どらごんぼーる考察

がんだまぁBlogからドラゴンボール記事を移植しました。以後ドラゴンボール考察はここで展開します。

ドラゴンボールにおける、漫画とアニメの演出の違い

 ドラゴンボール超のバトルロイヤル編、最強クラスのキャラが力を温存しながら戦っていたり、弱小キャラが活躍していたりと、各キャラの強さのバランスが良く分からない印象が非常に強くなっています。

 ただ、これは漫画とアニメの性質上の違いで仕方ない部分でもあります。

 

 漫画の場合、特に週間連載ではページ数が限られている上に毎週次の号に期待を持たせるために展開がめまぐるしく変わる傾向があります。長々とバトルを続けていると話が間延びしてしまうことから、ボスクラスとの戦闘以外は比較的一瞬で終わる傾向にあります。特に、カタルシスのために「それまで苦戦していたキャラをあとから現れた強キャラが瞬殺する」という演出は良く使われます。典型的なのがフリーザを瞬殺したトランクスですが、悟空もナッパやリクームなどをノーダメージでKOしたりしてますし、逆パターンでパワーアップしたセルがピッコロやべジータを瞬殺したこともありますね。

 そういう演出が多用されるため、戦闘力が高いキャラは、低いキャラに一方的に勝利できるというイメージが強く、ドラゴンボールの場合は特にその印象が色濃く出ていると言えます。

 

 一方で、アニメは放送時間が長く、漫画と同じペースで続けるとあっという間に話が終わってしまうため、話を引き伸ばすためにオリジナルのエピソードを挟んだりすることが古今東西よく行われてきました。ドラゴンボールなんか気を溜めているだけで話の半分使ったりしてましたからね。典型的な例であると言えます。

 そんな事情があるので、原作漫画では一瞬で勝負が付いた戦いでも、比較的いい勝負に見せる場合もよくあります。そして話の都合上、間を持たせるために原作では手も足も出ないパワーバランスの相手でも、そこそこ互角の戦いをしたりすることが多々あります。

 例えば、魔人ブウの体内に侵入した悟空とべジータが、悟飯やゴテンクスのコピーと戦うエピソードがありましたが、当時の悟空とべジータでは、超サイヤ人3にならずに悟飯やゴテンクス超サイヤ人3)に勝つのは難しい戦闘力バランスでした。しかし実際はいい勝負をしており、本人ではないとは言えやや納得のいかない展開だったことを覚えています。

 このように、アニメでは話の都合でいくらでも力が劣る相手が善戦できるので、戦闘力の強弱のバランスは演出で無視されることもあるのです。「ドラゴンボール超」は、このアニメの演出方法に則って作られているため、パワーバランスが良く分からなくなっていると言えます。ましてや、複数のキャラが入り乱れるバトルロイヤルでは、厳密な戦闘力の序列に沿って戦いを演出するのは困難であり(というか多分ゴッドクラスのキャラがフルパワーで全員吹っ飛ばすだけで大半が消える)、話の都合で強さを変えざるを得ないのです。

 

 とはいえ、これが魔人ブウ編終了直後ならともかく、神の領域に達したキャラにはそれ以下のキャラは手も足も出ない、というビルス基準が出来た後の話では正直しんどいよなぁ、とも思いますけどね。まだ悟空がゴッドの力をちゃんとコントロールできておらず、ブルーに変身可能になる前の話だったらなぁ、なんて思ったりもします。

 まぁ、とにかく言えるのは、アニメではあんまり戦闘力の強弱の差は気にしない方がいい、ということかなと思いますね。そういうのは鳥山明が直接作った作品の中だけで考えた方が、精神衛生上は良いかなと思います。劇場版の敵とかも強さ曖昧ですしね。

何故第7宇宙には大界王神と4人の界王神がいたのか

 「ドラゴンボール超」において各宇宙に一人ずつ界王神と破壊神がいることになったことにより、魔人ブウ編において過去に存在したとされた「大界王神と東西南北の界王神」の設定がほぼなかったことになってしまいました。しかし、この設定なくして魔人ブウの存在が説明できなくなってしまうため、整合性をどのように取ればいいか、少し考えてみました。

 

 取っ掛かりになるのは、「老界王神をゼットソードに封印していたのは破壊神ビルスだった」という新設定です。というか、これしかヒントはないでしょう。

 老界王神自体も、東西南北のどれかの界王神だったのか、それとも大界王神だったのかという言及はなく、そもそも界王神は当時一人だったかどうかもはっきりしていません。ただ魔人ブウ編当時の15代前という説明のみがありました(というか、多分老界王神が出てきた当初はまだ東西南北の界王神の設定はなかったのでしょう…)。

 その後の各宇宙の界王神がどれも一人であったことを考えても、「本来、界王神は宇宙に一人」であることの方が正常ということになるのかなと思います。

 だとすれば、魔人ブウが過去に暴れていた際の第7宇宙において、大界王神と東西南北の界王神がいたこと自体が、非常に特殊な事態であったと考えられます。そのように解釈すれば、理屈付けはそう難しくありません。

 

 もし、本来は一人でいい権力者が、中央+各地域の管轄に分担する必要があるとすれば、それはどのような時でしょうか。普通に考えれば、「一人では対応しきれないほどの異常事態」であった時なのではないかと思います。ではその異常事態とは何か。

 その一つが「魔人ブウの出現」であるのは間違いありません。実際、この魔人ブウに東の界王神以外全ての界王神が吸収もしくは殺害されてしまっており、一人一人が最低でもフリーザを一撃で倒すレベルの力は持っているはずの界王神が5人がかりで戦って勝てなかったわけですから、もし界王神が1人だったらどうしようもなかったはずです。

 ただ、魔人ブウへの対処のために界王神が複数いたのであれば、東西南北に管轄を分ける必要がなく、他にも問題はあったように思います。

 

 もう一つの理由があるとすれば、それは「破壊神の不在」でしょう。第7宇宙の破壊神ビルスはそのほとんどの期間を眠っており、魔人ブウのような界王神ですら収拾が難しい事態の対処が行われていなかったことから考えて、ブウがビビディの差し金によって暴れていた時も眠っていたと考えられます(超の漫画版で実際にそう語られているようです)。

 つまり、ビルスは老界王神を封印し一時的に界王神不在の状況を作ったばかりか、破壊神としての役割もほとんど行使しておらず、むしろ界王神が破壊神の役割さえ代行していた可能性が考えられるのです。

 

 おそらく、界王神が5人もいた理由は、この「破壊神と界王神の役割の両方をこなす必要があった」ことにあるのではないかなと思います。

 実際のところ、当時の正規の界王神は大界王神だったのだろうと思います。ただ界王神と破壊神の両方の役割を行う必要があったため、役割の分担が必要になったのでしょう。

 だとすれば、もう1人破壊神役の界王神がいればいいのではないかという気もしますが、界王神と同等の力を持った者をもう1人用意するというのは困難だったのだろうと思います。例えばゴワスが弟子としてザマスを使役していたように、界王神にやや劣る見習いクラスの存在しかいなかったため、1人で全てをこなすのは難しかったということなのでしょう。

 実際は、唯一生き残った東の界王神界王神の後継者となったわけですが、本来は正規の界王神になれるほどの実力はなかったのでは、と思います。基本的に頼りなく、老界王神に比べて能力が低いように見えたのもそのせいでしょう。

 

 もしかしたら、大界王神以外で唯一ブウに吸収された南の界王神が、事実上の界王神代行だったのかもしれません。最も戦闘力が高かったようですし、ブウが殺害ではなく吸収という選択肢を選んだのは、彼に勝つのが難しいとブウ自身が判断したからだとも考えられ、最も破壊神に近い存在だったとは言えそうです。ただ、当時の大界王神には他に3人の弟子がいたため、温情で4人を平等な東西南北の界王神に任命した、なんてことも想像できます。

 

 このように考えると、ビルスが破壊神の役割をこなさなかったせいでブウが生まれたりしているので、迷惑も甚だしい気がするのですが、そのビルスを起こしたのが超サイヤ人ゴッドになれる資質を持った悟空であり、悟空がそのレベルに達したのもビルスフリーザを放置し、魔人ブウの対処も行わなかったせいであると考えると、ビルスと悟空の関係は思った以上に因果めいているのかもしれません。

 

 ちなみに、大界王神はブウに吸収され、そのブウは善悪に分離したあげく力だけ悪のブウに奪われ、接続を切り離されたことにより純粋なブウに戻り、そのまま吐き出されたことを考えると、善悪に分離した時点でほぼ大界王神そのものになっていたと考えられます。今残っているミスター・ブウは、ほぼ大界王神(と南の界王神)が変化した姿と言ってもいいのかもしれませんね。

未来の悟飯は何故生き残れたか

未来世界では、人造人間に大半の戦士が殺され、唯一生き残った悟飯がトランクスを鍛えるという背景が明確な現代との違いになっていました。

 

ところで、人造人間たちとの戦いで、何故悟飯だけが唯一生き残ることができたのでしょうか?ピッコロあたりがかばったのでしょうか?

 

メインの時間軸では、悟飯はセルゲームまでほとんど前線に出てきませんでした。その要因は、当初ヤジロベーを助けに行く役割を任されたことと、その後心臓病を発症した悟空を連れ帰る役割を与えられたことです。

未来の時間軸では、悟空は早々に心臓病を患って死亡していますし、他の戦士も殺されてしまったのですから、悟飯が誰かを助けるために一時離脱したとは考えにくいものがあります。

 

そこでポイントとなるのはやはり、その悟空が早期に死亡しているということかなと思います。

メインの時間軸では、人造人間が来襲することが知らされていましたので、悟飯は悟空やピッコロと修行していました。しかし、悟空が死に、人造人間が現れることを知らない世界ではどうだったでしょうか?

おそらくセル編後やブウ編後の悟飯同様、修行はろくにせず勉強に専念していたはずです。だから、その後人造人間が現れたとしても、すぐに戦いにはいかなかったのでしょう。修行していないから腕も落ちているでしょうし、気を感じられない相手で強さも分からないため、まさかフリーザよりも強いとは誰も思わず、ピッコロやべジータがいれば十分と考え悟飯を戦わせようとする者はいなかったはずです。

 

しかし結果的には全滅してしまい、戦いに行かなかった悟飯だけが生き残ったとなれば、悟飯としては自己流でも修行して自分が強くなるしかないと考えるしかありません。

未来の悟飯はどうやって超サイヤ人になったのか、ピッコロたちが殺されたからかと言われることもありますが、そんなに早期に超サイヤ人になれていたら、10年以上も戦い続けてずっと超サイヤ人のままそれ以上パワーアップせずにいたことも逆に不自然のような気もします。

 

そうではなく、未来の悟飯は当初修行をやめていたと考えれば、そもそもメインの時間軸よりもだいぶ戦闘力が落ちたところから悟飯の修行がスタートして、しかもピッコロたちの死に様も見ていないので超サイヤ人にも覚醒できず、かなり長い間修行に明け暮れていたのではないかと考えることができます。

案外、初めて外伝に登場した当初の未来悟飯は、割とまだ超サイヤ人になったばかりだったのかもしれません。だとすれば、ちょっと修行しただけで人造人間に勝てると思って返り討ちにあったのもなんとなく分かるような気がします。何回も戦ったことがあるなら、力の差を知っていてもう少し慎重になっていたでしょうからね。

 

このように考えると、未来の悟飯の修行過程が少し想像しやすくなり、また10年以上修行した悟飯が超サイヤ人1で止まっていることにも(単に修行のアイデア不足だったという理由以外で)納得できるのではないかと思います。

ドラゴンボールGTの思い出

ドラゴンボール超は原作っぽくない側面を見せる度に批判されることを避けられませんが、そういう批判が出ると同時に、「GTよりはマシ」という意見と、「これより酷かったGTってどんだけだったんだよ…」というGTを知らない世代の意見が垣間見えたりします。

実際に、GTを最初から最後まで追った身としては、一体ドラゴンボールGTとはどんな内容だったか、ということを改めて振り返ってみようかなと思います。

 

(欠点その1)あまりにも悟空しか活躍しない

当時一番不満だったのがここですかねぇ。「超」では基本的に「復活のF」で鳥山明が引いた強さのラインを基準としているので、悟空とべジータが同格ですが、GTは超サイヤ人4になった悟空だけが強く、それ以外はザコでした。悟飯や悟天はかませ犬の役割すら与えられていませんし、本来主役の一人だったはずのトランクスさえ見せ場はありません。ゴテンクスへのフュージョンも許されず、最後には超サイヤ人4になったべジータさえ、フュージョンのエサになっただけでした。新必殺技のファイナルシャインアタックは超17号に効かなかったしなぁ。

ドラゴンボールZは、悟空が戦線離脱している間のそれ以外のキャラの奮闘も売りだった作品です。だからクリリンやピッコロやべジータの活躍を楽しむことが出来ました。それが一切なかったのが非常に残念でしたね。そういやピッコロなんて死ぬために出てきただけでした。

唯一、ウーブがベビー戦で悟空以外の戦士として出てきましたが、お菓子光線を跳ね返されて食われるという有様で、だいぶ後になってから思い出したかのように実はわざと食われて内部から攻撃するつもりだったと言ったのも萎えました。というかZの最終回で悟空に次ぐ最強の戦士になるはずだったキャラが全然その格を与えられなかったのは悲しかったですね(キャラ的に魅力が薄いというのはありますが)。

今作られていたら、ゲームキャラを増やせるという名目で無駄にゴテンクス超サイヤ人3べジータなどが出ていたと思います。

 

(欠点その2)過去作から借りてきたアイデアばかり

超サイヤ人4や邪悪龍などはオリジナル要素ですが、端々に過去作のアイデア流用と思えるネタが使われていたのも微妙でした。ベビーはツフル人が作り出した生体兵器という意味では、「サイヤ人絶滅計画」で使われたネタですし、ベビーへのとどめの一撃(太陽に吹っ飛ばす)はクウラへのそれで見たものでした。悪人が地獄からよみがえるというのは「復活のフュージョン!悟空とべジータ」のネタですし、ゴジータが再登場したのもそうでした。超17号へのとどめが龍拳だったのは「龍拳爆発!悟空がやらねば誰がやる」ですし、邪悪龍へのとどめが元気玉だったのは魔人ブウへのとどめと同じでした。目新しさやカタルシスという点がだいぶ足りなかったかなぁと思います。

その意味では、「超」は超サイヤ人ブルーの界王拳とか、トランクスの元気剣とか(その後の展開は別として)、一応それまでにない技を出しているという意味で頑張っている方かなと思います。そうそう、「10べえかめはめ波」も嫌いでしたね。界王拳のときはちゃんと「10ばい」って言ってたやんって。超でも「でえふく」とか言ってるけど。

 

(欠点その3)基本的に、対象年齢が低い

多分GTが抱えていた根本的な問題だと思うんですが、話の内容が、Zよりも数段小さい子向けになっていたと思います。パンとギルの絡みなんかもそうですが、基本的に話が小さい子にも分かるように、という視点で作られていたと思います。だからどこか話がコミカルでしたし、悟空が肉体だけでなく精神的にも幼くなっていましたし、理屈の辻褄あわせが適当だったように思います。スゴロク空間とか、いちいち謎の子供っぽさがありました。地獄での悟空対フリーザ・セルなんかはその極地で、「復活のF」と比較したら涙が出てきます。多分、当時の脚本家は完全に子供向けアニメのつもりで作っていたと思います。ポケモンとかデジモンみたいな感覚で。

それに比べたら、「超」はまだ過去作のファンに向けて作られているのが明確で、旧作キャラ同士の絡み(未来トランクスと現代キャラの会話とか、17号やフリーザへのほかのキャラの反応とか)などは非常に力を入れて作られている分、かなりマシな部類です。

 

とりあえず「Z」が持っていた魅力をことごとくスポイルしたのが「GT」だったかなぁと思います。

いい点はなにかなかったのか、と言われると…うーん、大猿という忘れられた存在を引っ張り出してきたこと自体はよかったですね。ドラゴンボールが敵になるというアイデアも良かった。超17号はダメでしたね。なんで17号じゃなきゃいけないのか分からなかった。実は17号はセルよりも強かったのだとか、今見ると未来予知っぽくて笑えますが、当時はアホか、むしろその超17号を蘇ったセルに吸収させろよと思ってました。

邪悪龍も7体いるんだから、それぞれ別の戦士が倒しに行くという展開でも良かったと思うんですよ。ワンピースとかそうじゃないですか。悟空は四星龍とそのついでに三星龍とだけ戦っていればよかったんですよ。そういう発想が根本的になかったのが、GTの残念さかなぁと思います。

 

うん、思い出しても不満しか出てこないですね(笑)。いやほんと、超の方が全然ましです。もう少しGTを擁護できることを言えるかと思っていたんですが、思い出したら不満しか出てきませんでした。

セルは何故倒されねばならなかったか

 ドラゴンボール超ではフリーザの復活が話題ですが、まだフリーザよりセルの方が味方にしやすいんじゃないかという意見もちらほらありました。実際、セルは明確に悟空たちと敵対する理由が、実はそんなにありません。

 

 ピッコロ大魔王は世界を明確に征服しようとしており、そのために悟空の仲間たちを次々と殺しました。

 べジータフリーザドラゴンボールを奪いにきたという点で対立しました。また悟空たちを見逃すつもりも毛頭ありませんでしたね。

 人造人間たちはそもそも悟空を殺すのが目的だったので、敵対しないわけにはいきませんでした。ただ、セルは違います。特に悟空の抹殺を使命とはしていませんでした。

 

 そもそも、セルの目的は「完全体になること」でした。それ以上の目標を持っていなかったのは、実際に完全体になってから行ったことがセルゲームだったことからもわかります。ただ完全体となった自分の力を試したかっただけなのです。だから更なる修行を促し、悟空との戦いを楽しみ、悟飯を覚醒させようとしていました。

 セルと和解できなかったのは、悟飯を怒らせたことが一点です。そのためには手段を選ばなかった姿勢が、「もう許さないぞ」と悟飯に言わせてしまいました。その上、悟飯に痛めつけられ完全体ですらなくなったことにより、逆上して自爆を試みてしまいます。その自爆を乗り越えさらに強くなったセルは、もう十分強くなったと地球ごと破壊しようとした結果、悟飯に阻止され死亡しました。

 その意味で、セルを倒さなければならなくなったのは、「自爆以外に手段がないほど悟飯に痛めつけられたから」ということにもなります。追い詰められたのが悟空だったら、途中で見逃してもっと強くなってまた戦おうと言っていたような気がしますね。フリーザに対してでさえそうだったわけですし。

 

 フリーザがどんな状況になっても悟空たちを裏切りそうであるイメージがあるのに比べると、セルは追い詰められると自爆するという点が懸念されるものの、より強くなるためなら協力を惜しまなそうなイメージがあります。

 そもそもセルが完全体になったところで、世界が困る理由はありませんでした。完全体になったセルは放っておけば地球を破壊してしまったかもしれませんが、目的が強くなることなのでその前に悟空やべジータなど強い戦士と片っ端から戦おうとしたでしょう。

 

 セルはまた、「人々が恐怖におののく顔を見たい」ということも言っていました。非常に取ってつけたような理由で、どちらかというとトランクスたちに戦わせる動機を与えるために言ったような気もします。行動理念だけを見ると、セルはただ強くなりたい、という本能以外をインプットされていないように思えます。悟空たちサイヤ人との違いは、そのためであれば手段を選ばないという点と、戦うことを楽しむのが目的ではないということでしょうか。

 究極的に言えば、セルは戦いたいのではなくより優れた生命体へと進化したいという欲求があるのだと思います。ドクター・ゲロのコンピューターはセルに「完全体になること」しか目的を設定しなかったのでしょう。究極の生物を作る、というところまでで、その生物に何をさせたいのか、まで考えていなかったのかもしれません。

 だとすれば、セルは最も悟空のライバルになり得たはずの存在でした。それなのに、歴代の敵の中でもっとも悟空の関心を得られなかったという、悲劇的な存在であったとも言えます。以前考察したように、この時の悟空の最大の興味は「悟飯の真の力はどのくらいか」ということだったわけですからね。悟飯を覚醒させた時点で、セルは用済みだったのです。

 

 正直なところ、セルは物語の都合上仕方なく作られたラスボスであり、当初予定していたキャラクターではありませんでした。その上、斑点を書くのが面倒という、鳥山明氏もアニメスタッフも苦しめる存在でした。誰からも好かれなかった悲しい悪役、それがセルだったということになります。作者に愛着を持たれなかったから、主人公たる悟空にも関心を持たれなかったのかなとも思います。

 まぁ、あえて言うならば、セルは最初から強くなるように細胞を調整して作られた生命体で、修行ではなく吸収でパワーアップするという意味で、悟空にとって魅力的なライバルではなかったんでしょうね。

 

 ただ、もしセルを追い詰めたのが悟空だったり、あるいは悟飯が調子に乗って痛めつけすぎないでいたら、セルはどのような選択肢を取っていたでしょうか。やはり自爆して地球ごと消し飛ばしたり、他のキャラクターを殺してしまったりしていたでしょうか。

 色々考えてみましたが、「思いつきません」。おそらくですが、当時の鳥山明氏には、これ以上悟空を強くするアイデアが残っていなかったんだと思います。最近のインタビューでも、超サイヤ人以上に強くする方法をなかなか思いつけなかったと言っています。「神の領域」という新しい世界が出てくるまで、どうやっても超サイヤ人の延長のパワーアップしか思いつかなかったということです。2や3も、より強い超サイヤ人でしかありません。

 だから、セルよりも強い戦士を生み出す方法も、ずっと伏線として残していた「実は悟飯が秘めている力は悟空よりも上」というアイデアしかなかったのかなと思います。もう悟空がセルを超えるアイデアがなかったので、セルを生き残らせたとしても、そのセルと切磋琢磨してより強くなる悟空というのをイメージできなかったのかなと。実際、セルと和解して生き残ったとしてもその後ブウのかませ犬になってダーブラの代わりにやられるくらいの使い道しか思いつきませんし。

 そういう意味では、べジータの物語に決着をつけた魔人ブウ編のほうがまだ話としては成立していたのかなと思います。セル編は悟飯が悟空を超える話ではありましたが、そもそも悟飯というキャラクターの動かし方に作者がしっくり来ていなかったので、ブウ編のべジータのように生き生きとしたドラマにはなりませんでした。

 おそらくセルは、紆余曲折を経た人造人間編の犠牲者なのだと思います。「フリーザの次の敵」がどのような存在であるかをしっかり作ることが出来なかった結果、無理矢理生み出された倒されるためだけの存在だったのかなと。だからゴクウブラックはそのリベンジだったはずなのですが、その終わり方もハチャメチャだったので、結局のところ本当の意味での「フリーザの次」は破壊神ビルスしかなかったのかなと思います。

 

 なんとなくですが、人造人間編を悟飯の物語にするのであれば、トランクスの未来ではたった一人生き残った戦士として戦い抜いたことを鍵にすべきだったのではないかな、と思いました。未来の悟飯が得られなかった力を、トランクスが橋渡しとなって現在の悟飯が得て、それによって悟空も倒せなかった敵を倒す、という展開なんかもありだったんじゃないかと思いますね。

べジータは何故ブウへのとどめに元気玉を提案したのか

 魔人ブウへの決め手として、元気玉を提案したのはべジータでした。これって当時から結構疑問に思った人が多かったんじゃないかと思います。べジータは確かに元気玉を受けたことがありますが、技の名前も原理もちゃんと知らなかったはずです。その後地球に居つく経緯の中で知ったということは十分考えられますが、元気玉のことをちゃんと知っているのは悟空以外では悟飯とクリリンだけであり、この2人とべジータがあまり絡んでいたとは思えないので、微妙なところです。

 そもそも魔人ブウに使った元気玉は「地球人の元気を根こそぎもらう」という界王様が教えた技のもう一段階上の技で、そんな元気の集め方ができることは物語上全く説明がありませんでした。それをあたかもべジータが当たり前のように知っていたのは、ご都合主義以外の何者でもないでしょう。占いババから一日だけ生き返らせてもらった際に界王様から教えられた可能性も、その界王様のリアクションから考えにくいものもあります。

 ここは単なるご都合主義で済ませたいところですが、べジータは地球で悟空たちと戦っただけで、気のコントロールを習得した天才です。このブログでの考察では界王拳すら習得していた可能性があることにも触れています。そうであれば、元気玉がどんな技であるかもある程度理解していたのかもしれません。その上で、そういう技の原理なのであれば、元気を分け与える側が意図的に気を全部明け渡せば、もっと強い技になるということも察知できていたのかもしれません。かなり好意的な解釈ですが。

 

 今回の考察の本筋はそこではありません。べジータが何故「元気玉なら魔人ブウを倒せる」と思ったかです。この伏線は、べジータが一度魔人ブウに対して自爆したことにあります。

 べジータは自爆する前に、「きさまのかたづけかたがわかったぜ…やっとな」と言っています。「やっとな」という言葉があるのは、それまでにブウへの攻撃方法を試行錯誤しているからです。肉弾戦で痛めつけたり、気で身体を貫いたりしてみましたが、そのどれもがダメージを与えることが出来ておらず、べジータは戦いながらブウへダメージを与える方法を模索していたと考えられます。べジータは悟空を気絶させてまで一人でブウを倒すと決めており、後に引くことは考えていません。魔人ブウだけは絶対に自分で倒すと決めた以上、その倒し方を考えなければなりませんでした。

 おそらくブウの戦闘力自体は超サイヤ人2のべジータと比べて圧倒的に高いわけではなく、超サイヤ人3の悟空なら倒せていたと言っていたあたり、2でも頑張れば勝てないレベルではなかったのだと思われます。ただダメージが全く通らないため、ずっと戦っていても勝つことが出来ないというのが魔人ブウのやっかいな点でした。

 そしてべジータは色々試してみた上で、跡形もなく消し飛ばす以外に確実に倒す方法がないと理解します。そのためには、自分の持つエネルギー全てをぶつける以外に手段はない、というのがべジータの結論だったのでしょう。それは、命を燃やす以外に、自分の手持ちの技でブウにダメージを与えられるものがなかったということになります。

 しかし、本当は一つだけブウを倒せる技があることに気づいていたんです。それが、元気玉。自分の気だけで勝てないのであれば、他人の気も使うしかない。そこらじゅうの生物の気を全て集めて一つの武器にできるのが元気玉です。これなら魔人ブウを消せるだけのエネルギーも集められるはずだと考えられます。しかしべジータには元気玉は使えませんでした。使うには清く正しい心が必要だからです。ただでさえバビディの支配を受けた状態のべジータには、絶対に使えない技です。そのため自爆するしかなかったのですが、その後生き返り悟空と合流した状態であれば、悟空に元気玉を使わせれば勝てると思ったのでしょう。

 生き返った悟飯やゴテンクスを戦わせれば、戦闘力上は純粋に戻ったブウを上回ることは可能でした。しかし悟飯やゴテンクスがブウを完全に消す攻撃ができるかどうかはわからず、もしまた吸収されてしまったらもう勝てるかどうかわかりません。ブウは自分が勝てないと理解した、より強い相手を吸収する傾向にあるので、戦闘力の高い者を戦わせるより、瞬間的に強力な技で倒すほうが確実とも考えたはずです。そんなことまで考えられるのは、まぁ当時のメンバーの中ではべジータだけですね。あとはデンデかサタンか2人の界王神ですから。

 

 つまり、一度「ブウを倒すにはどうすればいいか」を真剣に考えたのがべジータだけだったので、元気玉の提案もべジータにしかできなかったんだということです。

 ちなみに悟空は何故元気玉を思いつかなかったかというと、基本的に悟空は元気玉という技があまり好きではなかったからなのかなと思います。というのも、元気玉というのは他人の力を借りて敵を攻撃する技なので、自分ひとりの力で戦いたい悟空にとっては邪道な技なんです。しかも威力が高すぎることから、確実に相手を殺す覚悟がなければ使えないので、なるべく相手を殺したくない悟空には本当に最後の手段でしかないのです。そもそも特大の元気玉でもフリーザを倒せなかったので、フリーザより強い相手には通用しない技という認識も持っていたはずです(というか、当時の読者もみんなそう思っていた)。

 元気玉という技の特性を理解し、別の使い方まで推察できたのが、技を編み出した界王様でもなく使い手である悟空でもない、受けたことのあるべジータだけだったというのが、ある意味ではべジータのセンスの高さを象徴しているのではないでしょうか。

神の域に達することができる既存キャラはどれだけいるか

 「神と神」の時点では、破壊神に対抗できるのは超サイヤ人ゴッドのみであったことから、サイヤ人でなければ神の領域にたどり着けないというイメージがありましたが、「復活のF」ではフリーザ超サイヤ人ゴッド超サイヤ人級の力を身につけ、「超」では超サイヤ人ブルーでも倒しきれないヒットやトッポ、それ以上の力を持っていそうなジレンが出てくるにあたり、別にサイヤ人でなければ神の領域に達することが出来ないというわけではない、ということが分かってきました。

 そうであるならば、既存のキャラクターにおいても、悟空、べジータフリーザ以外でも神の域にたどり着く可能性のあるキャラがいるのではないかと思い、考えてみました。

 

 まず、率直に思いつくのがセルです。フリーザが可能なのであれば、その細胞に加えてサイヤ人の細胞も持っているセルなら可能でしょう。セルも生まれてから修行などしたことがありませんしね。まぁ、セルが復活するかどうかはまた別の話ですが。

 魔人ブウはどうでしょうか。神の域に達したキャラを吸収すれば可能かなとも思います。自力で修行した「超」ではミスター・ブウの顔のまま筋肉質になることも可能としていましたが、それでどこまで伸ばせるかは謎です。見ただけで敵の技を覚えられる、という意味ではフリーザやセルより才能がありそうですが。

 サイヤ人は6人いればゴッドになれますから、基本的には誰でも神の域に達することができるはずです。そのため、悟飯・悟天・トランクスにも可能性はあります。ただ一時的にゴッドになったとして、そこから神の気をコントロールできるようになるかは、修行次第ですが。まだ小さい悟天とトランクスではちょっと厳しそうなので、現実的な可能性があるのは悟飯(と未来のトランクス)くらいでしょう。

 味方キャラで他に可能性があるのはピッコロです。ピッコロは元・地球の神でもあるので、そういう意味では神の気にたどり着いてもおかしくはない気がします。界王神も神の気を持っているかは微妙なところなので、神だから神の気を操れるというわけでもないのかもしれませんが、ピッコロならそのレベルには十分達することができるように思います。何より、ピッコロが神化すれば再び第一線級に戻ることができるので、ちょっと期待してます。悟飯との修行もそのフラグだと思いたい。

 そうそう、17号もイケてそうなので18号も頑張ればイケるんじゃないでしょうか。前回考察したとおり人造人間も修行すればフリーザ同様神レベルになれる可能性があります。原作が連載されていた頃は、修行したら強くなるという次元を超えてしまって、いかに超サイヤ人をパワーアップさせるかという発想しかありませんでしたが、修行しなそうなキャラが修行するだけで強くなる、というアイデアが生まれてからはいくらでも強いキャラを増やせそうな気がしますね。

 ただまぁ、クリリン天津飯亀仙人はちょっと無理そうです。ジャンプ連載当時ならこの3人が強くなることはあり得ないですし、それくらいなら新キャラを出しているでしょう。ただ地球人は神レベルに達することができないのか、というと必ずしもそうではないような気もするので、作品の都合でどうとでもなりそうな気もします。亀仙人はやたらパワーアップしていますしねぇ。昔は地球の神が人間だった時代もあるでしょうし、純粋な地球人(天津飯は違うんですが)でも神の領域に到達できるキャラは現れるかもしれません。

 

 というわけで、「神の気」という設定が出てきたことで実は過去の色々なキャラをパワーアップさせることができるのかもしれない、というネタでした。最近のドラゴンボールは割と設定がゆるいので十分ありえるんじゃないでしょうか。この頃思っているんですが、原作が強さの序列に非常に厳格だったのは、鳥山明氏本人ではなくジャンプの編集担当の意図によるところが大きかったんじゃないかと感じます。ジャンプの漫画はかなり編集者のアイデアが入っているようですからね。「復活のF」の時の鳥嶋氏のコメントなんか、完全に編集者目線で鳥山明のアイデアを見下していましたので、当時もそういう力関係だったのだろうと思います。

 そういう意味では、もう少し鳥山明氏のアイデアを制御できる人材がドラゴンボールの新作には必要なのかもしれませんね。