どらごんぼーる考察

がんだまぁBlogからドラゴンボール記事を移植しました。以後ドラゴンボール考察はここで展開します。

「我儘の極意」は毒親からの解放か?

コミック版「超」でベジータの新たなる力として導入された「我儘の極意」ですが、自分がベジータゴッドについて語った際に望んだベジータの進化の方向性とは真逆だったので、ちょっと受け入れがたいものがありました。

しかし、ウイスの与えた課題が基本的に「悟空は油断しすぎ」「ベジータは神経を張り詰めすぎ」であったことを考えると、悟空の課題を解決した結果が「身勝手の極意」であるなら、ベジータが「我儘の極意」であっても良いかもしれない、と思い当たりました。

 

悟空が油断しがちという点については、以前考察しました。悟空は常に「強くなりたい」と願っており、そのモチベーションを高めてくれる相手を(悪人かどうかに関わらず)歓迎する傾向にあります。逆にそのモチベーションを高めてくれない相手に対しては冷遇したり、見下したりする傾向があり、それが時に油断に繋がる時があります。

しかし「身勝手の極意」はある意味機械的に戦う奥義であるため、相手を見て態度を変えたりせず、均一のメンタル状態で戦闘を行うことができます。その点が、悟空の欠点を解消することに繋がっていると言えます。

 

一方、ベジータが指摘された「神経を張り詰めすぎ」という欠点には、「サイヤ人は宇宙最強の民族でなければならない」というプレッシャーがあります。悟空と同じように「強くありたい」とは願っているのですが、その動機が能動的なものではなく、自らに課せられた使命の延長のようになっているのが悟空との違いです。

ベジータは元々、戦闘民族サイヤ人の王子として生まれ、そして幼少の時点ですでに父の戦闘力を上回り、最強のサイヤ人の座に君臨していました。しかし、実際には当時のベジータよりも強い宇宙人がゴロゴロいて、サイヤ人が宇宙最強とは言えない状態でした。それでもサイヤ人が宇宙最強だと信じていたのは、父の教えによるものだったのでしょう。フリーザに敗れた時に涙を流すほど悔しがったのは、父と同様にサイヤ人が最強であることを証明できなかったが故のことです。

その後、超サイヤ人に覚醒し、フリーザを上回る力を得て、家族をもち、ブウ戦を経て悟空へのわだかまりが解消されてもなお、ベジータの性格は大きく変わってはいませんでした。それは、常に「自分が最強でなければならない」という焦燥感に襲われているからなのだと思います。だから悟空の強さを認めてもなお、悟空に置いていかれないよう、そしていずれ超えられるよう努力を続けていました。

この焦燥感は、幼少時に植え付けられた価値観によるもので、父の影響が非常に強いと言えます。亀仙人が悟空に「世界にはお前より強い奴がたくさんいる」というメッセージを送り、ポジティブに強くなることを求めたのに対し、ベジータ王は「お前は誰よりも強くならなければならない」というネガティブな教えを施しました。これが一つの「呪い」となり、ベジータを縛っていたとも言えます。

 

だからこその、「我儘の極意」なわけです。その意味は当然、自分本位ではた迷惑という意味のわがままではなく、「自分の思うがままに」という意味ですが、これがベジータが殻を破るキーワードだったのです。

ベジータが強くなりたいモチベーションは、常に自分のためではなく戦闘民族サイヤ人全体のためでした。サイヤ人が最強だから、その王子たる自分が最強というロジックなので、「我」の前に「民族」があるのがセットだったのです。そうやって父の教えに無意識にずっと縛られてきたが故に、傍若無人な性格でありながら本当の意味で自分のために行動できていなかったのがベジータでした。

そんなベジータが全てを忘れて自分自身のためだけに行動することを決めたからこそ、「我儘の極意」という境地に至ったのではないでしょうか。それはある意味、毒親からの解放と言えます。ベジータが育った環境の中で、より強くなり生き残っていくためには、決して不要な教えではありませんでしたが、その教えはあまりにもベジータの人生を縛りすぎていました。その束縛からの解放こそが、真の覚醒のための条件だったのでしょう。

 

今のところコミックオリジナルの形態なので、アニメや鳥山明公式作品に出てくるかは分かりませんが、ここまで理解してようやく、我儘の極意を受け入れることができました。

裏を返せば、悟空が「身勝手の極意」に目覚めたのも、「我」が強すぎるがために、無我の境地のようなものに至る必要があったからなのかなと思います。全ては自分が強くなるため、相手の生殺与奪を判断する基準も自分が強くなることにプラスになるかどうかだけ、というのは非常に自分本位の考え方です。仲間を大切にしながらも、強さを目指す部分においては極めて自分本位だった悟空と、誰も信用しないながらも、強さを目指す部分においては民族本位だったベジータは、まさに好対照のキャラクターだったのではないでしょうか。

 

…でも、髪型そのままで眉毛がなくなるのはちょっとカッコ悪いかなぁ(超サイヤ人3で髪を伸ばすという発想に行きついた鳥山明大先生はやはり天才かと)。