どらごんぼーる考察

がんだまぁBlogからドラゴンボール記事を移植しました。以後ドラゴンボール考察はここで展開します。

ドラゴンボールGTの思い出

ドラゴンボール超は原作っぽくない側面を見せる度に批判されることを避けられませんが、そういう批判が出ると同時に、「GTよりはマシ」という意見と、「これより酷かったGTってどんだけだったんだよ…」というGTを知らない世代の意見が垣間見えたりします。

実際に、GTを最初から最後まで追った身としては、一体ドラゴンボールGTとはどんな内容だったか、ということを改めて振り返ってみようかなと思います。

 

(欠点その1)あまりにも悟空しか活躍しない

当時一番不満だったのがここですかねぇ。「超」では基本的に「復活のF」で鳥山明が引いた強さのラインを基準としているので、悟空とべジータが同格ですが、GTは超サイヤ人4になった悟空だけが強く、それ以外はザコでした。悟飯や悟天はかませ犬の役割すら与えられていませんし、本来主役の一人だったはずのトランクスさえ見せ場はありません。ゴテンクスへのフュージョンも許されず、最後には超サイヤ人4になったべジータさえ、フュージョンのエサになっただけでした。新必殺技のファイナルシャインアタックは超17号に効かなかったしなぁ。

ドラゴンボールZは、悟空が戦線離脱している間のそれ以外のキャラの奮闘も売りだった作品です。だからクリリンやピッコロやべジータの活躍を楽しむことが出来ました。それが一切なかったのが非常に残念でしたね。そういやピッコロなんて死ぬために出てきただけでした。

唯一、ウーブがベビー戦で悟空以外の戦士として出てきましたが、お菓子光線を跳ね返されて食われるという有様で、だいぶ後になってから思い出したかのように実はわざと食われて内部から攻撃するつもりだったと言ったのも萎えました。というかZの最終回で悟空に次ぐ最強の戦士になるはずだったキャラが全然その格を与えられなかったのは悲しかったですね(キャラ的に魅力が薄いというのはありますが)。

今作られていたら、ゲームキャラを増やせるという名目で無駄にゴテンクス超サイヤ人3べジータなどが出ていたと思います。

 

(欠点その2)過去作から借りてきたアイデアばかり

超サイヤ人4や邪悪龍などはオリジナル要素ですが、端々に過去作のアイデア流用と思えるネタが使われていたのも微妙でした。ベビーはツフル人が作り出した生体兵器という意味では、「サイヤ人絶滅計画」で使われたネタですし、ベビーへのとどめの一撃(太陽に吹っ飛ばす)はクウラへのそれで見たものでした。悪人が地獄からよみがえるというのは「復活のフュージョン!悟空とべジータ」のネタですし、ゴジータが再登場したのもそうでした。超17号へのとどめが龍拳だったのは「龍拳爆発!悟空がやらねば誰がやる」ですし、邪悪龍へのとどめが元気玉だったのは魔人ブウへのとどめと同じでした。目新しさやカタルシスという点がだいぶ足りなかったかなぁと思います。

その意味では、「超」は超サイヤ人ブルーの界王拳とか、トランクスの元気剣とか(その後の展開は別として)、一応それまでにない技を出しているという意味で頑張っている方かなと思います。そうそう、「10べえかめはめ波」も嫌いでしたね。界王拳のときはちゃんと「10ばい」って言ってたやんって。超でも「でえふく」とか言ってるけど。

 

(欠点その3)基本的に、対象年齢が低い

多分GTが抱えていた根本的な問題だと思うんですが、話の内容が、Zよりも数段小さい子向けになっていたと思います。パンとギルの絡みなんかもそうですが、基本的に話が小さい子にも分かるように、という視点で作られていたと思います。だからどこか話がコミカルでしたし、悟空が肉体だけでなく精神的にも幼くなっていましたし、理屈の辻褄あわせが適当だったように思います。スゴロク空間とか、いちいち謎の子供っぽさがありました。地獄での悟空対フリーザ・セルなんかはその極地で、「復活のF」と比較したら涙が出てきます。多分、当時の脚本家は完全に子供向けアニメのつもりで作っていたと思います。ポケモンとかデジモンみたいな感覚で。

それに比べたら、「超」はまだ過去作のファンに向けて作られているのが明確で、旧作キャラ同士の絡み(未来トランクスと現代キャラの会話とか、17号やフリーザへのほかのキャラの反応とか)などは非常に力を入れて作られている分、かなりマシな部類です。

 

とりあえず「Z」が持っていた魅力をことごとくスポイルしたのが「GT」だったかなぁと思います。

いい点はなにかなかったのか、と言われると…うーん、大猿という忘れられた存在を引っ張り出してきたこと自体はよかったですね。ドラゴンボールが敵になるというアイデアも良かった。超17号はダメでしたね。なんで17号じゃなきゃいけないのか分からなかった。実は17号はセルよりも強かったのだとか、今見ると未来予知っぽくて笑えますが、当時はアホか、むしろその超17号を蘇ったセルに吸収させろよと思ってました。

邪悪龍も7体いるんだから、それぞれ別の戦士が倒しに行くという展開でも良かったと思うんですよ。ワンピースとかそうじゃないですか。悟空は四星龍とそのついでに三星龍とだけ戦っていればよかったんですよ。そういう発想が根本的になかったのが、GTの残念さかなぁと思います。

 

うん、思い出しても不満しか出てこないですね(笑)。いやほんと、超の方が全然ましです。もう少しGTを擁護できることを言えるかと思っていたんですが、思い出したら不満しか出てきませんでした。

セルは何故倒されねばならなかったか

 ドラゴンボール超ではフリーザの復活が話題ですが、まだフリーザよりセルの方が味方にしやすいんじゃないかという意見もちらほらありました。実際、セルは明確に悟空たちと敵対する理由が、実はそんなにありません。

 

 ピッコロ大魔王は世界を明確に征服しようとしており、そのために悟空の仲間たちを次々と殺しました。

 べジータフリーザドラゴンボールを奪いにきたという点で対立しました。また悟空たちを見逃すつもりも毛頭ありませんでしたね。

 人造人間たちはそもそも悟空を殺すのが目的だったので、敵対しないわけにはいきませんでした。ただ、セルは違います。特に悟空の抹殺を使命とはしていませんでした。

 

 そもそも、セルの目的は「完全体になること」でした。それ以上の目標を持っていなかったのは、実際に完全体になってから行ったことがセルゲームだったことからもわかります。ただ完全体となった自分の力を試したかっただけなのです。だから更なる修行を促し、悟空との戦いを楽しみ、悟飯を覚醒させようとしていました。

 セルと和解できなかったのは、悟飯を怒らせたことが一点です。そのためには手段を選ばなかった姿勢が、「もう許さないぞ」と悟飯に言わせてしまいました。その上、悟飯に痛めつけられ完全体ですらなくなったことにより、逆上して自爆を試みてしまいます。その自爆を乗り越えさらに強くなったセルは、もう十分強くなったと地球ごと破壊しようとした結果、悟飯に阻止され死亡しました。

 その意味で、セルを倒さなければならなくなったのは、「自爆以外に手段がないほど悟飯に痛めつけられたから」ということにもなります。追い詰められたのが悟空だったら、途中で見逃してもっと強くなってまた戦おうと言っていたような気がしますね。フリーザに対してでさえそうだったわけですし。

 

 フリーザがどんな状況になっても悟空たちを裏切りそうであるイメージがあるのに比べると、セルは追い詰められると自爆するという点が懸念されるものの、より強くなるためなら協力を惜しまなそうなイメージがあります。

 そもそもセルが完全体になったところで、世界が困る理由はありませんでした。完全体になったセルは放っておけば地球を破壊してしまったかもしれませんが、目的が強くなることなのでその前に悟空やべジータなど強い戦士と片っ端から戦おうとしたでしょう。

 

 セルはまた、「人々が恐怖におののく顔を見たい」ということも言っていました。非常に取ってつけたような理由で、どちらかというとトランクスたちに戦わせる動機を与えるために言ったような気もします。行動理念だけを見ると、セルはただ強くなりたい、という本能以外をインプットされていないように思えます。悟空たちサイヤ人との違いは、そのためであれば手段を選ばないという点と、戦うことを楽しむのが目的ではないということでしょうか。

 究極的に言えば、セルは戦いたいのではなくより優れた生命体へと進化したいという欲求があるのだと思います。ドクター・ゲロのコンピューターはセルに「完全体になること」しか目的を設定しなかったのでしょう。究極の生物を作る、というところまでで、その生物に何をさせたいのか、まで考えていなかったのかもしれません。

 だとすれば、セルは最も悟空のライバルになり得たはずの存在でした。それなのに、歴代の敵の中でもっとも悟空の関心を得られなかったという、悲劇的な存在であったとも言えます。以前考察したように、この時の悟空の最大の興味は「悟飯の真の力はどのくらいか」ということだったわけですからね。悟飯を覚醒させた時点で、セルは用済みだったのです。

 

 正直なところ、セルは物語の都合上仕方なく作られたラスボスであり、当初予定していたキャラクターではありませんでした。その上、斑点を書くのが面倒という、鳥山明氏もアニメスタッフも苦しめる存在でした。誰からも好かれなかった悲しい悪役、それがセルだったということになります。作者に愛着を持たれなかったから、主人公たる悟空にも関心を持たれなかったのかなとも思います。

 まぁ、あえて言うならば、セルは最初から強くなるように細胞を調整して作られた生命体で、修行ではなく吸収でパワーアップするという意味で、悟空にとって魅力的なライバルではなかったんでしょうね。

 

 ただ、もしセルを追い詰めたのが悟空だったり、あるいは悟飯が調子に乗って痛めつけすぎないでいたら、セルはどのような選択肢を取っていたでしょうか。やはり自爆して地球ごと消し飛ばしたり、他のキャラクターを殺してしまったりしていたでしょうか。

 色々考えてみましたが、「思いつきません」。おそらくですが、当時の鳥山明氏には、これ以上悟空を強くするアイデアが残っていなかったんだと思います。最近のインタビューでも、超サイヤ人以上に強くする方法をなかなか思いつけなかったと言っています。「神の領域」という新しい世界が出てくるまで、どうやっても超サイヤ人の延長のパワーアップしか思いつかなかったということです。2や3も、より強い超サイヤ人でしかありません。

 だから、セルよりも強い戦士を生み出す方法も、ずっと伏線として残していた「実は悟飯が秘めている力は悟空よりも上」というアイデアしかなかったのかなと思います。もう悟空がセルを超えるアイデアがなかったので、セルを生き残らせたとしても、そのセルと切磋琢磨してより強くなる悟空というのをイメージできなかったのかなと。実際、セルと和解して生き残ったとしてもその後ブウのかませ犬になってダーブラの代わりにやられるくらいの使い道しか思いつきませんし。

 そういう意味では、べジータの物語に決着をつけた魔人ブウ編のほうがまだ話としては成立していたのかなと思います。セル編は悟飯が悟空を超える話ではありましたが、そもそも悟飯というキャラクターの動かし方に作者がしっくり来ていなかったので、ブウ編のべジータのように生き生きとしたドラマにはなりませんでした。

 おそらくセルは、紆余曲折を経た人造人間編の犠牲者なのだと思います。「フリーザの次の敵」がどのような存在であるかをしっかり作ることが出来なかった結果、無理矢理生み出された倒されるためだけの存在だったのかなと。だからゴクウブラックはそのリベンジだったはずなのですが、その終わり方もハチャメチャだったので、結局のところ本当の意味での「フリーザの次」は破壊神ビルスしかなかったのかなと思います。

 

 なんとなくですが、人造人間編を悟飯の物語にするのであれば、トランクスの未来ではたった一人生き残った戦士として戦い抜いたことを鍵にすべきだったのではないかな、と思いました。未来の悟飯が得られなかった力を、トランクスが橋渡しとなって現在の悟飯が得て、それによって悟空も倒せなかった敵を倒す、という展開なんかもありだったんじゃないかと思いますね。

べジータは何故ブウへのとどめに元気玉を提案したのか

 魔人ブウへの決め手として、元気玉を提案したのはべジータでした。これって当時から結構疑問に思った人が多かったんじゃないかと思います。べジータは確かに元気玉を受けたことがありますが、技の名前も原理もちゃんと知らなかったはずです。その後地球に居つく経緯の中で知ったということは十分考えられますが、元気玉のことをちゃんと知っているのは悟空以外では悟飯とクリリンだけであり、この2人とべジータがあまり絡んでいたとは思えないので、微妙なところです。

 そもそも魔人ブウに使った元気玉は「地球人の元気を根こそぎもらう」という界王様が教えた技のもう一段階上の技で、そんな元気の集め方ができることは物語上全く説明がありませんでした。それをあたかもべジータが当たり前のように知っていたのは、ご都合主義以外の何者でもないでしょう。占いババから一日だけ生き返らせてもらった際に界王様から教えられた可能性も、その界王様のリアクションから考えにくいものもあります。

 ここは単なるご都合主義で済ませたいところですが、べジータは地球で悟空たちと戦っただけで、気のコントロールを習得した天才です。このブログでの考察では界王拳すら習得していた可能性があることにも触れています。そうであれば、元気玉がどんな技であるかもある程度理解していたのかもしれません。その上で、そういう技の原理なのであれば、元気を分け与える側が意図的に気を全部明け渡せば、もっと強い技になるということも察知できていたのかもしれません。かなり好意的な解釈ですが。

 

 今回の考察の本筋はそこではありません。べジータが何故「元気玉なら魔人ブウを倒せる」と思ったかです。この伏線は、べジータが一度魔人ブウに対して自爆したことにあります。

 べジータは自爆する前に、「きさまのかたづけかたがわかったぜ…やっとな」と言っています。「やっとな」という言葉があるのは、それまでにブウへの攻撃方法を試行錯誤しているからです。肉弾戦で痛めつけたり、気で身体を貫いたりしてみましたが、そのどれもがダメージを与えることが出来ておらず、べジータは戦いながらブウへダメージを与える方法を模索していたと考えられます。べジータは悟空を気絶させてまで一人でブウを倒すと決めており、後に引くことは考えていません。魔人ブウだけは絶対に自分で倒すと決めた以上、その倒し方を考えなければなりませんでした。

 おそらくブウの戦闘力自体は超サイヤ人2のべジータと比べて圧倒的に高いわけではなく、超サイヤ人3の悟空なら倒せていたと言っていたあたり、2でも頑張れば勝てないレベルではなかったのだと思われます。ただダメージが全く通らないため、ずっと戦っていても勝つことが出来ないというのが魔人ブウのやっかいな点でした。

 そしてべジータは色々試してみた上で、跡形もなく消し飛ばす以外に確実に倒す方法がないと理解します。そのためには、自分の持つエネルギー全てをぶつける以外に手段はない、というのがべジータの結論だったのでしょう。それは、命を燃やす以外に、自分の手持ちの技でブウにダメージを与えられるものがなかったということになります。

 しかし、本当は一つだけブウを倒せる技があることに気づいていたんです。それが、元気玉。自分の気だけで勝てないのであれば、他人の気も使うしかない。そこらじゅうの生物の気を全て集めて一つの武器にできるのが元気玉です。これなら魔人ブウを消せるだけのエネルギーも集められるはずだと考えられます。しかしべジータには元気玉は使えませんでした。使うには清く正しい心が必要だからです。ただでさえバビディの支配を受けた状態のべジータには、絶対に使えない技です。そのため自爆するしかなかったのですが、その後生き返り悟空と合流した状態であれば、悟空に元気玉を使わせれば勝てると思ったのでしょう。

 生き返った悟飯やゴテンクスを戦わせれば、戦闘力上は純粋に戻ったブウを上回ることは可能でした。しかし悟飯やゴテンクスがブウを完全に消す攻撃ができるかどうかはわからず、もしまた吸収されてしまったらもう勝てるかどうかわかりません。ブウは自分が勝てないと理解した、より強い相手を吸収する傾向にあるので、戦闘力の高い者を戦わせるより、瞬間的に強力な技で倒すほうが確実とも考えたはずです。そんなことまで考えられるのは、まぁ当時のメンバーの中ではべジータだけですね。あとはデンデかサタンか2人の界王神ですから。

 

 つまり、一度「ブウを倒すにはどうすればいいか」を真剣に考えたのがべジータだけだったので、元気玉の提案もべジータにしかできなかったんだということです。

 ちなみに悟空は何故元気玉を思いつかなかったかというと、基本的に悟空は元気玉という技があまり好きではなかったからなのかなと思います。というのも、元気玉というのは他人の力を借りて敵を攻撃する技なので、自分ひとりの力で戦いたい悟空にとっては邪道な技なんです。しかも威力が高すぎることから、確実に相手を殺す覚悟がなければ使えないので、なるべく相手を殺したくない悟空には本当に最後の手段でしかないのです。そもそも特大の元気玉でもフリーザを倒せなかったので、フリーザより強い相手には通用しない技という認識も持っていたはずです(というか、当時の読者もみんなそう思っていた)。

 元気玉という技の特性を理解し、別の使い方まで推察できたのが、技を編み出した界王様でもなく使い手である悟空でもない、受けたことのあるべジータだけだったというのが、ある意味ではべジータのセンスの高さを象徴しているのではないでしょうか。

神の域に達することができる既存キャラはどれだけいるか

 「神と神」の時点では、破壊神に対抗できるのは超サイヤ人ゴッドのみであったことから、サイヤ人でなければ神の領域にたどり着けないというイメージがありましたが、「復活のF」ではフリーザ超サイヤ人ゴッド超サイヤ人級の力を身につけ、「超」では超サイヤ人ブルーでも倒しきれないヒットやトッポ、それ以上の力を持っていそうなジレンが出てくるにあたり、別にサイヤ人でなければ神の領域に達することが出来ないというわけではない、ということが分かってきました。

 そうであるならば、既存のキャラクターにおいても、悟空、べジータフリーザ以外でも神の域にたどり着く可能性のあるキャラがいるのではないかと思い、考えてみました。

 

 まず、率直に思いつくのがセルです。フリーザが可能なのであれば、その細胞に加えてサイヤ人の細胞も持っているセルなら可能でしょう。セルも生まれてから修行などしたことがありませんしね。まぁ、セルが復活するかどうかはまた別の話ですが。

 魔人ブウはどうでしょうか。神の域に達したキャラを吸収すれば可能かなとも思います。自力で修行した「超」ではミスター・ブウの顔のまま筋肉質になることも可能としていましたが、それでどこまで伸ばせるかは謎です。見ただけで敵の技を覚えられる、という意味ではフリーザやセルより才能がありそうですが。

 サイヤ人は6人いればゴッドになれますから、基本的には誰でも神の域に達することができるはずです。そのため、悟飯・悟天・トランクスにも可能性はあります。ただ一時的にゴッドになったとして、そこから神の気をコントロールできるようになるかは、修行次第ですが。まだ小さい悟天とトランクスではちょっと厳しそうなので、現実的な可能性があるのは悟飯(と未来のトランクス)くらいでしょう。

 味方キャラで他に可能性があるのはピッコロです。ピッコロは元・地球の神でもあるので、そういう意味では神の気にたどり着いてもおかしくはない気がします。界王神も神の気を持っているかは微妙なところなので、神だから神の気を操れるというわけでもないのかもしれませんが、ピッコロならそのレベルには十分達することができるように思います。何より、ピッコロが神化すれば再び第一線級に戻ることができるので、ちょっと期待してます。悟飯との修行もそのフラグだと思いたい。

 そうそう、17号もイケてそうなので18号も頑張ればイケるんじゃないでしょうか。前回考察したとおり人造人間も修行すればフリーザ同様神レベルになれる可能性があります。原作が連載されていた頃は、修行したら強くなるという次元を超えてしまって、いかに超サイヤ人をパワーアップさせるかという発想しかありませんでしたが、修行しなそうなキャラが修行するだけで強くなる、というアイデアが生まれてからはいくらでも強いキャラを増やせそうな気がしますね。

 ただまぁ、クリリン天津飯亀仙人はちょっと無理そうです。ジャンプ連載当時ならこの3人が強くなることはあり得ないですし、それくらいなら新キャラを出しているでしょう。ただ地球人は神レベルに達することができないのか、というと必ずしもそうではないような気もするので、作品の都合でどうとでもなりそうな気もします。亀仙人はやたらパワーアップしていますしねぇ。昔は地球の神が人間だった時代もあるでしょうし、純粋な地球人(天津飯は違うんですが)でも神の領域に到達できるキャラは現れるかもしれません。

 

 というわけで、「神の気」という設定が出てきたことで実は過去の色々なキャラをパワーアップさせることができるのかもしれない、というネタでした。最近のドラゴンボールは割と設定がゆるいので十分ありえるんじゃないでしょうか。この頃思っているんですが、原作が強さの序列に非常に厳格だったのは、鳥山明氏本人ではなくジャンプの編集担当の意図によるところが大きかったんじゃないかと感じます。ジャンプの漫画はかなり編集者のアイデアが入っているようですからね。「復活のF」の時の鳥嶋氏のコメントなんか、完全に編集者目線で鳥山明のアイデアを見下していましたので、当時もそういう力関係だったのだろうと思います。

 そういう意味では、もう少し鳥山明氏のアイデアを制御できる人材がドラゴンボールの新作には必要なのかもしれませんね。

人造人間は何故フリーザよりも強いのか

 地球人の科学者が作った人造人間が、宇宙最強生物の一つであるフリーザに勝る力を持っているというのは、連載当時から理解し難い設定の一つでした。この理由を少し考察してみたいと思います。

 

 個人的には、地球にやってきたメカフリーザの構造を研究して作ったというのが一番現実的かなと思いたいのですが、メカフリーザはトランクスが粉々に消し去ってしまったためそれはあり得ないんですよね。

 そこで一つヒントになったのが、最近の鳥山明氏による17号/18号の設定解説です。この2体は人間ベースの人造人間なわけですが、バイオタイプと呼ばれる有機物ベースの人造人間で、それ故にセルの吸収対象になったということが判明しました。同じ人間ベースの20号が、腕や首がもげた時に断面が機械だったため、17号や18号も中身は機械なんじゃないかというイメージがありましたが、そういうわけではないようです。そういう意味では、17号と18号は人造人間というより、強化人間と言った方が近いのかもしれません。

 では、一体どのようにして17号と18号は元は普通の地球人でありながらフリーザ以上の力を得たのか?ということになりますが、そこでヒントになるのがセルの設定です。セルは、様々な達人の細胞を元にして作られた存在ですが、このセルのために摂取した細胞を、生きている人間に注入したのが17号と18号なのではないか?と思い当たりました。ゼロから(胎児段階から)生み出された先天的人造人間がセルだとすれば、生身の人間から生み出された後天的人造人間が17号と18号だということです。

  とはいえ17号と18号はピッコロの再生能力やフリーザの変身能力などは持っていませんから、外見的にもベースになっているのはほぼ(人間に近い)サイヤ人の細胞なんじゃないかと思ったりします。悟空をスパイロボットで監視していたのならサイヤ人と地球人なら子供が作れることは知っているはずですから、それを研究して成体の人間にも応用できるよう研究していた、などと考えることができます。

 このように考えると、17号と18号は、フリーザ以上に強いと言われても納得できるのではないでしょうか。地球人にサイヤ人の遺伝子が組み合わさると、普通のサイヤ人以上の潜在能力を持っていることが悟飯らによって明らかになっているわけで、人造人間は人為的な改造を施しているのでそれ以上ということになるわけです。フリーザがちょっと修行すれば超サイヤ人ブルークラスの戦闘力を得られるのですから、それより強い17号がちょっと修行すればブルークラスになれるのでしょう(笑)。

 

 もしかしたら、セルが17号と18号の吸収が必要だったのは、昆虫の延長のような生物が進化するために「人間」としての完成データが必要だったのかもしれませんね。それも2体必要だったのは、男と女、雄と雌というデータが必要だったのかもしれません。ほぼ同じ遺伝子をもつ双子の男女というのが、最も適した存在だったということでしょうか。

 

 とはいえ、その17号と18号以上の力を持つ16号を完全機械の身体で作れてしまうのは、やはり理解のレベルを超えています。ロボットとしてはこれが完成形で、それ以後は「成長する人造人間」として17号や18号、セルを作り出したとも考えられますね。19号と20号もエネルギー吸収によって戦闘力を成長させることができますし。最初からフリーザより強いのではなく、成長することでフリーザ以上の力を得るに至った、という方が納得がいくので、元々そういう方向で原作も考えていたのだと思いますが(セルも最初はピッコロより弱かった)、上手く物語の中で落とし込めなかったのかなという気はします。

 そもそも16号~18号が搭載する「永久エネルギー炉」が非常にヤバいシステムですよね。人間サイズの個体に永久機関搭載という時点で技術レベルが半端ないような気がします。これを開発できたことによって、強力な人造人間を作れるようになったと言っても過言ではないのかもしれません。エネルギーが無限に湧き上がるなら、それをずっと制御できればどんどん大きなパワーを生み出すことができそうですし。

 ただセルのエネルギーは無限ではなかったようなので、17号と18号を吸収しても永久エネルギー炉は作動しておらず、吸収の目的もエネルギー炉を取り込むことではなかったように感じます。少なくともセル、17号、18号の強さの源泉は、永久エネルギー炉よりもその生物的構造の方にあるんじゃないかと思ったりします。16号は永久エネルギー炉の力をフルに生かした構造で、それ故に強大すぎる力を持っていたのかもしれません。そのためエネルギー炉だけに頼る構造は危険だと感じて、有機物ベースの人造人間に切り替えたというところでしょうか。しかし人間をベースにすると当人の人格が反乱を起こすという欠点に気づき、エネルギー吸収式のロボットタイプに落ち着いたというのがドクターゲロの研究の成果なんでしょうね。最後に自分を19号と同じタイプに改造したのは、17号・18号はセルの餌として作っただけだったからなのかもしれません。

 

 というわけで、何故人造人間がフリーザより強いのかというと、16号は永久エネルギー炉の恩恵、17号と18号はセルの素材としてセルに近い有機改造(主にサイヤ人の細胞)が施されているから、という答えが出るんじゃないかなと思います。

 というかセル以外の人造人間は気がないのにエネルギー弾を撃てたりする不思議な構造なんですが、あれは気以外の別のエネルギーで、それは感知できないということなんでしょうね。そういう意味では、永久エネルギー炉含む人造人間のエネルギー源にこそ秘密があるような気はします。フリーザなどの宇宙人や魔人ブウも「気」という概念では地球人と同じだったわけですから、どういう種類のエネルギーかは気になるところですね。そしてそれを何故ドクター・ゲロが開発できたのかも含めて、ドラゴンボール世界の中でもトップクラスの「謎」のような気がします。まさか神の気じゃないでしょうしね。

 

超サイヤ人3は燃費が悪い特別な形態

 アーケードゲームドラゴンボールヒーローズを中心に、既存のサイヤ人キャラを片っ端から超サイヤ人3にする傾向があります。これらのゲームオリキャラ自体は、個人的にはあまり否定的には見ていません。というかハッチヒャックベビーとか超サイヤ人4悟飯とか、設定的に無理のないオリキャラが多いので、いいぞもっとやれと思っている部分もあります。

 

 ただ、超サイヤ人3に関しては、「確かに修行すればみんななれるかもしれないけど、なる必要のない形態だよね」と思っています。

 というのも、元々この形態は、原作で悟空が「あの世でしかなっちゃいけない変身」と言っていた通り、本来現世では著しく効率の悪い形態だからです。実際、ゴテンクスフュージョンの時間を大幅に短縮させ、悟空自身も復活した後は自分でもわからないタイミングで時間切れになってしまっていました。

 超サイヤ人3の説明について、「時間という概念がない」あの世でしかなっちゃいけない姿と言っていることから、とにかく時間制限がある変身であるのは間違いありません。地球から界王神界まで気が届くくらいエネルギーを放出しているわけですから、エネルギーの消費が激しすぎる形態だということは容易に想像できます。

 個人的な推測としては、界王拳が戦闘力の前借り(一時的に力を高める代わりに、後で大きく低下するという意味で)であるとすれば、超サイヤ人3はエネルギーの前借りなのかなと思います。瞬間的に莫大な気を凝縮させて変身する変わりに、後で急激に気が低下するという意味です。戦闘力=気ではないのかとツッコミを受けそうですが、界王拳が戦うために必要な気を高めるだけなのに対し、超サイヤ人3はその姿に変身するために気を使う(変身した後に戦う際に使う気は、特別大きい消費ではない)という点が違うのかなと思います。

 あの世では死んでいて仮の肉体を与えられている状態であるため、その気には上限がなく(食事等も本来は必要ないはずなので、見た目や構造、強さなどは生前を再現していても、機能的には生物ではないはず)、超サイヤ人3に変身してもデメリットが発生しないものの、現世の肉体だとそうはいかないということなのでしょう。

 

 そういう意味で、生きているサイヤ人超サイヤ人3に変身するメリットはあまりないと言えます。特に、筋肉を異常に増大させる超サイヤ人第3形態(いわゆるムキンクス形態)にあえて変身しなかったべジータなどは、超サイヤ人3にはなれたとしても効率が悪いとして別の形の強さを目指したのではないかと思います。悟空も、アニメではサービス的にブルー覚醒後でも超サイヤ人3に変身することがありましたが、本来は全くなる意味のない形態であるはずです。超サイヤ人にならなくてもゴッドに準じた力があるはずですし(実際、複製べジータは変身せずに超サイヤ人3ゴテンクスに圧勝していました)。

 だから、あんまりゲームで超サイヤ人3を乱発してもリアリティが若干落ちるかなぁという気がします。全員ムキンクスにしているようなものですから。

 

 もしあり得るとしたら、あの世で修行した未来悟飯とかぐらいじゃないですかね?まぁゴテンクスがなっているので、悟天・トランクス・ゴジータベジットはなってもいいかもしれませんが、ポタラはともかくフュージョンでは大きく時間を減らしてしまいますし、ゴテンクスの場合も天才ぶりの表現と最後の奥の手として出てきただけで、悟飯の前座扱いのための変身だったのかなぁと思います。

 あぁ、気が自然に増幅するっぽいブロリーはありかもしれませんね。そもそも伝説の超サイヤ人と普通の超サイヤ人の違いが明確化されていないので、同じように超サイヤ人3になれるものなのかという疑問はありますが。逆にブロリー超サイヤ人4は個人的にはあり得ないと思います。大猿+理性が必要なんですがブロリーは元から大した理性ないですし。制御装置を取り付けた状態で人工的に作り上げるのならまだありかもしれませんけどね。

 

 これは超サイヤ人3を否定していたり嫌いだと言っているわけではありません。むしろあれは「あの世から戻ってきた悟空」限定の形態でいてほしかったなぁと思うのです。超サイヤ人の中では異形な感じが強く、一時的に主人公ではなくなった悟空だからこその姿なのかなぁと思いますしね。ゴテンクスはその模倣としてアリだと思いますが、その次に出てきたのがシンプルなアルティメット悟飯で、その後更に無駄のない超サイヤ人ゴッドへと続くわけですから、超サイヤ人3はやっぱり邪道中の邪道であるべきかなぁと思うのです。

セル編以降の真の主人公はべジータだったかもしれない、という話

 ドラゴンボールの物語は、基本的に主人公である悟空を中心に進んでいきますが、アニメにおける「Z」となるサイヤ人編以降は、実は悟空は物語の中心から外れていきます。というのも、悟空は死んだり重傷を負ったり病気になったりして一時的に戦線を離脱し、その間に他の仲間たちが戦い、他の誰もが勝てない強敵にぶち当たったところで悟空がやってくる、という話の作り方に変わるからです。

 悟空が離脱している間、物語の中心になるのは息子の悟飯でした。まだ実力不足の悟飯が、仲間たちのサポートを受けながらなんとかピンチを切り抜けていき、どうしようもなくなったときに悟空がやって来る、というのが黄金パターンだったと言えます。

 しかし、それもフリーザ編までの話で、人造人間が登場してからは、悟飯さえ物語の中心から外れていきます。もちろん最後にセルを倒したのは悟飯なのですが、精神と時の部屋超サイヤ人に目覚めるまでは、悟飯は中心どころかまともに戦いにさえ参加する機会がありませんでした。唯一の戦闘シーンは、20号に捕まったピッコロを救出したときに一発食らわせた瞬間だけだったと言えます。

 人造人間編において、悟空不在の間に中心になっていたのはべジータです。離脱した悟空に代わって超サイヤ人となって戦い、19号や18号と戦った後、修行してパワーアップしてセルとも戦います。フリーザ編でもある意味べジータが活躍していましたが、あくまでも第三陣営としての働きであり、主人公サイドの活躍ではありませんでした。

 

 人造人間編以降におけるべジータは、ある意味物語を面白くするために存在したキャラであったと言えます。本来なら起動前に倒せてもおかしくなかった17号と18号を目覚めさせるタイミングを与え、セルの完全体化も見逃しています。更に自爆後に復活したセルに逆上して突っ込み、悟飯に大きな傷を負わせて不利な状況にしてしまいました。魔人ブウを復活させるきっかけを作ったことも含め、べジータがいなければ、何事もなくあっという間に物語を終わらせることができたはずです(笑)。

 17号と18号の起動とセルの完全体化を見逃したのは、より強い者と戦いたいというサイヤ人の本能によるものでしたが、自爆後のセルへの突撃と魔人ブウ復活については、非常に人間味のある心理を根拠としています。実はパワーインフレでストーリーを進めてきたドラゴンボールにおいて、感情的な理由で物語を複雑化させる事例はそう多くなく、その意味でべジータは作中でも屈指の人間臭いキャラへと進化したと言えます。

 特に、「トランクスが殺されたことによる逆上」という、それまであまり伏線のなかったべジータの感情は、少し深く考察してみる必要があると思います。それまで、べジータは特にトランクスに対して特別な感情は抱いておらず、セル完全体化を阻止しようとしたトランクスには本気で攻撃を仕掛けたりもしていました。この時のべジータの心情は、一体どのようなものだったのでしょうか。

 

 一つ鍵となるのは、べジータサイヤ人の王子であるということです。自分が王子でエリート中のエリートであることに誇りを持っていたキャラであることは、べジータアイデンティティの一つなのですが、それはつまり、自分という個人だけでなく、サイヤ人という一族、あるいはその中でも王族という特別な血統にあるという自覚を持っていることを意味します。

 それは自分自身が強くなればいいと思っている悟空とは決定的に違う点で、つまり自分だけでなくサイヤ人全体や自分自身の一族が最強でありたい、という思いがあるのがべジータなのではないかと思うわけです。

 悟空の死後、戦う気を失ったように見えたべジータは、7年後、トランクスを悟飯よりも強くしたいという気持ち(ブルマ談)で稽古をつけていました。べジータは自分の息子が、下級戦士の息子より弱いということも認めたくなかったのでしょう。また悟空よりも悟飯の方が強かった=純粋なサイヤ人より地球人とのハーフの方が強いという理解から、トランクスは自分より強くなれる可能性があり、同じハーフなら王子の息子であるトランクスの方が悟飯より強くなれるはず、という期待もあったのかなと思います。実際、天下一武道会でトランクスが悟天に勝ったときも、「俺の息子の方が血統が良かった」と喜び悟空に大して自慢していました。べジータは明らかに自分の血筋にも誇りを持っており、個人レベルに留まらず家族というものに視点が行くサイヤ人であると言えます。それ故に「神と神」以降の家族を大切にするべジータに繋がっていくのでしょう。

 

 だとすれば、セルとの戦いでトランクスが死んだときの気持ちも推測できます。それは、単に自分の息子が殺されたという悲しみから来る怒りではありません。その前段階として、悟飯が悟空や自分以上の力を目覚めさせたという現実がありました。べジータ自身が目標としていた悟空の力を、軽く上回る圧倒的な力を覚醒させた悟飯に対し、自分の息子であるトランクスは、あっけなく殺されてしまいました。このことにより、悟空に対して抱いていた劣等感が、悟飯とトランクスの落差により余計に爆発したということなのではないでしょうか。

 更に、その直前には目標としていた悟空が死んでいます。悟空はほぼ、悟飯の力の覚醒と引き換えに無理矢理戦わせ苦しい思いをさせたことへの代償という形で死んだに等しく、ある意味父親としての責任を取ったようにも受け取れます。それに対してむざむざ息子を死なせてしまったべジータは、父親としての悟空への劣等感さえ抱いたのかもしれません。

 つまりべジータは、セルへの怒りではなく自分への怒りによって逆上したとも言えます。自分が一番強ければ、悟飯が戦うことも、悟空が死ぬことも、トランクスが殺されることもなかったのです。そうならなかった情けなさからの逆上であり、それ故に大した力も引き出せず一撃でノックアウトされてしまったとも言えます。その後悟飯に素直に謝ったのは、悟飯は「この状況がもうどうしようもないから」であると受け取っていましたが、どちらかというと、その時点で最強のサイヤ人となった悟飯の足を引っ張ることしかできなかった王子である自分、という現実を認めたことによるものだったのかなと思います。

 とはいえ、トランクスが殺されたことや悟飯が悟空以上の力を発揮したことにより、べジータの息子への感情が変化したことは間違いありません。トランクスが未来に帰る際に見せた小さな挨拶は、それまで自分しか信じてこなかったべジータに生まれた新しい感情だったとも言えます。ある意味では、べジータが王子から王になった瞬間かもしれません。それまでは悟空という同年代の相手だけを見ていましたが、残ったのは悟飯とトランクスという下の世代のサイヤ人なわけで、残った純粋種のサイヤ人は自分だけという自覚もあったのでしょう。

 

 一方で、べジータはそんな自分に対して違和感を覚えていました。家族を持ち穏やかに過ごすことを「悪くない」と感じていた自分に戸惑いを覚えるようになります。その感情を振り切り、純粋に1日だけこの世に戻ってきた悟空との戦いに集中したいという気持ちから、べジータバビディの支配を受け入れることになりました。

 これは、家庭を持ち自分の好きに生きることができなくなった男性が、若い頃に好きだったものに集中したくなる気持ちに近いと言えます。実際、悟空とは互角のバトルを楽しむことができましたが、その結果魔人ブウが復活してしまい、かつてセルを完全体にした時には取らなかった責任を自らの命で取ることになります。ある意味では、悟空がセルに対して見せた責任の取り方を知っていたからこその行動であったのかもしれません。

 その後のべジータは、決して自分のためだけに行動することはなくなりました。悟空との合体を受け入れ、悟空のための時間稼ぎ=かませ犬に自らなることを受け入れ、元気玉を使ってブウを倒すというアイデアを提案しています。今までのべジータでは考えられなかった行動です。そりゃ、神龍も悪人とはみなさないでしょう。これらの心境の変化は全て、べジータが「家族のために生きるサイヤ人の王」としての自分を受け入れた結果でもあると言えます。悟空との戦いを通じて、自分はもうかつての「悟空を超えることだけを目標としていた自分」ではないということも自覚したのでしょう。だからこそ、それまで認めたくなかった「悟空は自分より強い」という現実も、受け入れることができたとも言えます。自分と悟空という2人の関係性から、自分の血筋を継承する家族を確保すること、という関係性に変わったからです。もっとも、悟空を超えることをあきらめたわけではないのですが。

 

 はっきり言って、ドラゴンボールにおいてこんなに心理的な変化が大きいキャラはべジータくらいです。初登場時からフリーザ編、セル編、魔人ブウ編と着実に心境が変化していったのを考えると、「ドラゴンボールZ」は「べジータが完全に改心するまでの物語」であったとさえ言えます。特にべジータの息子トランクスが登場してからは、べジータを中心に話が回っていたと言っても過言ではありません。

 べジータはブウ編以降、パワーインフレの頂点には一度も立っていません。しかし魔人ブウとの最後の戦いは、間違いなくべジータがいなければ勝てていませんでした。最後のきっかけがサタンであったとしても、元気玉を作るという提案も、そのために地球の人々を全員生き返らせるというアイデアも、自分ひとりで戦うことにこだわる悟空には思いつかなかったでしょう。べジータの心理が変化していたから、魔人ブウを倒すことができたのです。悟飯やゴテンクスでも、一人で倒すことしか考えていなかったわけですから、一番純粋なサイヤ人に近いべジータが、一番地球人に近くなったというのが、ドラゴンボールの物語の最大の「救い」だったりしたのかもしれません。