?)でなければ解除できないでしょう。

 魔人ブウも再生能力を持っていますが、完全に消滅させれば殺すことが可能です。しかしザマスは消滅させても倒すことができなかったので、神龍の力でなければ相殺は不可能である可能性が高いです。

 ドラゴンボールの物語の中では、ドラゴンボールの力で敵を無力化するのはある意味ご法度(悟空が基本的に拒否するので)なのですが、敵がそのご法度を使ってきてしまったようなものなので、本気で解決するなら同じドラゴンボールの力で対抗するしかなかったのかなと思います。

 

 抜け道として、GT設定がありなら、ドラゴンボールの力は使う度にマイナスエネルギーを発生させていることになるので、不死身から再生する度にドラゴンボールの力を使っているに等しいザマスは、その都度マイナスエネルギーを生み出している可能性があります。これが代償となって自らを滅ぼす方向に話を持っていくことができれば、もう少しザマス編の結末を変えることができたかもしれません。その場合は本気でGT設定を導入することになるので、どんなにドラゴンボール世界が枝分かれしても邪悪龍が生まれることになってしまいますが。

 

 さて、永遠の命を願ったキャラクターは、原作ではベジータとフリーザが代表的(ピッコロ大魔王や劇場版のスラッグは永遠の若さだけを願ったので死んでしまいました)が、彼らがその願いを叶えられたらどうなっていたでしょうか。

 ベジータはフリーザに対抗する手段として不老不死を望んでいました(最初は「永久的に戦闘が楽しめる」ことが目的でしたが)。ベジータがいくら死ななくなっても、当時のフリーザとの実力差は天と地ほどの差がありましたので、超の合体前のザマスのように、厄介なだけでの存在にしかなれなかった気がしますが、いくらでも瀕死からの回復ができることと、いつか超サイヤ人に目覚める日が来るかもしれないので、確かに不老不死になったほうが勝ち目はあったでしょう。特に瀕死からの回復能力と無限再生能力は相性が良く(自爆後の再生でパワーアップしたセルのようなもの)、最終的には最強の戦士になれたかもしれません。ただ永遠に死なないということはいつか自我が壊れてしまいそうで、パワーアップも無限に続けていくと、いつかブロリーのような存在になってしまうかもしれません。

 フリーザの場合は、不老不死になってしまったら超サイヤ人の悟空でも倒すことができなくなったでしょうから、だいぶ厄介です。ベジータ同様、死なないだけで勝つことはできないかもしれませんが、修行すればゴールデン化できることが分かったので、同じ時間だけ同じ修行をすれば悟空たちよりフリーザの方が強くなる可能性が高いです(実際ブラックフリーザは悟空やベジータより強くなっちゃったし)。それこそ、ドラゴンボールの願いで上書きするしか勝ち目はないかもしれません。

 

 ところでふと思ったのですが、不死になった者を界王神や破壊神にしたら、その片割れが死んだ場合どうなるんでしょうね。例えばザマスを界王神に強制的に任命した上で、片割れの破壊神が死んだらザマスは死ぬんでしょうか。ドラゴンボールの願いと神のルールのどっちが優先されるかということになりますが、これは界王神や破壊神の任命権を誰が持っているかにもよりそうです。それが全王や大神官なのであれば、超ドラゴンボールの力とどっちが上かということになります。さすがに全王の方が上だと思いたいのですが…。

 そう考えるとゴクウブラック編の結末として、ザマスを界王神にして、ブラックの方を破壊神にして、ブラックを殺せばザマスも死ぬ、という展開も可能だったのかなという気もします。同じ全王の力を借りるにしても、世界を消滅させるよりはまともな終わり方にできたかもしれません。

「神と神」以降の悟空とベジータの関係性

 映画「神と神」の物語は、一言で言えば「目覚めたビルスが超サイヤ人ゴッドと戦いたがるので、悟空がそれになって更に上の領域を知る話」であり、それ以上のドラマはほとんどないのですが、もう一つ明確なドラマがあって、それが「ベジータがプライドを捨てて家族(妻)を守ろうとする」という点です。

 「楽しいビンゴ」でネタあるいはキャラ崩壊扱いされているベジータの行動ですが、これはブウ編で自爆してブルマとトランクスを守ろうとした行動の延長であり、ビルスの強さを知っており、絶対に勝てないと分かっている相手からどうにか家族を守ろうとした苦心の結果として描かれています。それでも、ブルマに手をあげられた際は本気で怒り、勝てないと分かっているビルスに限界を超えた力を発揮して立ち向かっています。セルに未来のトランクスが殺された時と違い、パワーアップしているのが特徴です。

 更に、これらのこれまでの殻を破るベジータの行動に触発され、悟空が自力ではなく他力での超サイヤ人ゴッド化を受け入れることになったと悟空自身に言わせているあたり、鳥山氏が悟空を当初の(鳥山氏以外が作成した)プロット通り仲間の協力を得て超サイヤ人ゴッドになるために必要なエピソードとしてベジータの描写を入れたことが伺えます。

 

 原作のブウ編では、「お前がナンバーワンだ」とベジータが悟空を認めたところで終わっています。それに対し、「神と神」では悟空がベジータを認めるエピソードとなっているのです。ベジータが、ずっと認めてこなかった「カカロットは自分よりも優れたサイヤ人である」ことを受け入れることでわだかまりを解いたのに対し、悟空がベジータを認めた理由は「他人のために自分のプライドを捨てることができる」ということでした。つまり、悟空にとってもそれは難しいことだったということです。

 悟空は他人のためにドラゴンボールを使ったり、他人が傷つけられて怒ったりするので、他人のためにプライドを捨てることもできそうな印象がありますが、勝負に対するこだわり、自力で強くなることに対するこだわりは非常に強いです。だからジャッキー・チュンとの決勝戦でも最後まで降参しませんでしたし、マジュニアとの戦いは武道会の勝ち負けだけにこだわっていましたし、人造人間が動き出す前にドクター・ゲロをやっつけることはしませんでしたし、ブウとの決戦前にポタラを破壊しました。ある程度のことは「ま、いいか」で済ませる悟空が絶対に譲れない一線がそこだったのですが、それをベジータが捨てられたということに感銘を覚えたということなのです。

 悟空にとって、ベジータは「強さへのこだわり」という点では自分と同類と認識しており、むしろ自力で強くなる姿勢については尊敬の念を抱いていたと考えられます。それがフリーザに殺された後の埋葬行動や、精神と時の部屋で修行中のベジータを天才と評したことへと繋がっています。悟空にとってのサイヤ人の誇りとは、そこにあったのだろうと推測されます。それを自分より先に捨てることができたからこそ、悟空はベジータを本当の意味で「自分より優れた人間である」認めたのかもしれません。

 

 その後悟空とベジータは共にウイスの元で修行するようになりますが、これは悟空とベジータが互いに認め合ったからこそ、互いを組手の相手として認識できるようになったからだとも言えます。そしてウイスの指摘により、本人たちも認識していなかったそれぞれの欠点を互いに共有することで、更に関係は深まったと言えます。悟空が油断してフリーザに倒された後にベジータと交代する際の台詞のやりとりは、それまでの2人の関係からは考えられないほど穏やかです(互いに「フリーザには絶対負けない」という自信が過信となったという意味ではまだまだなのですが)。

 そのため、次の「ブロリー」では2人は自然に共闘し、ベジータはフュージョンさえ最小限の拒否姿勢で受け入れます。彼らはできればタイマンでブロリーに勝ちたかったのですが、ブロリーの暴走が止められないレベルに突入し、自分たちの闘争本能からくる欲求を捨てて、ブウとの決戦では切り捨てた融合の選択肢を取るわけです。

 

 そういう意味では、「神と神」から「ブロリー」までの物語は、ブウ編で一度捨てた融合という選択肢を、悟空とベジータが取り戻すまでの物語だったとも言えます。ここで悟空とベジータの和解は完全に済んでいるので、続く「スーパーヒーロー」では話の裏側で修行しているだけの立ち位置になり、しかもベジータが悟空に勝つという結末で終わるとも言えます。初戦の地球での戦いでは大猿化で勝って以降、パワーアップ競争で悟空に負け続けたベジータがようやく勝つことで、負け続けるベジータの物語が悟空と対等になって終わったとも言えます。

 

 つまり、フリーザ編以降、ブウ編までのベジータは「なんとかしてカカロットに勝ちたい」と思っていたところ、「あ、やっぱ勝てん」となって終わるのですが、そのベジータがこだわりを捨てることで、悟空自身が「あ、ベジータの方がオラより凄いかも」という一面を認め、完全に対等な関係になる過程が「神と神」以降であったとも言えるわけです。

 「神と神」以降、厳密にはブウとの最終決戦以降、悟空とベジータは実質的な「バディ」として地球の脅威となる強敵と戦う話が続くわけですが、それも互いが認め合った結果であり、それまでの物語の積み重ねによってそうなったと言え、2人の関係性自体が、ドラゴンボールの歴史そのものと言っても過言ではない、のかもしれません。

 

 ちなみに「DAIMA」は「神と神」より前なので、まだ悟空とベジータの関係はそこまでにはなっていなかったですね。ベジータはブルマの叱咤がなければ死ぬまでタイマンにこだわりそうでしたし、悟空はベジータ以上の奥の手をまだ持っていたので、自分はベジータより強い、という自認でいたはずです。この辺のバランス感覚は、さすが鳥山原作だと思いますね。

ムキンクスは何がダメだったのか

 ムキンクスこと超サイヤ人第3段階は、完全体セル以上の戦闘力を持っている(のですがセルも同形態になれるので実際には戦闘力でも上回れない)ものの、膨れ上がった筋肉のせいでスピードが落ちており攻撃が当たらないという欠点があり、セルに勝つことができませんでした。

 しかし、実際には筋肉が増えただけでスピードが落ちるとは言い切れず、ドラゴンボールの世界では戦闘力が上昇するとスピードも上がるので、本当にスピードが落ちるのかどうか怪しい、というツッコミもあります。同じくらい筋肉があるブロリーはスピードにおいても当時の悟空たちを上回っていましたし。

 実際にこの形態の問題点は何だったのか、それを「超サイヤ人以上の領域で攻撃を敵に当てること」という観点から考察してみたいと思います。

 

 超サイヤ人以上、つまりフリーザを一撃で葬れるレベルの戦闘力の領域では、ちょっと気合を入れたエネルギー弾で地球を消滅させることが可能です。そのため、本気の大技は一種の「禁じ手」となっており、ベジータがファイナルフラッシュを使おうとした際はトランクスが地球ごとセルを消滅させるつもりかと驚き、悟空とセルが戦った際は、互いにかめはめ波を地表方向に撃つと地球が破壊されることを前提に駆け引きを行っていました。

 互いに相手を消滅させることが前提であれば、セルと悟飯のかめはめ波の撃ち合いのように、全力で気をぶつけ合い、勝った方が負けた方を消滅させるという戦い方にしかなりません。そうではなく、あくまでも地球を破壊せずに相手を負かす勝負を行うためには、ピンポイントで相手にだけダメージを与える必要があります。そのためには、打撃で殴るしかないのですが、相手はその高い気で身を包んでいるため、それ以上の気を込めて殴らないと相手の防御を突破することができません。常時気を放出し続けるのはエネルギーの消費が激しいので、本気を出すのは相手を殴る瞬間だけ、という戦い方を取る必要があります(悟空はギニュー特戦隊と戦う頃からそういう戦い方をしています)。結果として、相手にダメージを与えるには「より高い戦闘力で上からぶん殴る」か、「相手が防御できていないタイミングで殴る」の二択になります。よほど力の差がないと前者の戦い方はできませんので、拮抗した相手の場合、後者の戦い方を取らざるを得ません。その結果、まずは相手と小競り合いをしながら隙を作り、できた隙をついて本気の一撃を叩き込む、という戦い方をすることになります。

 実際、悟空とフリーザの戦いから、そのような戦い方になっており、悟空はかめはめ波で作ったエネルギー弾を囮にしてフリーザを後ろから蹴り飛ばすも、大したダメージを与えられないという展開から、10倍界王拳を使うも通じず、20倍界王拳で上から殴るという選択肢を取ります。超サイヤ人になった後も、悟空のかめはめ波に気をまとって突っ込んでいったフリーザが、横に逸れて悟空に側面からダメージを与えることに成功しています。これは、かめはめ波に気を使ってしまっていたため、悟空が防御用の気を纏えていなかったことから、有効なダメージソースになったということになります。

 

 このように、フリーザ最終形態クラス以上の戦闘では、相手を怯ませてガードの薄いタイミングで殴る、という戦い方が基本となります。そうなると、相手が防御していないタイミングで殴れれば少ない気でもそれなりにダメージを与えられるため、全力を解放することよりも、効果的に攻撃をヒットさせる方が大事になってきます。

 おそらくムキンクス形態は、戦闘力こそ高くなっているものの、相手を怯ませる戦い方に非常に不向きだったのだと推測できます。というのも、筋肉が大きく膨れ上がっていることで手足の柔軟性が失われており、次の行動に移る動きがワンテンポ遅れてしまうのではないかと考えられるからです。そのため、虚を突いても相手が反応しきれない速度で動くことができず、クリーンヒットを相手に当てられない、ということになるのです。

 悟空は瞬間移動を使えるので、ある程度反応速度はカバーできると思うのですが、ネタバレしているとそれも警戒されてしまうというのと、瞬発力が足りないと見てからでも回避されてしまうおそれがあるということで、実用性は低いと判断したのではないかと思います。

 例えば、急加速のスピードなんかはムキンクスでも速いと思うんですが、それでも相手が逃げに徹していれば避けられる速度だったのかなと思います。モーションで急加速する動きも分かってしまうのかもしれません。例えば、フリーザのツノでクリリンが貫かれた際は、デンデを抱いていたせいで回避が遅れて直撃を受けてしまいましたが、回復後は距離をおいて逃げ回っていたため攻撃を受けることはありませんでした。「分かっていればある程度回避できる」という世界の中で、「分かりやすい動き」になってしまうのがムキンクスということなのではないでしょうか。それも、格闘技の達人レベルだから見切れる動きなんでしょうけど。

 

 では何故ブロリーの攻撃は回避できないのか、ということなんですが、これは単純に、ブロリーは星を壊さず戦おうとなどしていないからということになると思います(その気になればバリアで宇宙空間での生存がある程度可能ですし)。建物を壊そうと地表を破壊しようとお構いなしの戦い方をしているのに対し、悟空たちはそうはできないので、一方的な戦いになってしまったということです。

 また、ムキンクス形態はエネルギーの消費が激しいという設定ですが、ブロリーはむしろ無尽蔵に気が溢れ出てくる存在ですので、常時全力の気を展開できる(格ゲーで言う「スーパーアーマー」状態)という点もムキンクス形態より優れている点であると言えます。

 人造人間17号・18号が強かったのも同じ理屈で、エネルギーが無限であるために常時気を展開し続けることができることから、虚を突いて攻撃を当てても有効打になりにくく、互角くらいの戦闘力だといつまでもダメージを与えられないのです。より圧倒的な戦闘力を持って上から殴れば勝てるので、当時の悟空たちは超サイヤ人の気を更に高めても耐えられる肉体を作ることで、より高い戦闘力を発揮できるようになり、17号・18号を一撃で撃破できるレベルまで強くなったということになります。

 

 まとめると、ムキンクス形態の欠点は「膨れ上がった筋肉によりモーションを読まれやすい」ことが欠点であり、地球へのダメージを気にしなければある程度欠点もカバーできたけど、それができないしやるだけの気の総量も足りなかった、ということになるのかなと思います。

 正直なところ、ベジータがセルにファイナルフラッシュを当てた時のように、相手に確実に受けさせる状況を作れれば、ムキンクス形態になっても良かった気がするのですが、そもそもファイナルフラッシュは直撃させればセルを消滅させる威力があるので、それが直撃しなかった(半身避けられた)時点で、威力をいくら上げても勝ち目はなかったのかもしれません。

「ドラゴンボール超」後の原作最終回時点で存在するキャラクターたち

ブウ編と原作最終回の間の10年間の作品が作られ続けた結果、原作最終回時点で存在することになっているキャラクターが大幅に増えました。それだけで続編が作れそうな規模なので、改めて列挙します。なお、第7宇宙以外のキャラと、パラレルでありほぼ大魔界内でキャラが完結している「DAIMA」は除きます。

 

(1)破壊神、天使、大神官、全王

 「神と神」から設定された、悟空より強い神々たちの面々。悟空を世界で1番強くさせないという鳥山氏の強い意図を感じる設定でした。ただ世界観をインフレさせすぎたことが、DAIMAで一度リセットすることになった要因でもあり、ちょっと扱いきれなかったのかなという印象があります。

 強いと言っても、破壊や消滅など戦闘力に依存しない強力な力が使えたり、蘇生や時間の巻き戻しなどのチートが使えたりと、悟空の目指す強さとは違う能力を持ったキャラクターたちなので、あんまり設定を盛る必要はなかったんじゃないかと思いますね。これまでの神、界王、界王神はその時点の悟空やライバルと比べて決して戦闘力が高いキャラではなかったので。

 強さ的には、鳥山明氏の言葉を借りると、ビルスが10だとすると悟空の超サイヤ人ゴッドが6、ウイスは15ということです。大神官の戦闘力は不明ですが、それよりも上ということになるでしょうか。全王は全宇宙範囲の確定即死技が使えるだけで実力が最強というわけではないと考えたいところです。

 

(2)銀河パトロール

 別作品からのスピンオフ参加ですが、当たり前のようにジャコが「復活のF」に参加してレギュラー化しました。同じようなところでベジータの弟ターブルというのもいますが、宇宙のどこかにいるけど普段は接点がない、という感じの立ち位置ですね。GTのように宇宙の星々を巡る冒険をすることになったら出番がありそうです。コミック版「超」ではかなり設定を生かされていた印象です。

 次回作「銀河パトロール編」でも主要になる設定ですね。戦闘力的にはフリーザ軍のザコならなんとか戦えるレベルです。

 

(3)フリーザ軍

 フリーザが完全に生き返ってフリーザ軍を再編したので、こちらもレギュラーキャラクターとして宇宙に存在することになりました。ドラゴンボールを狙う理由も身長を伸ばすためと小さな理由になったので、明確に悟空と殺し合うほど敵対することはなくなりそうです。でも、地上げ屋をまた始めるんですかね。とりあえず宇宙に出た時の悪い奴はだいたいフリーザのせいにできそうです。

 フリーザの強さはゴールデンで超サイヤ人ブルーと同等以上、コミック版で追加されたブラックになると身勝手の極意・兆の悟空と我儘の極意のベジータを一撃で倒すレベルになります。

 

(4)ブロリー

 悟空にとっての新たなライバルの一人。しかもビルスの元で修行を受けているので、真面目に強くなる可能性があります。ただ個性は暴走すると手がつけられなくなるという部分くらいなので、味方にしても活かしづらいキャラではあります。洗脳とかされて敵になるか、フュージョンやポタラの対象になるくらいしか使い道が思いつきませんが…。チライとレモを含めていいトリオではあるんですけどね。

 戦闘力的には「ビルスより強い」というのが悟空の評です。

 

(5)ドクターヘド&ガンマ1号

 地球の科学力が更に向上する可能性を秘めた2人。技術のアップデートで17号と18号がパワーアップする可能性もあるし、セルやブウの技術をスピンオフして21号的な生物を生み出せる可能性もあり、夢は更に広がります。

 何より、ブルマの技術は基本的にサポートで、キャラクターの戦闘力を増強させるような方向ではありませんが、彼らの技術は普通にパワーアップに使えそうなので色々と悪さができそうなネタですね。

 ガンマ1号はアルティメット悟飯と互角(スタミナ無限の分優位)という実力。当初のピッコロの評は「悟空やベジータよりも強い」でしたが、神の気込みでそうだとすると悟飯より強くなければおかしいので、結果だけ見ると神の気抜きでの話だったんじゃないかと思いますね。

 

 

 神、宇宙人、サイヤ人、人造人間で最強クラスが生まれ、正直強キャラという意味ではもうこれ以上ないくらい増えた印象がありますね。問題はこれらのキャラを活かして、更に強い敵を出すことが困難だということですね。神に反旗を翻すような展開にもし辛いですし、鳥山氏の方針として極悪人は出しづらそうですし。だからDAIMAで一旦リセットして世界も変えたんだろうなと思います。人造人間までリブートしたから次は魔人ブウ編のリブートをしようと思ったんでしょうけど、超の地続きは限界があるのでDAIMAにしたということなんだと思います。

 いっそ現行キャラで天下一武道会でもやったほうが面白いかも…。ピッコロも神レベルについていける力を得たし、悟空、ベジータ、悟飯、ピッコロ、ブロリー、フリーザ、ガンマ1号で7人なので、ブウも入れれば普通にトーナメントできそうですね。相性もあると思うので、トーナメントより総当たりの方が面白いかもしれませんが。力の大会をバトルロイヤルじゃなくて各宇宙1人の代表戦にして、その第7宇宙代表決定戦みたいなのでやれば面白くなりそうです。

悟空と悟飯の融合が実現しない理由

魔人ブウとの戦いで悟飯がピンチに陥った時、悟空は老界王神の命をもらい、ポタラを得て現世に戻ってきます。目的は、悟飯と融合してブウと戦うことだったのですが、悟飯がポタラを落としてしまった上に合体する前にブウに吸収されてしまい、結果的にベジータと合体してベジットになったというのが原作の流れです。

 

また、映画「龍拳爆発!悟空がやらねば誰がやる」は、当初悟空と悟飯がフュージョンするという展開を予定していたと言われています(その場合は、当然タイトルも違うものになっていたと思いますが)。

 

しかし悟空と悟飯のフュージョンポタラ合体も実現することはなく、2人の合体はゲームオリジナルでも(ドラゴンボールフュージョンズ以外では)実現していません。

なぜ実現しないのかというのは、実際に合体するかどうなるかということを考えれば自ずと答えは出てきます。

 

(1)名前が決まらない

これが最大の理由ですね(笑)。フュージョンズではクウハンという名前で少年同士の融合が実現していますが、漢字の名前同士なのにカタカナになるのはちょっと変です。でも空飯って感じにするとお腹が空いた漢字の名前になってしまうし、孫空飯と書いてもあまりかっこよくありません。ベジット風に悟空をカカロットとして考えても、ゴハロットかゴハット(ご法度…?)、もしくはカカロハン?でも悟空と悟飯の融合で悟空がカカロットを名乗るのは設定的にちょっと変です。

名前の融合はカタカナ同士、または漢字とカタカナの方が作りやすいですね。

 

余談ですがゴジータが登場する前、自分は悟空とベジータが融合するならゴクータという名前になると思っていました。ゴテンクス命名法則からするとそうなるだろうなと。ゴジータだと悟空成分がゴしかないじゃん!って思ってました(笑)。

 

(2))見た目もぱっとしない

悟空と悟飯の融合の場合、シナリオ上アルティメット化した後になるので、ポタラで合体した場合は着ている服が同じになってしまいます。髪型は、悟空の髪型に前髪だけ悟飯にするとほぼベジットと同じになってしまいますし、悟飯の髪型で悟空の前髪にすると、超サイヤ人になった時の見た目が概ね未来悟飯になってしまいます。元々親子で共通点が多いので、融合した時の別人感を出しにくくなってしまうのです。

 

(3)声を録るのも大変

同じ声優なのでザマスみたいに声は1人分にエコーでいいんじゃないかという気もしますが、悟空と悟飯だと声の出し方も口調も明確に違うので、野沢雅子氏的には演技が難しいでしょう。だとすれば片方を録音してからそれに合わせてもう片方を演技するという方法しかありませんが、収録が二度手間になるため非常に面倒かと思います。

 

(4)性格はどうなる?

融合戦士は性格が尊大になる傾向がありますが、悟空と悟飯だとどちらも穏やかな性格なので、合体前との違いが出しづらいかと思います。ブチ切れたときだけめっちゃ豹変するとかそれくらいしかできなそうです。まぁ互いの舐めプ癖が肥大化しそうな気はします…。

 

(5)上記の理由から、物語の中で非常に使いにくい

とにかく悟空と悟飯が合体したキャラを活躍するストーリーを考えにくいんですよね。だから映画も方針が変えられたんだと思います。悟空とベジータだと、合体前の葛藤も描けるし、2人の性格が間逆な分ギャップを描きやすいですし、合体後の強キャラぶりも描きやすいんですが、悟空と悟飯だと面白さを出しにくいんですよね。せいぜい、超然とした絶対最強キャラ(イメージ的にはウルトラマンの融合キャラみたいな)として使うくらいかなと思います。

でも今なら、身勝手の極意とビーストの融合で怒りと冷静さを兼ね備えた究極の戦士になれるのかな…なれるかもしれない?髪型もだいぶ違うし。声の問題もゲームならどうせ何度も音声を録るから大した手間にはならないかも…。いずれにしても、名前の問題がつきまといますけどね。

 

これも余談ですが、ベジットが誕生した時に老界王神が「ライバル同士の合体だから最強」って言ってましたが意味分からないですよね…(笑)物語的には盛り上がりますけど、この言い方だと悟空と悟飯が合体するより強くなってると言いたいのかな?という気がします。合体前の2人が仲が良くないほうが強くなるとかそういうのあるんですかね…。