どらごんぼーる考察

がんだまぁBlogからドラゴンボール記事を移植しました。以後ドラゴンボール考察はここで展開します。

大猿と超サイヤ人

 今回はとても位置づけが曖昧な大猿と超サイヤ人の関係について考えます。


 まず、大猿は月の光に含まれるブルーツ波を一定量以上目に当てることによって、尻尾がある場合のみ変身できるサイヤ人の形態です。
 大猿になると、戦闘力が10倍になり、一部のエリートを除き理性がなくなりサイヤ人の本能のまま周囲を破壊して回ります。

 ところで、この大猿という形態は一体何のためにあるのでしょうか。変身型宇宙人は、カモフラージュやエネルギー消耗を抑えることが一般的な目的であるとベジータは説明していました。また、フリーザは高すぎる戦闘力を抑制するための変身でした。しかし、大猿はそのどれにも当てはまりません。そもそも理性がなくなってしまうので、合理的な変身ではないように思えます。
 考え方としては、元々大猿こそがサイヤ人の原始の姿であり、そこから進化して知恵のある人型でいられるようになった、ということも思いつきますが、そうであるならば何故満月になると変身するのかという説明になりません。

 生物学的に考えるのであれば、サイヤ人の本能と大猿への変身能力に関連があると見るべきです。そしてサイヤ人の本能と言えば、闘争本能です。
 サイヤ人は、より強い敵と戦うことを望む傾向があり、また瀕死の状態から回復する事により大幅にパワーアップする事ができるという性質を持っています。つまりサイヤ人は本能的に強い敵と戦い、大きなダメージを受けつつも生き残る事で、より強い個体へと進化していく性質があると言えます。
 ここで重要なのは、サイヤ人が強くなるためにはダメージを負わなければならないと言うことです。圧倒的な強さで一方的に勝っても意味がありませんし、策を弄して強敵を身を汚さずに倒しても無意味なのです。正面からぶつかって傷を負い、かつ生き残りさえすれば、仮に相手を倒せなかったとしても強くなれます。
 このことから、サイヤ人が大猿に変身する理由も推測できます。理性が無くなったほうが、よりノーガードの殴り合いをしやすくなるということです。いかに傷つく必要があったとしても、痛みを受けることは本能的に避けたくなるものですが、理性がないバーサーカー状態なら傷を恐れることもないと思われます。
 つまり、サイヤ人が大猿になるのは、理性を消失させてノーガードの殴り合いをするため、だったのではないかと思うのです。ガンダムファイトの如く、戦って戦って戦い抜いた者だけがより強くなれる、ということですね。元々、サイヤ人は満月の夜に殺しあう事でより強い者が生き残っていく、という種族だったのではないでしょうか。
 満月の時しか変身できないのは、しょっちゅう変身してたら身が持たないからでしょう。満月の周期=回復期間ということでしょうかね。

 サイヤ人は元々ツフル人の惑星を乗っ取って惑星ベジータとしただけで、それまでは別の場所に住んでいたということになっています。本来のサイヤ人の母星は、大猿バトルをやるのにちょうど良い満月周期だったのではないでしょうか。その月(もしくは母星そのもの)が何らかの理由により失われ、大猿に変身できなくなったため、闘争本能を満たすために他の星を襲うようになり、惑星プラントへ流れ着いたと考えれば、辻褄は合います。
 しかし、惑星プラント改め惑星ベジータは、満月周期が8年に1度ということがアニメでは語られており、とても大猿バトルにより自己を強化する環境にはありませんでした。そのため、フリーザと手を組んで他の宇宙人と戦うことでより強くなる事を求めたのではないかと思います。

 そのように考えると、超サイヤ人とは、大猿バトルを繰り返すことでサイヤ人が到達できる終着点だったのかもしれません。何度も瀕死になりながらも生き残り、死なずにいられた者だけが到達できる領域だとすれば、通常のサイヤ人とは明らかに変わるのもわからなくはありません。1000年に一度というのも、だいたいそのくらいの確率でそこまで到達できるくらい何度も生き残るサイヤ人が現れるということなのでしょう。
 但し、超サイヤ人はただ何度も死の淵から蘇っただけでは覚醒できません。「純粋な心」と「激しい怒り」が必要です。サイヤ人の壁を超えるためには、精神面も重要な側面を占めています。

 そのことをより強く感じさせるのが、超サイヤ人4の存在です。この形態は、超サイヤ人状態の大猿が理性を取り戻す事によって変身できるようになるもので、いわば大猿と超サイヤ人のハイブリッドです。
 ただ超サイヤ人が大猿になるだけでは、黄金の大猿になるだけですが、そこに理性の維持が合わさる事によって、サイヤ人の潜在能力を全て解放した状態とも言える超サイヤ人4になることができるのです。
 大猿形態での理性の維持と、超サイヤ人への覚醒条件となる純粋な心。この2つが揃ったサイヤ人こそ、最強のサイヤ人である、ということになります。

 さて、大猿状態での理性の維持は、ベジータが当初から実現していました。これは、どのようにして可能になったのでしょうか。
 大猿がノーガードの殴り合いをするために理性を失う形態であったとするならば、その状態で理性を維持するということは、大猿状態でも無為な破壊はしないようにするという自然の進化であるとも考える事が出来ます。
 サイヤ人は大猿への定期的変身ができなくなったことで、文化を手に入れました。その大半はツフル人から奪った文化ではあるものの、それを使いこなす知恵は持っていました。しかし文化が発達しても、大猿に変身すればそれを破壊してしまいます。それではいつまでたっても文明が発展しないので、それを避けるために一定レベルに達したサイヤ人が身につけたのが、大猿状態での理性の維持だったのではないでしょうか。理性のある大猿が、ボス猿のように他の大猿を統制し、無駄な破壊をしないように管理していたのかもしれません。そういう形をとるにつれて、次第に王制が生まれていったとも考えられます。サイヤ人の王子であるベジータが、大猿で理性を維持できたのは当然かもしれません。おそらく父親であるベジータ王も、理性の維持が可能だったのではないでしょうか。

 ところで、超サイヤ人4になるには、超サイヤ人3になることが必須なのでしょうか。個人的には、そうは思いません。なぜならベジータ超サイヤ人3になれていないのに4にはなれたからです。そもそも超サイヤ人になってから大猿になったサイヤ人が誰もいないため、いつから4になれたのかは全くの不明です。
 ただ、超サイヤ人4になるには理性が必要であるということを考えると、なんとなく平時から超サイヤ人でいられる通称超サイヤ人第4段階までの覚醒は必要なのかなぁという気がします。推測ですが。

 もう一つ疑問なのが、悟飯とベジータの尻尾が二度と再生しなかったことです。悟空のように神様から特殊な処置を受けたわけでもないのに、地球での戦いで一度切られてから生えてくることはありませんでした。単に作者が面倒だったからなのでしょうが、これにもヒントはあります。それは、悟天とトランクスは生まれつき尻尾がない分戦闘力が高く、超サイヤ人への覚醒が容易だったというドラゴンボール大全集の記述です。
 尻尾がないと超サイヤ人へ覚醒しやすいということは、尻尾の有無と超サイヤ人への覚醒はトレードオフの関係にあるとも推測できます。つまり、悟飯とベジータに尻尾が生えてこなかったのは、すでに超サイヤ人になれるレベルに達していたからなのではないでしょうか(悟飯は早過ぎるような気もしますが、実際のところフリーザ編終了後から精神と時の部屋に入るまで、悟飯は劇的なパワーアップは遂げておらず、死にかけてもいなければ激怒することもなかったので、すでに覚醒するレベルに達していたが、力が発現する機会がなかっただけとも言えます)。
 超サイヤ人サイヤ人の終着点だとすれば、もう大猿になって戦い合う必要もなくなるため、尻尾も不要になるのかもしれません。

 ただそう考えると、尻尾と超サイヤ人の両方が必要な超サイヤ人4の存在は矛盾する事になります。しかしよくよく考えると、悟空は老界王神の力で無理矢理尻尾を引っ張り出しただけですし、ベジータは必要以上のブルーツ波を浴びる事で人工的に変身しただけです。自然な形で超サイヤ人4になったキャラクターは、存在しません。
 本来超サイヤ人4になれるのは、超サイヤ人になった後、一度も尻尾を切られることなく変身できた存在だけなのかもしれません。切れたら生えなくなるとしても、切られなければなくなることはないでしょうからね。
 つまり超サイヤ人4とは本来、超サイヤ人になれるレベルに達しつつ、尻尾を失うことがなかったサイヤ人だけがなれるスーパーレアケースだったのかもしれません。

 そうであるならば、伝説の超サイヤ人ブロリーはそれに近い存在であると言えます。ブロリーに尻尾があるかどうかは服装的にわからないのですが、バイブロリーは培養中に尻尾が生えていたので、おそらくその元になったブロリーにも尻尾はあったはずです。
 ブロリーは理性がほとんどないため、超サイヤ人4にはなれないでしょうが、尻尾を持っているが故に、擬似的に超サイヤ人4に近い形態になっている、ということなのかもしれません。
 そう考えると、筋肉を肥大化させる変身である超サイヤ人第2形態・第3形態(セル戦でのベジータとトランクスの形態)は、尻尾なしで自力で伝説の超サイヤ人の力を(部分的に)引き出した姿であるとも考えられます。尻尾さえあれば、ベジータもトランクスも伝説の超サイヤ人になれていた…のかもしれません。

 超サイヤ人になるレベルに達すると尻尾が退化が、その尻尾を維持していればさらに上の形態になれる、というのはちょっと矛盾しているかも知れませんが、とりあえず色々な疑問点を一気に片付けるとそういう解釈になりました。

 ちなみに超サイヤ人2と3は、大猿の力に頼らない別の変身だと思います。2は、超サイヤ人1の状態で平常心を保てるようになった上で、もう一度超サイヤ人への覚醒を果たすことでなる形態なんじゃないかと思います。また3は、本来時間の概念がないあの世でしかなれないということ、エネルギー消費が激しすぎるということから、継続的に気を放出し続ける事でなれる形態なのではないかと思います。あの世なら気の残量が無限なので、際限なく出してみたらなれた、みたいな感じで。
 そういう意味では、ブロリー超サイヤ人3になれるのはある意味必然かもしれません。気が継続的に溢れてくる存在のようなので。

 しかし、超サイヤ人の気の源泉はどこから来るんでしょうねぇ。界王拳50倍に相当するということですが、その辺のメカニズムもいつか考察してみたいと思います。

レッドリボン軍はフリーザ軍に勝てるか?

 地球人の科学者が作った人造人間が、フリーザ超サイヤ人よりも強いというのはどうにも当時から納得できないことの一つでした。
 しかし裏を返せば人造人間がいればフリーザが攻めてきても勝てるということ。つまりレッドリボン軍が世界征服に成功すれば、仮にサイヤ人が攻めてきたとしても迎撃できたのではないか?というお話です。

 レッドリボン軍が世界征服に成功していれば、おそらくピッコロ大魔王は復活しないのでそのまま時が過ぎるはずです。そしてやがてカカロットを探しに来たラディッツがやってきます。
 まず、この時点でドクター・ゲロラディッツ程度になら勝てる人造人間を作れているか、が焦点になります。

 ゲロが人造人間を開発し続けたのは、悟空への復讐心があってこそです。その悟空への恨みがないとなると開発が滞っている可能性がありますが、そもそもレッドリボン軍から研究する環境と十分な資金が与えられているはずですから、開発はある程度進んでいるでしょう。
 人造人間は悟空がレッドリボン軍に遭遇した時点で8号が存在しており、その後13号以降18号までは全て超サイヤ人と同等以上の性能を持っていました。戦闘力に換算すると150前後から1億くらいまで飛躍しているわけですから、その間の9~12号の過程で相当な強化が行なわれているはずです。
 そう考えると、ラディッツが来襲した時点でそれを上回る戦闘力の人造人間を開発していることは可能…なのではないかと思います。

 ただ、ゲロが想定した性能はベジータ戦までの悟空を観察した上での、その時点での悟空に勝てる程度です。それ以上に強くなってしまったのは、ゲロ自身にとっても想定外であったようにも思えます。何故そんなものが作れちゃったのかは謎ですが。
 また人造人間の本格的な強化がベジータ戦後に行なわれたとすると、それまでの人造人間の性能はさほどではなかった可能性もあります(メカ桃白白って改造したのゲロっぽいですよね)。まずレッドリボン軍が世界征服を行った状況下で、求められる人造人間の性能について考えてみます。

 そもそもレッドリボン軍が世界征服に成功するということは、悟空はどうなっているのでしょうか。基本的に悟空を軍用兵器で倒す事はほぼ不可能ですから、直接戦うことがなかった、と考えるしかありません。悟空とレッドリボン軍が敵対したのは、ドラゴンボールを集めていたからです。そして悟空が探していた理由は単純に四星球を見つけたかったからというだけで、レッドリボン軍が探していた理由はレッド総帥の身長を伸ばすためでした。
 レッド総帥がドラゴンボールで身長を伸ばす事をあきらめているか、ブラック参謀がその真意にいち早く気づき早期にレッドリボン軍を乗っ取っていれば、悟空との衝突は回避可能です。
 しかしレッドリボン軍が世界征服を目標とする以上、悟空と衝突する可能性は常にあります。例えば、西の都を制圧するために戦力を投入してカプセルコーポレーションが危機に瀕したら、悟空はブルマを助けにいくかもしれません。

 ただ普通に考えればレッドリボン軍の目標は中央政府の制圧、つまりキングキャッスルへ侵攻し国王から権力を奪う事で軍事政権を樹立して新しい秩序を作ることでしょうから、それだけであれば悟空とは敵対しないかもしれません。
 そもそもレッドリボン軍が何のために世界征服をしたいのかもいまいちわからないのでその後どうなるかはなんとも言えないのですが、まぁマフィアのもっとたちの悪い物であるとするのであれば、悪人が生きやすい世界を作ろうとするのかなと思います。

 悟空は世界情勢に関わらず修行しており、強い奴と戦おうとするでしょうから、いずれレッドリボン軍とも衝突するかもしれません。ただ、カリン塔に登っていなければ悟空は桃白白には勝てませんので、その時点で倒されてしまう可能性があります。
 そうなると世界最強は桃白白、次いでそれに憧れる天津飯という図式ができあがります。レッドリボン軍の世の中では天下一武道会は武器も殺人もありのルールになりそうですから、天津飯は出場しないかもしれません。そうなると仮に悟空が生きていても戦うことはなく、桃白白の後継者として殺し屋の道を歩くことになりそうです。

 となると人造人間の性能目標は、桃白白を越えることということになります。これはおそらく可能でしょう。ゲロのことだからちょっとそれを上回るくらいのつもりがはるかに強い人造人間を作り出してしまうかもしれません。
 あとは、ラディッツの来襲に対抗できるかどうか、です。まぁ対抗できないとそこで地球は滅ぼされておしまいなんですが、ドラゴンボールを知っている誰かが生き残っていれば、ドラゴンボールを使って復活できるでしょう。まぁ全滅しても神様がドラゴンボールを使うかもしれません。
 とにかくラディッツの攻撃を凌げば、レッドリボン軍ラディッツの強さを目標に人造人間を作るでしょう。そして宇宙人がいるということを知れば、宇宙へ出て更に領地を広げようとするはずです。そしてフリーザ軍とも衝突することになるでしょう。
 しかし人造人間の開発さえ追いついていれば、フリーザさえ倒す事は可能なはずです。ドクター・ゲロの技術力はフリーザを機械化した技術よりも上なわけですからね(笑)

 んー、なんかレッドリボン軍を操作してフリーザを倒すまでが目標のギレンの野望的ゲームが作れそうな気がしました(笑)
 きっと問題は人造人間を意のままに操る技術でしょうね。16~18号は明らかにフリーザより強いですが、制御できませんし。19号はフリーザより強いかというと微妙です。同等の性能のはずの20号が神様と同化する前のピッコロにも負けてたので。
 意のままに操る技術といえば劇場版のドクター・ウィローがピッコロを操ったりしていましたから、そっちの技術を吸収すればどうにかなるかもしれません。
 ポケモン信長の野望とコラボする時代ですから、ドラゴンボールでも是非やってみませんかねこれ…(笑)

戦闘力のコントロールとはどういうことか

 スカウターで戦闘力を測っていた頃のドラゴンボールでは、「戦闘力=気のコントロールができる」ということが主人公側の一つのメリットとなっていました。
 しかし、コントロールができない敵側でも、本気で戦う時に力を込めたりしているなど、必ずしもコントロールしていないようには見えないように描写されていたように思います(初戦闘時のナッパやベジータなど)。
 そもそも漫画なんだから、という問題であるような気もしますが、敵側と味方側で戦闘力のコントロールについてどう違うのか、少し考察してみたいと思います。

 まず、戦闘力をコントロールする、ということがどういうことかを考えてみます。イメージとしては界王拳などを使用したときのように、一時的に気を高めて攻撃力などを強化するようなことだと思えますが、原作の中で初めて描写された「戦闘力のコントロール」とは、悟空がかめはめ波ラディッツに使用したときでした。その後ピッコロが魔貫光殺砲を使用するときも、戦闘力が格段に上昇していました。
 このことから察するに、戦闘力とは「気」の密度・量と同義であるように思えます。かめはめ波は全身の気を集中させて一気に解放する技ですし、魔貫光殺砲は全てのエネルギーを指先に集中して貫通力の高いエネルギー波を撃ち出す技です。
 つまり、戦闘力をコントロールするということは、自らの発する気の量を調節することであると考える事が出来ます。だからこそ、スカウターに察知されないほど気を消す事もできるのでしょう。

 逆に言えば、戦闘力をコントロールできない種族というのは、常時同じ量の気を発し続けているということになります。しかし、先に述べたように一部のキャラクターは、本気の状態とそうでない状態が区別されているなど、コントロールが行われているように見えます。
 ただ、気を発するにしても勢いというものがあるのかなと思います。電気にも電力と電圧があるように、気にも発する勢いによってエネルギーの放出量が変化するのではないかということです。戦闘力のコントロールをせずに本気を出すということは、すなわち体発しているエネルギーをより瞬間的に外に放出するということなのではないでしょうか。

 作中では、大技を使った後は戦闘力が低下するという描写があります。これも戦闘力=気の量であることによって起きるもので、つまり自分の持っているエネルギーを多量に放出した分、自分に残る気の量は減少するということになるのだと思います。
 そう考えると、常時気を発していることになるコントロールできない種族はどんどんエネルギーが減っていってしまうことになりますが、気は生体エネルギーですから常時体内で生産されているのだと思われます。つまりちょっとの気の放出くらいであれば、すぐチャージされるということです。太陽炉みたいなものですね(笑)
 逆にチャージが追いつかないくらいエネルギーを放出したり、ダメージを受けてチャージするだけの身体機能がなくなってしまった場合は、どんどん戦闘力が低下していってしまうのでしょう。

 戦闘力の高い低いという話が議論されることがありますが、これはそのキャラクターが持っている気の総量を比較しているだけなので、MSで言えばジェネレーター出力を比較しているだけのようなものになってしまいます。
 もちろん気と気をぶつけ合うならそれは総量の勝負になるので、純粋に戦闘力の差になりますが、実際にはスピードや防御力といった要素も加味されるわけで、いわば持っている気の量を自分のどのパラメータに振り分けるか、というようなことを戦闘中に行っていることになるのかなと思います。
 超サイヤ人が出たあたりからは、戦っているキャラはほとんど皆地球を一撃で破壊するほどのエネルギーを持っていることになるのですが、その割に地球は全く壊れていません。これは、エネルギー=戦闘力の総量で勝負しているのではなく、瞬間的なスピードや攻撃力で勝負しているからなのではないかと思います。自分の持っている気をどれだけ相手より瞬間的に多く使うかで争っているから、戦闘力の数値計測をする意味がなくなってしまったのでしょう。

 しかし地球を壊すほどのエネルギーを内包して普通に地球で生活している生物というのは冷静に考えると恐ろしいですね。それでいて宇宙空間では活動できないというのもなんだか不思議です。どういうエネルギー代謝になっているんでしょうね…。

ドラゴンボールの複数の時空について

 ドラゴンボールの物語中では、タイムマシンが運用されたことにより複数の時空世界が存在します。
 1つ目は、原作の世界。
 2つ目は、悟空が心臓病で死亡した未来から、原作世界に干渉したトランクスの世界。
 3つ目は、別のトランクスの世界から原作世界に干渉したセルのやってきた世界。
 4つ目は、3つ目の世界のトランクスが干渉した別の原作世界(悟空が心臓病を克服した別の未来)。

 このうち、詳細に語られたのは1つ目と2つ目の世界のみです。
 今回は、3つ目と4つ目の世界がどのような世界だったかを中心に、考察してみたいと思います。
まず3つ目の世界について、これを便宜上セルの未来と呼びます。
この世界は、「何らかの方法で人造人間17号と18号が倒された」世界です。
しかし、初期形態のセルにトランクスが殺されている事から、トランクスは精神と時の部屋で修行しておらず、
おそらく緊急停止コントローラーによって17号と18号を停止させる事で倒す事ができた世界であると考えられます。

つまり、この世界は2つ目の世界(トランクスの未来と呼びます)とほぼ同様の経過を辿りながら、
トランクスは緊急停止コントローラーを持って帰還し、それ故に実力的には特に変化無かったためにセルに敗れたということになります。

そしてそのトランクスが干渉した過去の世界、緊急停止コントローラーによって人造人間を倒したのであろう世界こそが、4つ目の世界であるということになります。
ではこの4つ目の世界は、何故緊急停止コントローラーによって人造人間を倒すことができたのでしょうか。

その答えは簡単です。
原作世界では、緊急停止コントローラーが完成した時点ではすでに17号はセルに吸収されていました。
そして18号を停止して倒す事は可能でしたが、クリリンが18号に情をかけたために使用されなかった経緯があります。
この時点でベジータとトランクスは精神と時の部屋で修行して大幅にパワーアップしていましたので、
3つ目の世界のトランクスの実力を考えると、このタイミングで18号を倒した結果の世界とは考えられません。

だとすれば、単純に4つ目の世界とは、「セルが来なかった世界」であると考えるのが妥当でしょう。
ドラゴンボール大全集では4つ目の世界では「トランクスがいない状態でセルゲームが開幕」と書かれていましたが、それはないかと思います。

そもそも、原作世界はトランクス世界の過去とはいくつか異なる事象が確認されていました。
悟空が心臓病を発症するタイミング、19号と20号の存在、17号と18号の性格、16号の存在などがそうです。
これらの変化はトランクスがタイムスリップしてきた影響であると思われていましたが、
実際にはそれ以前にセルがタイムスリップしてきていた影響が多かったと考えられます。

トランクスが過去にタイムスリップしたことで分岐した並行世界が原作世界ですが、
実はそれ以前にセルがタイムスリップをしたことで、さらに分岐していたわけです。
つまりドラゴンボール世界の4つの時空は、次のように分類する事が出来ます。

原作世界:未来からトランクスとセルがやってきた世界
トランクスの未来:トランクスが原作世界にタイムスリップした世界
セルの未来:トランクスが4つ目の世界にタイムスリップした世界
4つ目の世界:未来からトランクスのみがやってきた世界

4つ目の世界は、セルが来ていないのです。そのため単純に緊急停止コントローラーによって人造人間を倒すだけで問題が解決したのでしょう。
セルが来ていないということは、歴史の変化もあまりないと考えられるため、悟空が心臓病になるタイミングもずれることなく、人造人間とは正面から対決できたと考えられます。
19号と20号がいるかいないかはわかりませんが、いたとしても19号は心臓病になっていない悟空になら倒されていたのかも知れません。
16号がいなかったのは、単純に17号と18号がその存在に気づかなかったからだと思われます。
神様がピッコロとの同化を決意したのはセルを発見したからでしたが、セルがいない世界なので同化していない可能性があります。
ただ、ゲロの研究所で人造人間の設計図を発見し、緊急停止コントローラーの開発に成功するまでの時間稼ぎが必要だったでしょうから、
結局同化はしていたのかもしれません。いずれにせよ想像に頼るしかありませんが。

それよりもこの4つ目の世界は、実は「劇場版の世界」だったと考えるとちょっと都合がよかったりします。
メタルクウラの話(激突!100億パワーの戦士たち)からブロリーの話(燃え尽きろ!熱戦烈戦超激戦)までの3つの劇場版は、
どう解釈しても原作に組み込むのは不可能な話です。それは他の劇場版のほとんどについても言えることではあるのですが、
人造人間を早期に倒し、セルが来なかった世界であれば、上述の3つの劇場版は矛盾無く組み込めることになります。
まぁ、トランクスの存在を考えると本当に矛盾がないのはメタルクウラの話だけですが。


それよりもこの考察の中で生じた疑問があります。
原作世界はセルが来て、かつトランクスが来たことで生じた分岐世界です。
4つ目の世界は、セルが来ず、トランクスだけが来たことで生じた分岐世界です。
トランクスの未来とセルの未来は、どちらも未来から何も来なかった結果の世界です。
両者の違いは、トランクスが原作世界と4つ目の世界のどちらに行ったかの違いでしかありません。
ではこの2つの世界は、何故分岐したのでしょうか。

時間軸の分岐が「タイムマシンを使用する」ことで起きるのであれば、
可能性は2つあります。
1つは、トランクスとセル以外にもタイムマシンを使用した人間がいたこと。
もう1つは、実は原作に描写されていないタイムスリップが1度行われていた、ということです。

トランクスとセル以外にタイムマシンを使用した人物は、作品中1人だけいます。
劇場版(龍拳爆発~)に登場した勇者タピオンです。
この作品はあくまで原作世界の延長であるためこのタピオンの歴史改変がセルの未来を作ったことはあり得ないのですが、
この作品の設定で、タピオンが持っていた剣はトランクスが持っていた剣と同じ、ということになっているのです。
トランクスの未来ではこの劇場版の時代はすでに悟空達が死んでいるため、全く同じ物語にはなりません。
というかそもそもトランクスの未来でタピオンが現れる可能性はあり得ない、矛盾した設定なのですが、
(元々ドラゴンボールでタピオンが封印されていたオルゴールが解放されるという物語なので、ドラゴンボールがないトランクスの未来では復活できるはずがない)
とにかく何らかの形でタピオンがトランクスの未来でも現れ、剣をトランクスに託した後タイムスリップをしていれば、
かなりの過去にタイムスリップしていますので、その歴史改変が巡り巡ってセルの未来を生んだと考える事はできます。

もう1つの可能性についてですが、ドラゴンボール世界のタイムスリップはあくまでも1つの次元からもう1つの次元に移動することであり、
1つの次元に行った人間はまた同じ次元に戻る事ができるということになっています。
最初に原作世界に行ったトランクスは、その後全く同じ次元の延長線上の時間に再度タイムスリップしています。

そう考えると、トランクスの未来のトランクスは、初めから「すでにセルがいる」過去にタイムスリップしているし、
セルの未来のトランクスは、「セルがいない」過去にタイムスリップしていることになります。
これはどういうことかというと、すでにトランクスが過去にタイムスリップした、という事象は2つの次元で起きており、
それぞれの次元のトランクスは別々の次元の過去へ行ったことになるということです。
ということは、トランクスが過去に向かおうとしたその時点で、すでに並行する2つの世界があったことになります。

つまり、トランクスが最初に過去に戻る前に、すでに時間軸の分岐=タイムスリップが行われていたことは間違いないのです。
それが勇者タピオンによるタイムスリップなのではないかと上で述べましたが、そう考えるとトランクスがタイムマシンを使用する前に、タイムマシンは完成し実用化されていたことになってしまいます。
しかし原作のサイドストーリーでタイムマシンが完成したとき、ブルマはテストする時間もないということを言っています。この時点でトランクスは剣を持っていましたから、それ以前タピオンがタイムスリップをしている可能性は限りなく低くなります(そのため、トランクスの剣=タピオンの剣という劇場版の設定はそもそもおかしいということになります)。

ただ、タイムマシンが完成した際、トランクスはすぐそれに乗らず、一度人造人間と戦い敗れています。この際かなり重傷を負っていたようなので、その傷が完治するまでの間にブルマが自分でテストしていた可能性は考えられます。その小さなタイムスリップにより、時間軸が分岐した、という考え方ができるのです。
往復分のエネルギーは8ヶ月かかると原作で語られていますが、過去に戻ってエネルギー満タンのタイムマシンに乗って帰ってくれば消費は片道分で済みます。

原作でそう読み取れる描写など全くありませんが、状況からタイムスリップを行えたタイミングは「成長したトランクスが一度人造人間に敗れてから、その傷が完治するまでの間」しかなかったと考えられます。
そうだとすれば、この1度のタイムスリップのテストが、セルに殺されるはずだったトランクスの未来を変えたことになります。

そこまで考えて一つ思いました。
むしろトランクスがセルに殺された後の未来で、ブルマがセルに殺される前の時間にタイムスリップし、歴史を変えたという可能性もあるのかな、と。
そして歴史が変わったトランクスは「セルが跳躍した過去」にタイムスリップする事で、死を回避することになる、ということも考えられます(まぁ、結局一度はセルに殺されちゃうんですけどね)。
そっちの方が物語としては面白いかもしれません。

ドラゴンボールの物語は、実は3回の歴史改変により奇想天外な物語として完結したのかもしれない、というお話でした。

悟空が敵を殺さない理由

 主人公である孫悟空は、敵キャラを殺そうとしない傾向にあるのですが、それがいわゆる「ガンダムSEED」のキラ・ヤマトや「るろうに剣心」の剣心的な不殺とは違うのではないかと思い、考えてみました。

 いわゆる「不殺」というのは、いわば「人間を殺してはいけない」という道徳観念を貫いたものであり、また自分はもう人殺しにはなりたくない、という殺人体験を経た後の生理的嫌悪感から来ているものでもある、と思います。
 それに対し、孫悟空のそれは、「勝利した後に止めを刺さない」というものであり、ほぼ例外なく対峙し勝利した敵を殺さなければ後々まずいという状況でのみ現れています。

 例えば、ギニュー特戦隊に勝利した時、止めを刺したベジータに対して「何もそこまでしなくても」と何度も言っています。地球でナッパを倒した時も、殺しはしませんでした(ベジータが殺しちゃったけど)。
 悟空がそのようなことを言うのは、「もう勝負はついたから」ということに他なりません。ベジータらにとっては生きるか死ぬかの殺し合いであっても、悟空にとっては天下一武道会の試合の延長くらいにしか捉えていない、ということです。
 これは、育ての親である孫悟飯や師匠である亀仙人の教育の影響によるのではないかと思います。武道家は殺し屋ではない、という鶴仙人とは対極にある考え方を身につけているがために、そのような考え方を持つようになったのでしょう。
 しかし、それにしてはフリーザさえ見逃そうとしたり、やや融通が利かない部分があります。これは、サイヤ人の本能である「より強い敵と戦いたい」という感情が、悟空の持つ「戦い=試合」という観念と合わさっているからなのではないでしょうか。

 例えば、天下一武道会でピッコロに勝利した時。この時はピッコロを殺すと神様も死んでしまうという現実があったものの、ライバルがいなくなるのは寂しいから、という理由も語っています。
 同様に地球にやってきたベジータも見逃していますが、これはもう一度戦って勝ちたいから、という理由でした。
 更に、クリリンを殺したフリーザでさえ、一度は見逃そうとしていました。この時も「更に腕を磨くんだな」と、再戦を考慮に入れていることが分かります。
 魔人ブウについてはさすがに見逃しはしませんでしたが、生まれ変わったら一対一で戦いたいと望み、実際に生まれ変わったウーブと戦うことができました。

 このように、悟空が敵を殺さない理由には、自分に匹敵する実力を持ち、今後も対等に近い勝負ができそうだから、という側面もある事が分かります。サイヤ人の闘争本能を満たす相手がいなくなってしまうというのは惜しい、という考え方があるからなのですが、そこに戦い=試合であるという概念があるからこその考え方であるとも言えます。ベジータもセルをわざと完全体にするなど、より強い敵と戦う事を望む傾向がありますが、とどめはしっかり刺しますからね。

 悟空がそのような思考回路で行動していることがわかると、セルゲームの際に悟空が悟飯に戦わせた理由も見えてきます。
 悟空は、精神と時の部屋での修行で、悟飯の真の力を知りました。それがあればセルに勝てる、というのが作中での言動でしたが、真の目的は「悟飯にセルを倒してもらう」ことではなく「セルに悟飯の真の力を引き出してもらう」ことだったように思います。
 悟空は、セルより悟飯の方が強いと知ってしまったわけです。その時点で、サイヤ人の本能である「より強い敵と戦いたい」という興味の矛先は、セルではなく悟飯に向く事になります。つまり、この時点で悟空の興味はセルと戦う事ではなく、真の力に目覚めた悟飯と戦う事になってしまったのです。
 そのようにして見ると、悟空がやったことも少しは理解できます。悟飯の真の力は怒りの感情がトリガーにならないと発動しません。しかし、実の父親である悟空が息子の悟飯を心から怒らせることはまず不可能です。やはり、フリーザのような極悪な敵の非道な行為に対してでないと…と考えれば、まず悟飯をセルと戦わせて怒らせるように仕向ければいい、という結論になっても不思議ではありません。
 結果的に、悟空の個人的な興味による行為は悟飯を苦しめているだけだとピッコロに諭され、考えを改めるわけですが、とにかく悟空にとってはセルより悟飯の方が強いことを知ってしまった時点で、目標がセルではなく悟飯になってしまったということです。これは、当初ベジータが目標だった悟空が、フリーザの存在を知りフリーザを倒すことが目標になったのと同じ、ということですね。
 悟空は一見不殺を貫く心優しい主人公に見えますが、実際は戦いを全て試合と解釈し、敵味方の関係はリングの上でしか成立しないという概念に基づいて行動しているだけ、という話でした。

 ちなみに悟空が「再戦を望まずに」相手を直接殺したのは、おそらくピッコロ大魔王だけだったのではないかと思います。しかしアニメの劇場版では、悟空が主人公の話ではほとんど悟空が直接敵を殺してしまっています。エンタメ的には当然なのですが、もうちょっと悟空というキャラクターを理解して話を作って欲しかったかな、と思いますね。今思うと。

フリーザ兄弟についての考察

 ドラゴンボールの劇場版オリジナルキャラに、フリーザの兄クウラがいます。このクウラは、初期状態がすでにフリーザの最終形態に相当する姿となっているのですが、これが「変身した姿」なのか、「一度も変身していない状態」なのかという点について、上映当時から情報が錯綜していたように記憶しています。

 クウラは劇中、「弟よりあと1回多く変身できる」といって変身しています。そう考えると、すでに初期形態のクウラは、すでに3回目の変身を遂げている状態であると解釈できます。
 しかし、同じ劇中で、クウラは惑星ベジータが破壊された時からその状態でいます。つまり、それから30年近く、変身しっぱなしだったことになります。一体、何故でしょうか。


 ここで、フリーザの最終形態について考えます。フリーザは、最後の変身を行う際、「真の姿」を見せると言っています。また、その後アニメや劇場版において地獄で登場した際、フリーザは最終形態のままでした。普通、変身するタイプのキャラは、死ぬと変身前の状態に戻ります。ザーボンもそうですし、超サイヤ人のまま死んだ悟空も死後は普通の状態に戻っています。しかし、フリーザだけは変身前の状態には戻りませんでした。
 このことから考えるに、フリーザは最終形態こそが基本形態なのだと思います。最初の変身をする際、フリーザが変身する理由を、パワーがありすぎて自分でも上手くコントロールできないから、と言っています。逆に言えば、パワーを抑えるためにわざと「退化」していると言えるのです。そう考えれば、フリーザが死んでも最終形態のままなのもわかります。
 となると、クウラもまた、フリーザと同じ状態こそが通常形態であると言うことができ、そしてフリーザと違いそれ以前の形態になっていない理由も説明できます。クウラは、気のコントロールができるのです。

 フリーザは、気のコントロールが出来ません。だからスカウターを使わないと相手の位置がわからないし、また常に莫大な気を放っているために、地球にやってきた際はまだ宇宙を飛んでいるにも関わらず、地球にいる悟飯たちに接近を感知されていました。
 一方のクウラは、悟空の目の前に現れるまで、だれもその接近に気づきませんでした。これは、明らかに気を消す事が出来ていたと言うことができます。だから、フリーザのように「退化」する必要がなかったのです。

 こう考えれば、原作で誰もがフリーザが宇宙最強であると思っていた理由もわかります。クウラは戦闘力をコントロールできるから、その存在はほとんど知られていなかったのです。また、知られていたとしても、普段戦闘力を抑えているので、フリーザよりも弱いと思われていたのかもしれません。もしかしたら、フリーザさえもそう思っていた可能性もあります。超サイヤ人さえいなくなれば自分が宇宙最強だと思っていたようですからね。

 しかし、クウラは宇宙最強は自分であると自覚していました。フリーザを超える力を身につけていたにもかかわらず、それを隠していたのでしょうね。「能ある鷹は爪を隠す」ってやつでしょうか。
 フリーザは自分の力を誇示するタイプです。わざわざ相手に戦闘力を伝えたり、そのままでも勝てるのにあえて変身したりします。しかし、クウラはそうではなかったのでしょう。そもそも、フリーザの次に強いのはギニューだったわけで、フリーザは変身せずとも戦闘力が53万あるのに対し、ギニューは12万しかありません。ナンバー2でもこれだけの差があるわけですから、クウラもわざわざ莫大な戦闘力を常に発しているのは無駄だと思っていたのかなと思います。

 ところで、クウラはその基本形態からさらに変身します。しかし、死ぬ直前に元の形態に戻っているなど、これは真の姿ではなく、あくまでザーボン同様のパワーアップ形態であると言うことができます。
 おそらく、このクウラの最終形態は、フリーザにおける100%状態に相当するのではないかと思います。フリーザは、100%の力を発揮すると、身体に大きな負担を強いる事になり、長時間この状態でいるとむしろどんどん戦闘力が下がってしまうというデメリットを抱えていました。これに対し、クウラは自分の身体を変身させる事で、100%の力を負担無く長時間維持できるようになっているのではないかと。変身する際はフリーザ100%同様全身の筋肉が膨張していることからも、それが伺えます。
 だとすると、フリーザとクウラの実力差も、実はそんなに大きくないのかもしれません。クウラの方が気をコントロールでき、100%の力もデメリットなく使用できるという意味では明らかにフリーザより優れていますが、最大戦闘力という点では大きく離れていないような気がします。どっちも、結局超サイヤ人の悟空に対しほとんど見せ場を作れず敗れていますし。


 ところで、では父親のコルド大王はどうなのか、という話なのですが、劇中で変身していないので、多分変身できないのだと思います。実力は最終形態のフリーザに比するものがあるようですが、レベルとしてはフリーザの1回目の変身で止まっている、ということになります。
 そう考えると、フリーザも昔は最初の形態で生まれてきたのかも知れません。そして成長していくうちに変身を遂げていき、普段は力を抑えるために昔の形態に戻っていたと。成長のたびに進化するポケモンみたいな種族なのかもしれませんね、フリーザ一家は。

ドラゴンボール改主題歌から考える孫悟空というキャラクター

 ドラゴンボールZのアニメから原作エピソード部分のみを抽出して再編集した作品が、日曜の朝に放映されています。いわば「新訳ドラゴンボール」…ではなく、むしろより原作に近い内容になっています。というか、いかに当初のアニメに無駄なエピソードが多かったかという話でもありますが(笑)

 ジャンプアニメの宿命として、普通にアニメ化すると本誌に追いついてしまうので、必要以上に話が引き伸ばされてしまうという現実があります。人気がある作品ほどそれが酷かったのですが、原作が終わっても更に続編が作られたと言う意味では、ドラゴンボールがその最たるものだったと言えるでしょう。
 そんな欠点を解消した形での再放送と言うべきアニメが、このドラゴンボール改なのです。BGMと声は完全に新録なのですが、あまり違和感は今のところないですね。むしろゲームでの台詞の方が違和感が強い印象です。やはり、ゲーム用の録音とアニメ用の録音では声優のテンションも違うのかなと思います。

 OP、EDも映像含めて完全に新作で、特に顔でもあった影山ヒロノブ氏をあえて起用しないという決断はなかなかの英断だったのかなという気もしますね。イメージとしては、鋼の錬金術師のアニメ版2作品のように、「改めて原作をアニメ化した」という側面の方が強いのかも知れません。メインターゲットは当時見ていた世代ではなく今の小学生でしょうし。

 ガンダム以上にドラゴンボールのオタクであると思っている自分としても、このように今回のドラゴンボール改は概ね肯定的に受け止めているのですが、一つだけ気になる点がありました。それは、EDテーマの歌詞にある「世界を守るため生まれたから」という言葉です。

 この歌詞に強烈な違和感を覚えました。というのも、主人公たる孫悟空というキャラクターは、本当の意味で「世界のため」に戦ったことはないはずなんですよ。劇場版を含めると微妙なところなのですが、原作だけでいえば、悟空は決して何かを守るために戦っていたキャラクターではありません。それは原作終盤にベジータが言っています。「負けないために戦っている」のだと。

 そもそも原作を振り返ってみれば、当初の悟空はドラゴンボールを探す過程で障害になった相手と戦っていただけでしたし、天下一武道会では純粋に優勝するためだけに戦っています。ピッコロ大魔王と戦ったのも、クリリン亀仙人といった仲間が殺された怒りからです。基本的に悟空は、自分の個人的な理由のためでしか戦っていません。
 サイヤ人が来た頃からは多少戦う目的が変化していますが、当初は自分の息子を救うためでしたし、ベジータやナッパと戦った際も、仲間が殺されたことを最大のモチベーションにしています。超サイヤ人になったのもクリリンが殺された怒りからでした。そもそもフリーザと戦うことになったのも、ドラゴンボールでピッコロたちを生き返らせる過程で競合したからです。
 もちろん、そこには「より強い奴と戦える」ということを喜びにしていた側面もあります。理由は無くても相手が強いと言うだけで戦う意味になっていたというか。それが、結果的に世界を守ることになっていただけなのです。

 ところが、悟空はいつしか自分が前面にでて戦うことを避けるようになっていきます。セルの相手は完全に悟飯にさせることしか考えていませんでしたし、魔人ブウが出てきた時も、自分以外の戦士が全員戦えなくなるまで自ら戦おうとはしませんでした。

 それは、悟空にとって世界を守るための戦いは自分の望む戦いではなかったから、なのではないでしょうか。
 セルは悟空を倒すために作られた存在ではありますが、そのために戦おうとはせず、純粋に自らの強さを誇示するために戦おうとしていました。悟空からしてみれば、別に目的が競合しているわけでもなければ、誰か仲間が殺されたわけでもない(結局セルが殺したのは16号とトランクスだけだった)。かといって、ピッコロやベジータのように純粋に強さのみを競う好敵手という感じでもなかったために、モチベーションが上がらなかったのではないかと思います。
 また、悟空は死んだ後に生き返るのを拒否しています。自分がいない方が世界は平和なのではないかということで。これは、人造人間が悟空を殺すために作られたものであった、という事実をかなり重大なことと受け止めていたからなのではないかと思います。自分だけを殺すために作られたものが、苦労してやっとこさ倒したフリーザを上回る戦闘力をもっていて、別の未来では世界を滅ぼしてさえいるという事実は、かなり重いです。
 責任感が強い人間であれば、自分のせいで生み出された存在は自分で倒す、と言うところなんですが、そこで自らの死を選んだのが悟空でした。そもそも悟空に責任感なんてものはあまりないですからね。あったら働いているでしょうし。

 そんな死に方をした悟空ですから、魔人ブウが出てきても戦う気はあまり起きなかったんだと思います。こっちは完全に悟空とは無関係の敵ですし。すでに死人だからという理由もありましたし、生き返っても、最初から合体して戦う気満々でした。自分とベジータ以外が誰もいなくなってしまって初めて、開き直って正面から戦う覚悟ができたようにも見えます。(そして劇場版の「俺がやらねば誰がやる」に繋がるんですが)

 要するに、悟空は世界を守るヒーローとかそういう柄じゃないんですね。そもそも鳥山明という漫画家自身がそういう考え方を好まないようにも思えます(だからどちらかというとヒーロー的であった悟飯を主人公に据えることができなかったのでしょう)。悟空って実は自分のやりたいことだけをやってたいという子供っぽいキャラクターであって、公のために戦う器ではないんです。
 原作を映像化しているだけに過ぎないアニメではなかなか作り手の意識というのは見えてきませんが、歌の歌詞というところで見えてきた部分を見ると、あまり原作をわかってないのかなぁ、なんて思ってしまったりもするのでした。ドラゴンボールのキャラクター心理って結構深いんですよ?