どらごんぼーる考察

がんだまぁBlogからドラゴンボール記事を移植しました。以後ドラゴンボール考察はここで展開します。

神龍の種類と生みの親の力

ドラゴンボールは創造主の力を超えた願いは叶えられない、という設定があります。これを踏まえ、複数存在する神龍とその創造主について比較してみたいと思います。

 

(1)地球の神龍(神様Ver)

 元祖シェンロン。オリジナルのナメック星のドラゴンボールよりもボールのサイズは小さく、叶えられる願いも1つだけ。叶えた後に次の願いが叶えられるようになるまでには1年かかります。死んだ人間は一度に複数蘇らせることができますが、1度生き返ったことがある人間は2度目は生き返れません。

 

(2)地球の神龍(デンデVer)

 デンデが再び命を与えた神龍。ボールのサイズなどは全て継承していますが、願い事は2つ、その後願い事の内容によっては3つ叶えられるようになりました。このことから、神様よりもデンデの方が龍族としての能力は上だったことになります。

 

(3)ポルンガ(最長老Ver)

 ナメック星の神龍ドラゴンボールのサイズはバスケットボールくらいでしょうか。神龍自体のサイズも地球のものよりだいぶ大きくなっています。願い事は3つですが、一度に複数の人を生き返らせることはできません。その代わり、2回死んだ者も生き返らせることができます。願い事を叶えてから次の願いを叶えられるようになるまでは130日かかりますが、これはナメック星における1年の日数のようです。

 

(4)ポルンガ(ムーリVer)

 最長老の座を受け継いだムーリがパワーアップさせることで、ポルンガも一度に複数の人間を生き返らせることができるようになりました。このことから、ムーリの方が前最長老よりも力があるようにも思えますが、より若いからなのかもしれません。前最長老は異常気象に見舞われた後にナメック星人を全て自分で産み出していますので、相当消耗したのだと思われます。

 

(5)究極神龍(カタッツの子Ver)

 GTで登場した、神様がピッコロと分離する前に生み出したドラゴンボール。ピッコロと分離してから神様になったはずなので、神様になる前にドラゴンボールを生み出していたようです。何故そんなことをしたのかは謎なのですが、前の代の神様に自分の力を見せるためかもしれません。

 神様よりも力があった頃の神龍なので、悟空を子供に戻す力を持っていましたが、それにどれだけの力が必要なのかは謎です。当時の超サイヤ人になっていない悟空よりは強かったということでしょうか。

 願い事のルールは基本的に一緒なのですが、願いを叶えた後に宇宙にボールが散らばってしまうのと、1年以内に集めて神殿に戻さないと願いを叶えた星が爆発してしまうという謎のデメリットを抱えています。邪念があったからなんですかねぇ。

 結局ピッコロが死を選んだので消滅してしまいました。

 

(6)超神龍龍神ザラマVer)

 ドラゴンボール超で登場した惑星サイズのドラゴンボールから出てくる銀河サイズの神龍。第6宇宙と第7宇宙にまたがって存在していたので、対の宇宙に存在しているようです。他の宇宙にもあるかは分かりませんが、力の大会で既存のものしか出てこなかったので1つしかないのでしょう。次の願いが叶えられるまでの期間は地球カウントの1年のようです。

 龍神ザラマの格の大きさがわからないのですが、願い事に制限がないそうなので、全王や大神官、天使クラスの力はあるのではないかと思います。全王が消滅させた宇宙を復活させることができるくらいですから、全王と同等クラスの力がある可能性も考えられます。その気になればザマスに滅ぼされたトランクスの未来世界を元通りに戻すこともできるのでは…?

 

 他にも漫画版超に新たな神龍が登場していますが、ここでは割愛します。

 

 これらの神龍を比較してわかるのは、創造主の力の差による叶えられる願い事の差と、単にルール上の制約における叶えられない願いがあるということです。

 例えば、作中のドラゴンボールの中で、最も力が劣るのは最初の神様のドラゴンボールですが、これはナメック星のものと違い一度に複数の人間を生き返らせることができました。デンデのドラゴンボールにより、一度にたくさんの人間を生き返らせると3つの願いが2つになる(=多くの人を生き返らせるのに多くのエネルギーが要る)ことが分かったので、地球のドラゴンボールは強い力を持っていることになりますが、ポルンガよりは劣るはずなので、ナメック星のポルンガはあえて複数の人間を生き返らせることができないよう制約をかけていたことになります。ムーリはその制約を解除しただけと考えることもできます。

 逆に神様が作ったドラゴンボールは1度生き返らせた人間をもう一度生き返らせることができませんが、これは独自に設けたルールであるとも考えられます。一度にたくさん生き返られるようにした分、何度も同じ人が生き返る可能性があるのは不平等と考えたのかもしれません。

 そのように考えると、生き返らせられる人数や生き返れる回数は創造主の能力差ではナイト言え、創造主の力量差が現れているのは願いの内容以外だと、単純に願い事の数と言えそうです。神様は1つ、デンデは2〜3つ、最長老は3つと考えると納得感があります。

 GTの究極ドラゴンボールが願い事を叶える代わりに1年後星が爆発するのは、願い事を叶える代償に星の命を使っているからなのかもしれません。通常のドラゴンボールは、その代償がない分内部にマイナスエネルギーを溜め込むようになっていたと考えられます(多分GTのみの設定で、超ではなかったことになっていると思いますが)。ドラゴンボールの願い事の力は明らかに創造主の力よりも大きいので、その分何か代償を払っているということなのでしょう。

 超神龍はまだ龍神ザラマがどのような存在なのか明確になっていないため考察するのが難しいですね。ザマスが使用していますが、別にザマスの願いくらいなら地球やナメック星のドラゴンボールでも叶えられたような気はします。ポルンガは「生きている者の魂だけを動かすことはできない」と言っていたので、魂の入れ替えはポルンガでもできない可能性もありますが…でもギニューができるしなぁ。単純に集め方を知っていたのが超ドラゴンボールだけだったと考えた方が良いのかもしれません(そもそもザマスは第10宇宙の存在だし)。

 

 そういえば、第6宇宙にもナメック星があるので、こちらにもドラゴンボールがあったはずなのですが、最長老は同化していないなら健在のはずですね。第6宇宙のサイヤ人ナメック星人まで話を広げると収拾がつかなくなりそうなので、ここを掘り下げるのは非常に危険ですね(笑)。

 

追悼・鳥山明

 ドラゴンボールの原作者である鳥山明氏が亡くなりました。1ファンとして非常に残念です。謹んで哀悼の意を表します。

 

 特に、このブログでは鳥山原作の設定かどうかに重点を置いて考察していました。もう新しい鳥山設定が生まれなくなることは大変残念です。

 ドラゴンボールのビジネスはバンダイナムコの経営を左右するほど大きなものになっていますので、ドラゴンボールの新作作品の制作は決して終わることはないでしょう。しかし鳥山原作とそれ以外の作品では、特にキャラクターの強さの序列や、キャラクターの性格描写の深みに大きな差があります。原作者以外はあまり迂闊に踏み込んだ描写ができないので(実質二次創作のようなものですから)、致し方ない部分があります。しかし、もうその原作者がいない以上、なるべく原作者の意に沿った作品作りを続けて欲しいという思いから、このブログを続けていきたいと思います。

 

というわけで、鳥山原作とそれ以外の作品で何が違うかを、ここに書き記しておきたいと思います。

 

(1)強さの序列

 鳥山原作は強さの序列が明確です。例えば魔人ブウの強さは善<純粋<悪<ゴテンクス吸収<悟飯吸収と明確に描かれています。それを最後の敵だからとアニメで純粋ブウが一番強いように悟空に言わせるのはごまかしにすぎません。盛り上げるために力を失ったキャラが何回も理屈なしに回復したり、明らかに力の差があるキャラ同士の戦いがいい勝負になったりすることはありません。いい勝負をさせたいなら、片方を弱らせるなど、理屈ではっきり説明できる描き方にして欲しいものです。

 

(2)孫悟空の性格

 最も違いが現れるのが、主人公たる悟空の性格です。鳥山氏が描く悟空は、とにかく戦いが好きで、強くなることを何よりも優先し、そして誰とも戦いを通じていいライバルになれると信じています。田舎育ちで純粋なので人を疑うことをしません。全ての戦闘を試合と捉え、試合に負けないために強くなります。殺しは反則なので許しません。戦いに勝つためには頭も使いますし、非情な判断を下すこともあります。弱いヤツは割と見下します。

 しかしアニメの悟空では、世界を救うために悪いヤツと戦います。許せないヤツは容赦なく消滅させます。必要以上に訛った喋りをします。悪いことをするヤツに怒ります。頭が悪く、失礼な行動を取ったりします。弱い者を守るためにも戦います。いわゆる、一般的な「ヒーロー」の属性が追加されがちなのがアニメの悟空です。

 鳥山明が描く孫悟空は決してヒーローではありません。ただ向上心の塊で、決して諦めないだけです。弱き者や、世界の危機のために戦う存在ではないのです。

 

(3)ベジータの性格

 ベジータは常に成長しているキャラクターです。そのため、どこかの時期のベジータのキャラを切り取ってしまうと、その時点のベジータとしては違和感を覚えるようになります。

 ベジータサイヤ人の王子として生まれ、サイヤ人が宇宙最強の戦闘民族で、その中でも最強の自分は宇宙最強であると教えられて育ってきました。しかし同じサイヤ人ながら自分より強いカカロットと出会い、カカロットより強くなることを目指してきました。その過程で地球人のブルマと出会い子を設け、徐々に家族を大切に思う心が芽生えてきます。その思いとカカロットへの執着を天秤にかけ、後者を選んだものの選びきれなかったのが魔人ブウ編です。そしてカカロットへのわだかまりを解消し、それでもなおカカロットよりも強くなることを目指し、破壊神や天使に学びカカロットとは違う強さを得ようとしているのが現在の「超」でした。原作最終回の完全版でもベジータはまだカカロットより強くなろうとしているので、多分それまでに悟空を超えることはできなかったのでしょう…。

 悟空ほどアニメのベジータにキャラから外れるようなことは起きないのですが、少々ギャグキャラにされすぎているきらいがあります。ベジータはどちらかというとギャグ的な展開の中でもシリアスになってしまうところに笑いどころがあるのですが、ベジータ本人がピエロのようになってしまうのは少し違うかなと思います。まぁ、ビルスの前でビンゴダンス踊ったのは鳥山原作作品なんですが、あれも目的のためにやむなくピエロになっただけですからね。

 

(3)ピッコロの性格

 ピッコロに関しては、どちらかと言うとアニメで個性が強化されたキャラクターかもしれません。というのも、悟飯と師弟関係にあるものの共闘するシーンが原作に少なく、アニメ(特に劇場版)の方が頻度が高いからです。その結果、悟飯のピンチには必ず現れるキャラという印象が強くなりました。

 ピッコロの場合、神様と同化する前後で割と性格が変わっているので、それを忘れてマジュニア時代の性格で描かれると違和感を覚えるかもしれません。同化後は、いわゆる悪者っぽさが鳴りをひそめ、理知的で最も状況理解力がある(メタ的に言えば説明役になりがち)キャラとして描かれています。魔人ブウが知能を得るために吸収したキャラですからね。

 

(4)孫悟飯の性格

 悟飯(特に成長後)は難しいキャラクターです。というのも、鳥山氏自身がどう描くか苦心していたからです。何よりも「心優しい」のですが、それはどちらかというと「戦いが好きではない」ことから来ており、それは悟空と違って格闘技としての戦いの楽しさを知らないからでもあります。鳥山氏はこの点を大事にしているので、どうしても戦わせる展開にならないと戦わない=修行もしないので自発的に強くならないという欠点を抱えています。アルティメット化が常時なのか変身扱いなのかもブレていたのも描きづらかった要因ですね。

 「スーパーヒーロー」で育児を疎かにするほど研究に没頭しており、悟空が戦いに向かう気持ちがそのまま研究に向かっているキャラという個性が追加されたので、多少描き方に幅が出たとは思います。好みが違うだけで、本質的には悟空と似た性格ということですね。このような新たな個性の付加は原作者にしかできないと思うので、その点も残念です。

 

 すでにドラゴンボールDAIMAの放送も決まっていますし、ゲームもずっと作られ続けるのでしょうから、少しでも「鳥山明の世界」をキープすることをスタッフの皆さんが努めることに期待して、ブログの執筆を続けていきたいと思います。

「惑星ベジータの神」とビルスと超サイヤ人ゴッドの関係

アニメ版ドラゴンボールZでは、まだフリーザという存在が原作に登場する前、惑星ベジータが滅んだ理由が「サイヤ人の悪行に見限った惑星ベジータの神が隕石をぶつけたから」という背景が界王様により語られていました。原作に先走って勝手にアニオリ設定を追加するのが当たり前だった時代の名残ですが、同時に語られた「惑星ベジータ先住民族ツフル人」の方は鳥山明氏が作った設定であるため、作者による裏設定に更にアニメオリジナルで設定を追加したという、ややこしい経緯があります。

 

当然この設定はフリーザの登場によって無かったことになったわけですが、まだ微妙に生かす余地が残っています。

というのも、フリーザが惑星ベジータを滅したのは破壊神ビルスの意思でもあったということになったので、少なくとも「神」がサイヤ人を見限って滅ぼそうとしたのは間違っていないわけです。正確な情報を界王が知らなかったのも、より上位の存在である破壊神による行動だったためと説明することができます。

しかし、当然ながら破壊神は「惑星ベジータの神」ではありません。この言い回しは地球に神様がいるように、他の星にも神様がいるという意味合いだったのだと思います。その意味では、サイヤ人にも神はいます。「超サイヤ人ゴッド」です。「超サイヤ人神」とも表記されるこの存在こそ、まさに惑星ベジータの神と言えます。

超サイヤ人神は、過去にかつて現れたものの、途中で変身が解けて悪のサイヤ人たちに敗れたという伝説が残っているだけの存在でした。そのため、それが惑星ベジータを滅ぼそうとしたとは思えません。しかし悪の道を走るサイヤ人たちに失望していたのは間違いないでしょう。

 

これらのことから、以下のことは確実です。

さて、ビルス超サイヤ人神と戦いたがっていました。その理由は以前考察しましたが、その他にももう一つ理由がある可能性があります。それは、ビルスがかつて超サイヤ人神と出会ったことがあるということです。ビルスは老界王神が封印される7500万年前から生きていますので、当然超サイヤ人神が現れた際も健在だったはずです。そして、何らかの形でその超サイヤ人神と交流があり、それがビルスが悪のサイヤ人を見限るきっかけになったと考えれば、間接的に「超サイヤ人神が惑星ベジータを滅ぼした」と言えるのではないでしょうか?そして、なぜビルス超サイヤ人神という存在に固執したのかの理由も見えてきます。

 

その仮定に立って考えた場合、ビルスはかなり超サイヤ人神に対して好意的だったことになります。その遺志を受け継いでいるわけですからね。以前の考察のように超サイヤ人神に自分の後継者になることを期待していたのであれば、それがかなわなかった失望がサイヤ人に対する絶望につながったとも考えられます。

 

つまり「惑星ベジータの神がサイヤ人の悪行に失望して隕石をぶつけた」というのは、「惑星ベジータの神(とも言える超サイヤ人神と交流があった破壊神ビルスが)サイヤ人の悪行に失望して隕石をぶつけた(と見せかけてフリーザが破壊するのを容認した)」ということになるわけです(笑)。

それを界王様は何故誤って理解していたのか?それは当然、ビルスからそう聞いたのでしょう。例えばこんな感じで。

 

界王「ビルス様、惑星ベジータはあなたが破壊したのですか?」

ビルス「違うね。惑星ベジータは巨大隕石の衝突で滅んだ(大悪人のフリーザにやらせたとは界王には言えない)。サイヤ人の神が望んだ結果だよ。悪さが過ぎたんだ」

界王(サイヤ人の…?惑星ベジータにも神がいるということか)

 

 こう説明していれば、当然界王様は作中でそう説明するしかないかと思います。

 この解釈に立った場合に一つ言えることが、ビルス超サイヤ人ゴッドに肩入れしているということ。善き心を持てば世界の秩序を守る力にもなるサイヤ人が、悪行の限りを尽くしているのを残念に思っていたのでしょう。そして実際、善の心を持った孫悟空に出会うことで、ビルスの見立てが正しかったことが証明されるわけです。

ドラゴンボールによる死者復活のルール

 当初の設定では、1年以内に死んだ人間でないと、ドラゴンボールで生き返らせることはできないことになっていました。そうでないと、孫悟飯(じっちゃん)も生き返らせることができてしまったりするからだったのだと思うのですが、いつの間にかなかったことになっていました。

 その最たる例が、「復活のF」でのフリーザの復活で、このことは以前考察し、フリーザは理由は不明確ながら魂がずっと地獄にあったので生き返ることができたと考えました。つまり、魂があの世に残っていれば、ドラゴンボールでいつでも生き返らせることができるということです。

 だとすると、元々死んで1年以内じゃないと生き返れないとされていたのは、通常の魂は転生のサイクルが1年で、その後は別の存在に生まれ変わってしまうからだと考えることが可能です。そうなるとウーブがブウを倒してから10年後に10歳だったのは辻褄が合わなくなりますが、閻魔大王が1年待たずに強制的に転生させたということなのかもしれません。

 ピッコロ大魔王に殺された者は成仏できないという設定もありましたが、これは死者があの世に行くことができないか、あの世で転生できず地獄などにずっといなければならなくなるということなのかもしれません。何故ピッコロ大魔王にそのような能力があるのかはわかりませんが、神様の半身であるが故の力であることは容易に想像できます。神様は、自由にこの世とあの世を移動する力を持っていたので、そもそも生死の境界線に干渉する能力があるのでしょう。上位存在?である天使はそもそもノーリスクで人を生き返らせることができますしね。

 いずれにせよ、フリーザが何年も転生していなかったことも含め、死者が転生するかどうかはある程度裁量の範囲でコントロールできるものの、一般的なルールとしては1年ということが言えると思います。悟空たちが特別に肉体を与えられて界王様と修行していたことも含め、だいぶあの世のルールはザルのようです。

 

 もう一つ曖昧なのが、死者の肉体のルールです。原則は、ドラゴンボールによる蘇生は「魂を元の肉体がある場所に返す」というもので、だからピッコロ大魔王に殺された亀仙人たちの遺体は冷凍保存されていましたし、ナメック星で死んだクリリンはナメック星で蘇生されるため、魂を地球に移動させる必要がありました。クリリンポルンガの特別サービスで肉体も修復してもらえましたが、本来はバラバラの肉体にそのまま魂だけ宿らせるようで、フリーザはトランクスに切り刻まれた身体のまま生き返っていました。しかしメカ部分は蘇生されていないので、欠損された部位の修復はしてもらえるようです。

 ポルンガがサービスと言ったように、ドラゴンボール神龍は元々肉体を修復する力があるものの、それをどこまで行使するかどうかは願いを言った人の意図によるというところなのでしょう。そもそも願いごとの数が限られているのも単にルールだからで、その気になれば同時に複数の願い事を叶えることは不可能ではないのかもしれません。デンデが地球の神龍の願い事を増やしたのは、神龍の能力そのものをパワーアップさせたというよりも、ルールを書き換えるというプログラミング的な処置によるものだったと言えそうです。

 悟空が界王星で生き返った時がそうだったように、基本的には肉体がある場所で生き返るのが原則です。そう考えると、セル諸共死んだもののセルに殺された扱いで生き返った17号は、空中か、下手すると宇宙空間で生き返っている可能性があります(笑)。まぁ、悟飯のかめはめ波が宇宙まで飛んでいく前にセルは消滅していたように見えたので、多分ギリギリ地球上で生き残ったのでしょう。肉体はやはりサービスで修復してもらったんでしょうね。それでも人造人間のまま生き返っているので、フリーザと違ってやはりサイボーグではないことがわかります。

 

 また、神龍は自分の創造者の力を超えた者を殺すという願いを叶えることはできません。魂を肉体に戻すことはできても、魂を肉体から引きはがすには物理的な戦闘力が必要になるようで、「殺す」方がハードルが高そうです。その意味では破壊神の「破壊」の方が、神龍の力よりも凄いということなのでしょうね。実際に願い事を叶えようとしたことはありませんが、多分17号と18号を元の人間に戻すことを願っても、それは創造者の力の限界で無理そうです。おそらく、肉体に物理的に干渉するには対象者以上の力が必要なのでしょう。

 ドラゴンボールの力はどちらかというと界王神の系譜の「創造」の力の方なのだと思います。界王神に創造の力があるという描写は今の所ありませんが。界王神ドラゴンボールの創造を「ナメック星人にのみ許された」と言っており、ナメック星の最長老は神に等しい存在として認められているということになります。地球の神も同様なんでしょうね。

 

 

 これらのことから、死者復活に関するルールとしては以下のことが言えると思います。

・あの世に魂が残っていれば死後何年でも蘇生は可能(原則は1年で転生する)

・魂は肉体のある場所に帰る。肉体をどれだけ修復してもらえるかは願い事次第(ただし肉体の欠損は戻してくれる)

 

ラディッツに伸び代はあったか

悟空の兄・ラディッツは、その弟が際限なく強くなっていき、その息子や父(後付け)もどんどん強くなっていることから、同じ血筋であるが故にもっと強くなれる可能性があったのではないか、と言われることが多いキャラクターです。そのため、ゲームオリジナル展開や二次創作などでは生存または復活してパワーアップする展開などもあったりしますが、実際のところどうだったのでしょうか。

 

ラディッツが惑星ベジータ滅亡を回避できたのは、映画「ブロリー」準拠ではベジータと一緒に他の星を攻めていたからでした。フリーザはあえてベジータ不在時に惑星ベジータを破壊しているので、そのベジータのおかげで生き延びたという意味ではラディッツは幸運だっただけとも言えます。

とはいえ、ラディッツカカロットのように赤ん坊の頃から星に送り込まれる対象では無かったようなので、少なくとも生まれた時の戦闘力がカカロットより高かったのは確かです。そういう意味では才能はある方だったのでしょう。

しかし、父バーダックが戦闘力10000近くまで伸びていた(旧アニメ設定)のに対し、ラディッツは戦闘力1330の魔貫光殺砲で貫かれるレベルなので、戦闘力は高く見積もっても大全集設定の1500以上はないと考えられることから、その実力はほとんど伸びていないと考えられます。

ベジータやナッパと比較しても、2人が鍛えていた尻尾を鍛えておらず、戦闘力もに大きく差をつけられ、「弱虫ラディッツ」と陰口を言われていました。どう考えても、誰が見ても、ラディッツ一人だけ明らかに格下です。

これらの事実から考えられるのは、「ラディッツは、死にかけた経験が圧倒的に足りていない」ということです。

バーダックがそうであったように、生まれが下級戦士であっても、何度も死にかけからの復活を繰り返せば、サイヤ人は強くなることができます。つまりラディッツの戦闘力が低いのは、サイヤ人特有の超回復が足りていないとしか考えられないのです。

ナッパやベジータから弱虫呼ばわりされていたのは、死にそうになるほどの強い相手との戦いを避けたり、死にそうになる前に撤退したりと、安全策ばかりをとって生きてきたからなのではないかと思われます。そのため、戦闘力を伸ばすことができていないのです。

それにしては、ラディッツは悟空やピッコロに対して尊大でした。地球人の農夫をゴミ呼ばわりしたことも含め、戦闘力が低い相手を見下しているのは間違いありません。しかし、戦闘力を基準におきながら、自分を上回るナッパやベジータに追い縋ろうという意志はあまり無かったようです。ラディッツの戦闘力はフリーザ軍の一般兵と同等(戦闘力3000のナメック星の若者に一蹴されるレベル)でしかないのですが、つまりはそのフリーザ軍一般兵の待遇で本人は十分だったのかもしれません。

 

これらのことから言えるのは、ラディッツフリーザにあごで使われ、ベジータとナッパと同じサイヤ人チームで組ませてもらえているという立場に特に不満を持っていないため、リスクを冒すような戦いを好まず、戦闘力を伸ばすことができていなかったということです。

これでは、まるで悟空とは逆ですね。どんなに強くなっても飽くなき向上心で修行を続ける悟空の兄弟とはとても思えません。仮に才能があったとしても、このメンタルでは強くなるのは難しいでしょう。はっきり言って伸び代はなく、早々に退場する以外ないキャラクターだったと思います。生き返ったところで、ヤムチャのような存在になるだけだったでしょう。

 

しかし、なぜラディッツはこのような性格になってしまったのでしょうか。バーダックという父から学ぶものはなかったのでしょうか。

赤ん坊の状態で一人で星に送り込む文化があるくらいですから、サイヤ人はそんなに家族と一緒に過ごさない種族なのではないかと考えられます。だからラディッツバーダックとほとんど接したことが無かったのでしょう。実際、「たった一人の最終決戦」ではラディッツはセリフの一言にも出てきません。生まれたばかりのカカロットのことは案じていたにもかかわらず、です。

このことから、ラディッツバーダックからは性格形成に必要な体験を何も受け継いでいないと考えられます。だとすると、ラディッツにあるのは「下級戦士」であるという事実だけです。

そうなると、ラディッツとその他の下級戦士サイヤ人を隔てるものは何もなく、本当にただの「下級戦士のサイヤ人」の一人としての育ち方をしたのだと考えるしかありませんん。そのリスク回避の姿勢や向上心の低さ、安定志向はまさに一般人のそれです。ラディッツは我々小市民の代表者に過ぎません。

悟飯がチチだけに育てられていれば、普通に学者になっていただけだと思われるのと同様に、ラディッツバーダックと関わりがなかったために、ただの下級戦士サイヤ人としての一生を送るだけだったということなのでしょう。悟空だって、強くなれたのはバーダックのおかげではなく、地球で出会った人々のおかげですからね。

 

そういう意味では、サイヤ人の小市民でしかないラディッツが、地球にやってきて農夫を虐殺しピッコロや悟空を子供扱いして楽しんでいるのは、弱い相手にばかり強気になるネットユーザーのようでもあります。どんなに優れた血筋にいても、どんなに優れた仲間がいても、自分自身が強くなろうとしなければ、ただの弱虫でモブキャラと同価値しかないのだと、我々に自省を教えてくれる存在が、ラディッツなのではないでしょうか。

セルゲーム時のベジータの心理

人造人間編はベジータが調子に乗らなかったらすぐ終わっていたというのはよく言われることで、特にセルを完全体にさせたことは最大の戦犯と言えます。ベジータがそのことについてどのくらい責任を感じていたかは分かりませんが、セルゲーム時のベジータは、かなり複雑な感情に苛まれていたのではないかと思い当たりました。

 

というのも、まず自信満々にセルを完全体にしておきながら、完膚なきまでに叩きのめされており、この時点でベジータのプライドはズタズタです。しかも、もう一度精神と時の部屋で修行しても、勝てそうにないことまで分かっていました。

悟空はベジータとは別のアプローチで修行し、ベジータ以上の力を身につけました。それだけでもさらにベジータのプライドは傷ついていますが、その悟空でさえまだセルには及ばないことは、悟空がカリン様の前で半分の力を見せた時に分かったはずです。悟空は悟飯が超サイヤ人2にならないと勝てないと分かっていましたが、ベジータはそれも知らないため、相当焦っていたのではないかと思います。勝ち筋がないからです。

一人で勝てないと分かれば、ベジータは周囲の力を利用するということは、ナメック星での行動を見ても明らかです。悟空がセルに挑む際の「フィニッシュを決めるのはこの俺だ」というセリフは、全員でかかって卑怯な手を使ってでも倒すしかない、という前提からの言葉だったとも考えられます。悟空が1対1で勝てるとは思っていなかったのかもしれません。

実際、セルはファイナルフラッシュやフルパワーのかめはめ波が直撃すれば消滅させられる相手ではあるので、油断させて避けられない状況を作れば倒すことが可能です。ベジータが考えていたのは、どうやってその状況を作るかどうかだったのでしょう。悟空との戦いでダメージを受けたセルを、一瞬の隙をついて殺す機会を窺っていたのかもしれません。かつてグルドにやったように。

しかし、セルはセルジュニアを生み出しそれぞれと戦わせるという能力も持っていました。そしてそのセルジュニアの戦闘力も、当時のベジータと同等レベルであり、これを無視してセルを狙いに行けるほどの余裕はありませんでした。

悟飯が覚醒し形勢逆転したものの、敗北を悟ったセルは地球ごと自爆という選択肢に出ます。この時点で、ベジータは完全に詰みました。なんとかできるのは瞬間移動を使える悟空だけでした。しかしセルは自爆後も再生しパワーアップして戻ってきます。そしてトランクスが殺されてしまいました。

ここでベジータのストレスは頂点に達します。以前の考察で悟飯が自分達を大きく超える力を身につけ、永遠の目標である悟空に先立たれ、息子のトランクスは一撃で殺されるという事実が全て重なり、やぶれかぶれになってしまったと考えましたが、実際にはそこに「セルを倒すのは(完全体にした)自分でなければならない」という使命感が叶わないことが加わっていたのかもしれません。本来であれば、その時点でのセルと悟飯の力は五分五分と思われ、ベジータが隙をつくタイミングが生まれる可能性はまだ残っていました。しかし冷静さを失ってしまい、おそらくそれまで時が来るまで溜めていたであろう力を投げ出してしまい、更に悟飯が致命的なダメージを受ける機会を作ってしまいました。

それでも、その後ベジータが一撃を加えることで悟飯がセルを倒すきっかけを与えることができました。おそらく、悟飯に庇われ冷静さを取り戻すことができたのでしょう。逆上したベジータの攻撃は再生直後のセルに全くダメージを与えられていませんでしたが、悟飯にかめはめ波を放っているセルはベジータの攻撃にそこそこ驚くくらいにはダメージを受けていました。全力を正面に振り向けていたからだとは思いますが、もしかしたら、ここぞという時のための一撃の力は、逆上してもなお残していたのかもしれません。

つまりベジータのセルへの最後の一撃は、あの瞬間咄嗟に出た行動ではなく、セルゲームの開催が決まったその時から、ベジータがずっと狙っていた攻撃だった可能性があるのです。理想は、それがとどめの一撃になることだったと思いますが、本当に格上の相手には騙し討ちも辞さないベジータですから、とどめが誰であっても相手を殺してしまえば良いわけで、ある程度狙い通りだったということになります。

原作連載当時、ベジータのフルパワーの攻撃(グミ撃ち)が全く通じなかったセルが、悟飯とのかめはめ波の撃ち合い中とはいえ不意打ちに動揺するくらいダメージを受けることに違和感を感じていたのですが、そのベジータの攻撃は、セルを完全体にし、悟空にも悟飯にも実力を抜かれ、トランクスも守れなかった者が、セルゲーム当初からずっと狙っていた魂の一撃だったと考えると、少しは納得できるのではないでしょうか。

地球人戦闘キャラクターの家庭環境

悟空やベジータサイヤ人と、その家族(妻の家族含む)は割と設定されていますが、それ以外のメインキャラについては、あまり家族に関する設定がありません。今回は、クリリンら地球人の戦士たちがどのような環境で育ったのか、少し考察してみたいと思います。

 

(1)クリリン

自らは18号と結婚し幸せな家庭を築きましたが、クリリン自身がどのような環境で育ったかは、全く明言されていません。

多林寺で修行していたものの、いじめられ嫌気がさして逃げ出し、亀仙人の弟子に志願したというのが唯一のバックグラウンドです。

その後、クリリンはずっとカメハウスで生活しており、結婚して子供ができてもずっとカメハウスにいることから、帰るべき家はないものと推測されます。

多林寺から逃げる際に、実家に帰るという選択肢がなかったことも含め、クリリンは何らかの理由で天涯孤独であった可能性があります。

クリリンは「結婚したかった」とよくこぼしており、アニメや劇場版ではことさらそれが強調されていましたが、それは単にモテないからという印象でした。実際、格闘技を始めた理由もモテたいからだったため、そういうキャラだったことは確かなのですが、結婚願望に関しては、何らかの理由で幸せな家庭に生まれなかったことからの憧れだった可能性さえあります。18号とも、育った家庭環境としては大差なかった可能性さえあり、唐突にくっついたように見えて、ちゃんと相性が良い組み合わせだったのかもしれません。

つまりクリリンの行動理念は「幸せな家庭じゃなかった」→「自分は幸せな家庭を築きたい」→「そのためには良い伴侶が必要」→「魅力的な男でなければ良い伴侶に振り向いてもらえない」→「格闘家になろう」という思考回路のもとに定まっていたのかもしれません。

クリリンは本質的には優しい性格ですが、当初はややイジワルなキャラでした。おそらくそれは、多林寺での環境が影響しており、先輩からされたことを同じように悟空にしていただけだったのかなと思います。それをものともしない悟空の性格に影響され、本来の優しい部分が戻ったのでしょう。そうでなければ悟空に「あいつはいいヤツだった」なんて言われませんからね。

 

(2)ヤムチャ

ヤムチャに関しては、当初から盗賊をやっていたわけで、ろくでもない環境で育ったことは容易に想像できます。何らかの理由で一人で生きていかなければならない境遇にあり、他人のものを奪いでもしなければ生活できなかったのでしょう。

女性が極端に苦手だったのは、女性と接したことがほとんどなかったからだと推測されます。女兄弟や女性の同僚・友人などは一切いなかったと言えます。

一方で空腹の悟空なら追い詰められるほどの腕を持ち、狼牙風風拳という独自の技まで開発しているあたり、単なる喧嘩殺法ではなく、それなりの武術を学んだ節がみられることから、もしかしたら師匠のような存在はいたのかもしれません。

性格的にも本質は悪人ではなかったことから、生きるために仕方なく盗賊をやっていただけで、それ以上の悪意はなかったと考えられます。当初は普通の家庭に生まれたものの、何らかの理由で孤児になり、師匠のような存在に育てられたものの、それも死別し一人で生きていくことになった(途中でプーアルと出会った)というところでしょうか。

その意味では世界の大金持ちであるブルマとは育った環境が違いすぎ、そのあたりがゴールインできなかった本質的な理由なのかもしれません。ベジータは王子ですしね…。

 

(3)天津飯と餃子

この2人は全くバックグラウンドがないので、クリリンヤムチャよりも遥かに考察が難しいです。天津飯なんて、後付けで宇宙人の末裔ってことになってしまったので、ますますどんな環境で育ったのか分かりません。

ただ、確実に言えることは、鶴仙人の元で修行し、桃白白を尊敬するような状況だったことから、何らかの理由で道を踏み外してしまったことは確かです。また天津飯と餃子の信頼関係が非常に強固であることから、幼い頃より2人だけで生きてきた可能性もあります。

映画「摩訶不思議大冒険」では餃子が王子で天津飯はその付き人でしたが、案外原作でも似たような関係だったものの、何らかの理由で没落したという可能性も考えられます。その没落理由も、鶴仙人のせいだったと考えれば、映画とはIFの関係だったと考えることもできそうです。

天津飯魔人ブウ編まで登場しますが、餃子は人造人間編以降ほとんど登場しておらず、どこかに「置いてきた」とされています。しかし魔人ブウの人類絶滅攻撃を避けた際は一緒にいたので、基本的には常に一緒に行動しているようです。その絆の深さは悟空とクリリンの比ではなく、やはり鶴仙人に弟子入りする前から2人で生きてきたんじゃないかと思います。そんな中で、唯一世話をしてくれたのが鶴仙人だったのでしょう。鶴仙人天津飯が三つ目族で普通の人間じゃないことを評価して弟子にしたと考えられます。餃子は…超能力が生まれつきの能力だったとかですかね?

 

 

以上のように考察してきましたが、基本的にはどのキャラもバックグラウンドがなく、おそらく天涯孤独だったんじゃないかと思います。ヤジロベーも一人で生きてる野生児扱いでしたしね。

そもそも悟空自身が、赤ん坊の頃に孫悟飯に拾われた後、悟飯が死んでしまいあとは一人で生きてきたわけで、みんな同じような環境で育ったとも言えます。それくらいのバイタリティがないと、戦闘力3桁以上の戦士になるのは難しいということなのかもしれません。