どらごんぼーる考察

がんだまぁBlogからドラゴンボール記事を移植しました。以後ドラゴンボール考察はここで展開します。

人造人間19号と20号の目的は何だったか

以前考察の中で、セル編の登場人物の中で一番目的が不明なのが、実は人造人間19号・20号だったという話をしたことがあります。

17号と18号はそもそも目的がなかったことから、とりあえず造られた目的である悟空の殺害を目指すことにしました。16号もその目的は自覚していました。セルは究極の生物である完全体になるのが目的でした。

 

19号と20号も、本来の目的は悟空の抹殺のはずなのですが、何故か悟空と全く無関係の場所で破壊活動を開始しています。

これは、未来のトランクスの予言がそうであったからであり、この時点では人造人間は19号・20号しか存在せず、「悟空のいない世界で破壊の限りを尽くし世界を破滅に追い込む存在」であったためなのですが、その後設定が変更されて未来の人造人間が17号・18号になってしまったために起きてしまった矛盾なのです。

 

つまり本来19号・20号は未来の17号・18号のような「無秩序に人殺しをする凶悪な存在」だったはずなのです。その設定が変わってしまったため、もし悟空が心臓病で死んでいたら、19号と20号は何をするつもりだったのか、分からなくなってしまいました。今回はその理由を考えてみたいと思います。

 

まず、悟空を殺す目的があったのは明らかです。しかし、悟空についてのデータは集めてあったにも関わらず、悟空本人やその関わりがありそうな場所ではなく、全く無関係の都市を攻撃しはじめました。その理由はなんだったのでしょうか。

セルのように、一般人からエネルギーを吸収してより戦闘力を上げようとしていた可能性はあります。ただ、ドクター・ゲロ超サイヤ人の存在を知らず、現時点でも十分勝てるだろうという予測を立てていたことから、それ以上強くなる必要を想定していたようには見えません。

 

未来の17号・18号のように無差別に人殺しをしようとしていた可能性も考えられますが、19号は20号の命令で動くだけですし、20号はドクター・ゲロなので理知的に描かれ、狂気や残虐性はあまり感じられませんでした。ただ作中では常に劣勢であり、どんな目的があれまずは目の前のベジータたちを退けなければならない状況だったので、本当は人類を抹殺したかったという可能性は否定はできませんが、ドクター・ゲロの研究内容からそういう目的があったようには感じられませんでした(もし人類抹殺が目的ならセルにもそのような目的が与えられているはず)。

 

かつてのレッドリボン軍のように、世界征服を目的としていた可能性もありますが、それならいきなりキングキャッスルを狙えばいいことです。

 

このように、正直言って作中描写から考察するのは非常に難しいのですが、とっかかりになるのはセル(や人造人間21号)の研究を続けていたことです。これは、ドクター・ゲロに更なる研究の意思があったということになります。

ドクター・ゲロが20号になったのは、「永遠の命を得るため」であったと自ら語っています。それが何故かと考えた場合、セルの完成が遠い未来になることが明らかだったことから、セルの完成を見届けるためであったと考えることが可能です。

セルはドクター・ゲロは研究を諦めたが、コンピューターが開発を続けていたということになっていましたが、もし死なずに何事も起きていなければ、そのまま自ら20号としてセルの完成を目指していた可能性は十分考えられます。その先には、自らの妻である21号の完成を目指していた可能性も、当然あります。 

ただ、そうだとしても、それが悟空と何のゆかりもない一都市で破壊活動を行う理由にはなりません。ただ、20号の目的が研究なのであれば、その破壊活動も何らかの研究の一環であった可能性があります。

 

ところで、19号と20号が悟空を探していたことは確かです。19号がヤムチャの戦闘力を察知して「いきなり見つかった」と言っていたからです。しかし、何故何の変哲もない南の島から悟空を探し始めたのか、理解に苦しみます。

そもそも、未来のトランクスが人造人間はそこに現れると言ったから南の島に行ったわけですが、トランクスの未来では人造人間出現時にはすでに悟空は死んでいます。つまり未来の人造人間は悟空を殺すためにそこに現れたわけではないのです。

その場所に現れた未来の人造人間が17号・18号であろうと、実は未来にもいた19号・20号だったとしても、そこにいた理由は決して「悟空を探すため」ではないのです。

 

つまり、悟空を探していても、探していなくても、人造人間が「そこ」に現れたということになります。だとすれば、一つの推論が生まれます。

人造人間は「南の都から南西9キロ地点の島」に「やって来た」のではなく、「そこから行動を開始した」のではないか。つまりそこに、17号たちが眠っていた研究所とは別の研究所があり、そこから動き始めたと考えるべきなのではないかということです。

これなら、まだその島から行動を開始した理由が分かります。そこがスタート地点だったからです。そこで破壊活動を行ったのも、単なるウォーミングアップだったのかもしれません。

 

ではそこにはどんな研究施設があったのでしょうか。本来の研究所では16~18号が眠っていましたし、地下にはセルの研究室もありました(劇場版では13~15号も)。ほぼこの研究所で全てを賄っているように見えますが、あと考えられるとしたら、19号の開発、またはゲロ自身を20号に改造した施設だったという可能性です。本来の北の都近くの研究所とは別に施設をもつ理由まではわかりませんが、19・20号はそれ以前の人造人間とは異なるエネルギー吸収式でしたから、必要な機器が違っていたのかもしれません。

レッドリボン軍は全世界を股にかけて行動していましたから、研究施設も各地にあってもおかしくなく、ゲロの研究所だって一つしかないとは限りません。ゲロの研究所はベジータやトランクスとクリリンによって完全に破壊されましたが、それでも人造人間21号が現れたのも、他に研究施設があった証明にもなります。

 

というわけで、人造人間19号と20号の目的は分かりませんが(基本的には悟空の抹殺)、南の都方面の島から行動を開始した理由は、単純にそこに研究所があったからと考えたいと思います。

 

アルティメット悟飯から「甘さ」が消えたのは何故か

当時原作を読んでいて違和感を覚えた部分です。

界王神に潜在能力を限界以上に引き出されてパワーアップした悟飯からは、「甘さ」が消えていました(ピッコロ評)。

超サイヤ人に変身する必要がない(=興奮状態にならない)上に、怒って覚醒しているわけでもない悟飯から甘さを奪ったら、もはや悟飯としての個性がなくなってしまうのではないかとさえ思いました。

 

実際、そのために本来悟飯の個性であった「普段は穏やかだが怒ると爆発的にパワーが上がる」という特性は消え、ただの強いキャラでしかなくなったことにより、その後の「GT」や「超」でも上手く生かされることのないキャラになってしまった印象さえあります。

しかし、何故そうなったかということは、悟飯の心情を考察すれば理解はできます。

 

元々、悟飯が穏やかで戦いが好きではない(むしろ臆病)という性格は、単なる生まれつきのものというだけではありません。

悟飯は幼少時にラディッツに連れ去られ、その後ピッコロに鍛えられ戦士としての訓練を受けましたが、初戦がナッパでした。

 

もう一度言います。初戦がナッパでした。

 

ナッパ戦と言えば、当時の読者の誰もが「所詮ベジータの前座だろう」と思っていたところ、味方キャラを次々と殺害し悟空以外のメンバーがいくら束になってもかなわないという、絶望的な戦いでした。

はっきり言って、原作中のバトルの中でも指折りの凄惨な戦闘です。これが初戦だったんですよ。

 

これは少年時代の悟空に例えると、最初の天下一武道会の予選でいきなりタンバリンと戦うようなものです。チャパ王がタンバリンになってるレベルということです。

悟空は亀仙人の元で心身ともに鍛えられ、クリリンという兄弟弟子とも交流を深め、天下一武道会で少しずつ強い敵と戦って実力を高めていきましたが、悟飯は初戦がナッパです。そのまえの栽培マンとの戦闘でさえ、怯えてしまっていました(そもそもその時点ですでにヤムチャが死んでる)。

 

そして以後、悟飯はまともに「敵に勝ったこと」がありません。ナッパに怒りの魔閃光を放っても通じず、元気玉をまともにくらってボロボロのベジータとなんとか互角に渡り合えるというくらいで、その後もドドリアザーボンという格上とは戦うまでもなく勝てないのが分かるというレベル差でした。フリーザの部下を少し倒したくらいで、戦闘力では勝るグルドにもベジータの助けがなければ殺されていたところです。リクームにも全く歯が立たず、フリーザにも二度逆上して一方的に攻撃していますが、ダメージを与えることはできていません。人造人間との戦いでは戦闘に参加すらしていませんでした。

悟飯にとって唯一完全勝利と言えるのが、セルとの戦いですが、これも自らの増長が悟空の死を招き、最後も悟空の心理的な助けがあってようやく全力を発揮しての勝利だっただけに、自分一人の力で勝てたとはとても思っていなかったでしょう。

 

つまり悟飯は自分の力で勝ったことは一度としてなく、自分の自信につながるようなことは全くなかったんです。そりゃ、戦いが好きになれるはずがありません。悟飯の「甘さ」は戦いが好きでないからこそのものですが、それは戦いで勝つ自信がなかったことが根底にあるのです。

ゲームに例えれば、初心者の頃からランカークラスを相手にして一方的にやられる経験しかしていないわけで、そんなことではいくらそのゲームの才能があって初心者にしてはレベルが高かったとしても、そのゲームを好きになることはできないでしょう。

そんな状態で、自分だけキャラのステータスが本来の上限を超えてパワーアップしたらどうでしょうか。相手がどんな熟練者でも、勝つ自信が生まれないでしょうか。

 

アルティメット悟飯とは、つまるところそういう状態です。一度もちゃんと勝ったことがない戦士が、老界王神の儀式に付き合うだけで限界以上のパワーアップをしてしまった。超サイヤ人への変身をせずとも、超サイヤ人3の父親以上の力を手に入れたわけです。そりゃ、もう負ける気はしないですよ。甘さだって消えるってものです。

ただそれがチートによって与えられたものだからこそ、実力で負けた状態に陥って挽回する策が生まれず、結局主人公の座を下ろされることになってしまったわけですが。

 

悟飯の「甘さ」というのは、自信のなさから生まれていたものだから、強くなって自信が生まれればなくなるものだったのです。その代わり、素の状態で限界まで強くなっているわけですから、怒ってブーストする余地もなくなったわけで、個性も失ってしまった、ということになります。

「超」で悟飯はアルティメット悟飯としての力を取り戻しましたが、これは一時的にチートで得た力でしかなく、本当に戦士として成長するためには、自分で鍛錬して強くなり、そして戦いに勝つことで前向きな経験を積んでいかなければなりません。そこまで掘り下げるだけのエピソードは、与えられない可能性が高いですが。

 

悟飯に残された個性は、妻と娘が出来たという責任であり、これはベジータが背負っているものでもあります。案外、悟飯はベジータを師匠として修行した方がいいのかもしれません。当のベジータが自分の修行(と、カカロットに出し抜かれないこと)にしか興味がないでしょうけど。

 

未来トランクスに見るベジータの面影

 未来のトランクスは、物心ついたときからベジータが死亡しており、悟飯に鍛えられて育ったので、心優しく真面目な好青年であり、とてもベジータとは似ていないというイメージを持たれていますが、そんな彼にも結構ベジータっぽい側面があります。

 

 

(1)敵は容赦なく殺す

 フリーザをバラバラに刻んだ上に粉々に消滅させる、胸を貫いたコルドにとどめを刺す、というところは、フリーザの部下たちと戦った時のベジータの戦い方に非常に似ています。

 人造人間への憎しみしかないため敵は殺すべきものと認識しているのだと思いますが、優しい性格の割に悟飯のような甘さがないあたりにベジータの血統を感じさせます。

 

(2)格下の相手をめっちゃ挑発する

 初登場時のフリーザへの言動は、非常に見下したものでした。「ちがう、貴様を殺しに来た」「超サイヤ人孫悟空さんだけじゃない…ここにもいたということだ」など、非常に自信たっぷりの言動ですが、この性格は悟飯譲りでもブルマ譲りでもなく、非常にベジータ譲りです。

 そもそもトランクスはそれまで人造人間と悟飯以外とはまともに戦ったことがないはずで、フリーザがどのくらいの強さなのかも聞いた話でしか知らないはずなのです。それでも「自分も超サイヤ人なのだからフリーザには勝てるだろう」という憶測だけでここまで自信たっぷりになれるあたりに、自信家ベジータの血統を感じさせます。優しくて若干控えめなイメージがあるトランクスですが、実は敵に対してはとても尊大なのです。

 

(3)自分のパワーアップをめっちゃ過信する

 それが最悪の形で出たのが、完全体セルとの戦いですね。ベジータ以上の変身を身につけたので確実に勝てるという見込みで勝負を挑み、全くダメージを与えられずに終わったというあたり経験不足がもろに出た形ですが、瀕死から立ち直ってきっと超サイヤ人になったはずだと思ってフリーザに挑んで無残に殺された父そっくりでもあります。

 ベジータは小さいころからサイヤ人最強でありながら、フリーザやその幹部にはずっと勝てずにいた環境で育ちましたが、トランクスも幼少時からすでに悟飯に次ぐ戦士であり、人造人間という超えられない敵を倒すことが目標でした。ある意味育った環境が似ていることも、強くなりたい気持ちが強いあまりにちょっとパワーアップするとすぐ無敵になったと勘違いしてしまう要因なのかもしれません。過去にタイムスリップする前にも、トランクスは一度人造人間に勝てると思って一人で戦いを挑んで重傷を負っていますしね。

 

 未来のトランクスの戦士としてのモデルは言うまでもなく悟飯であり、謙虚さや真面目さなどは悟飯を理想としたが故の性格だったりするのかもしれませんが、その本質はかなりベジータ寄りだったりもします。ある意味、ベジータのような少年が悟飯を目指した結果生まれたのが未来のトランクスなのかもしれません。

 ちなみに、現代のトランクスはベジータに鍛えられた割に、あまりベジータの性格には似ていません。自信家で怖いもの知らずなところはありますが、容赦のなさやパワーアップへの過信はそれほどではなく(ゴテンクスはかなり過信していましたが、あれは悟天も混ざっているのでどこまでトランクス由来の性格なのか謎)、本気の戦い、殺し合いを知らないという側面が大きいのかなと思います。未来トランクスが持っているベジータの面影は、やはり育った環境が大きいのかもしれません。

 

悟空と悟飯にとっての「仲間の死」

 悟空がクリリンの死に対する怒りによって超サイヤ人に目覚めたのは有名な話ですが、リアルタイムで漫画を見ていた当時、「クリリンなんて前も死んだしその後も色んなキャラが死んだし唐突じゃね?」と思っていた小学生の自分がいました。

 ただ、改めて悟空の経歴を辿ると、実は悟空はあまり「仲間の死」を目の当たりにしていなかったということに気づきました。

 

 ピッコロ大魔王編において、最初に殺されたのがクリリンでしたが、このクリリンが殺された瞬間も、悟空は見ていません。それでも十分怒りに燃えていましたが、フリーザに「目の前で」殺されたインパクトは、もっと大きかったのでしょう。

 そして、その後亀仙人と餃子が死んだところには、悟空は立ち会ってもいません。それ以前に悟空が死を目の当たりにしたのは、ウパの父・ボラの時くらいでしょう。その時も、悟空は強い怒りを見せ、桃白白を爆殺(生きていましたが)していますし、そのボラを生き返らすためだけにドラゴンボールを集めました。

 

 その後、ナッパとベジータが来襲した際に、悟飯とクリリン以外の仲間は全員死んでしまいましたが、その死の瞬間にも悟空は立ち会っていません。それでも激しい怒りを見せてナッパをいたぶっていましたが。

 そしてフリーザとの戦いでは、クリリンの死の前にベジータの死を目の当たりにしています。この時、悟空にとってベジータはまだもう1人の倒すべき敵であったにも関わらず、強い同情を見せ、サイヤ人としての誇りを受け継ぐ覚悟まで与えていました。

 

 つまり悟空は、仲間の死を大きく捉える感性は持っていましたが、直面する機会が実は少なく、その分クリリンが目の前で死んだ怒りが非常に大きかったのだと言う事ができます。

 

 その後悟空は人造人間やセルとの戦いの中でも誰の死にも直面していませんし、ブウ編でもあの世から見ていたくらいです。ただベジータ天下一武道会の観客を殺した場には居合わせていたため、その怒りによりベジータとの戦いを決意していました。やはり悟空は、目の前の死に対する怒りは強く見せる傾向にあります。ただ、直面する回数が最小限なので、なんとなく死に疎いようなイメージがあるだけです。

 

 

 一方、悟空が直面した回数が少ない割を食っているのが、息子の悟飯です。ナッパ戦での仲間の死はすべて見届けていますし、ナメック星でも多くのナメック星人が殺される瞬間を見ています。もちろん、ベジータクリリンが殺された時もそれを見ています。悟空が少年時代に目の前で殺されたのがボラだけだったのに対して、悟飯はあまりにも人の死を見すぎているように思います。悟空は敵との戦いを「試合」と捉える傾向にありますが、悟飯は初めての戦いからずっと「殺し合い」であり、むしろ味方が死ぬことの方が多かったとさえ言えます。

 このように考えると、悟飯が戦いを好きでないのは、単に性格によるものだけではないのかもしれません。悟飯にとって戦いは相手の命を奪うか奪われるかであり、だからこそ戦う事に躊躇いがあり、怒りで我に忘れた時は相手を殺そうとする傾向にあるとも言えます。だからセルとの戦いも悟空のように楽しめず、自分がセルを殺すまで戦闘は終わらないという思いが本気で戦う気を失わせていたのかなとも思います。

 

 おそらく、悟空と悟飯にすれ違いがあったなら、そこであったのではないかと思います。悟空にとって戦いは試合であり、相手の命を奪わなくても終わるものであることを知っていました。ピッコロの命も、ベジータの命も奪わず、フリーザの命も見逃そうとしました。しかし悟飯は命を奪う戦いしか知りません。悟飯にとって戦いは殺し合い以外の何者でもないということを、悟空は全く知らずにセルを戦わせようとしてしまったのです。

 その意味では、ピッコロ大魔王の息子であるピッコロの方が、悟飯の気持ちが良く分かったのでしょう。ピッコロもまた、父の仇敵である悟空を殺すか、自分が殺されるかしか未来はないと思っていたところ、悟空に命を救われた身です。しかし悟飯には、戦いで命を奪わなくてもいいというモデルケースがなかった。そこが最大の不幸だったのかもしれません。

 

 悟空がそのことを理解していれば、精神と時の部屋での修行で悟飯に命を奪わなくてもいいのだと教えることができたはずです。しかし実際にやったのは、逆にセルへの怒りを増幅させて悟飯に新たな変身をさせることでした。

 悟飯は結局、最後まで殺し合い以外の戦いを知ることなく戦いから身を引く事になります(「超」の力の大会も、敗れたほうが消滅する事実上の殺し合いでした)。もし殺し合い以外の選択肢を知っていれば、悟飯はミスター・サタンのように、魔人ブウと敵対することもなかったのかもしれません。

 

 悟飯は怒りによって力を開放させることができますが、セル戦以外でそれが敵へのとどめになったことはありませんでした。それは悟飯が怒らなければならなかったことが多すぎたからだと言う事もできます。逆に、悟空にとって相手を殺すことは「反則」です。誰かが死ぬことがない、というのが前提であるから、実際に死に直面したときにより強い怒りを見せるのでしょう。滅多にないことだからこそ、悟空はクリリンの死で超サイヤ人になることができたのです。

孫悟空の驕り

 「復活のF」で、悟空は自分の力に自信がありすぎるあまり、油断しすぎる傾向があるとウイスに指摘されていました。しかし、過去の作中の悟空の振る舞いからが、そこまで悟空が油断をするという描写はないような気がします。

 実際の悟空の振る舞いを思い返してみると、どうでしょうか。

 

 まず少年時代は、あまりそういう傾向は見られません。最初の天下一武道会ジャッキー・チュンに負けたこともあり、世界にはもっと強いヤツがいると常に上を目指して修行していました。

 いわゆる「舐めプ」っぽい行動がみられるようになったのは、成長し身長が伸びてからでしょうか。第23回天下一武道会での天津飯戦では、ズボンの帯を奪うなど相手をおちょくる戦い方をしていました。

 ナッパは界王拳で瞬殺できるのにすぐしなかったのは、消費を抑えたいのと殺された仲間の恨みを一発ずつお見舞いしたかったからだと思うので、舐めプとはちょっと違いますね。

 ギニュー特戦隊戦では、「おめえはオラには勝てねえ、戦わなくてもわかる」と無駄な戦いを避けるようになりました。このあたりで一定のレベルより下の相手は試合相手にもならないとみなすようになってきます。

 

 間を一度飛ばして、魔人ブウ編では、超サイヤ人3になる前に、「オラもベジータも甘く見すぎていたよ」と、魔人ブウがそんなに強いと思っていなかったという言葉を発しています。この時点での悟空は、もう自分に匹敵する強さの敵はこの世にはいない、というところまで極めた自信があったようです。実際、ダーブラ含めたバビディ一味に対してはかなり余裕の態度を見せていました。

 おそらく、悟空は超サイヤ人2になり、その上の3まで達したことで、これ以上の世界はないと思い至っていたのだと思います。その上の世界をビルスに教えられ、また上昇意欲が生まれるに至るのですが、それでも油断癖を指摘されるということは、それだけ「強くなった」という自覚があるからなのでしょう。復活したフリーザに対しても落ち着いた態度でいましたし、戦闘力では負けている自覚があっても、すぐにピークが過ぎると看過していましたし、簡単には負けない自信があるようでした。

 

 あえて飛ばしたセル編ですが、この頃は悟空が心臓病になってしまったこともあり、あまり悟空が強い相手にどう挑むかという姿勢を見ることができません。そのため判断が難しいのですが、トランクスに未来を教えられ猶予が3年あったにも関わらず、悟空はたいしてパワーアップしていなかったこと、その後精神と時の部屋で1年修行しただけで大幅にパワーアップしたことを考えると、そこまで真剣に力を伸ばすことを考えていなかったように思えます。もちろん、悟空と同等に戦える修行相手がいなかったからでもありますが、超サイヤ人になったことでかなり強くなった自覚があり、人造人間がそれ以上に強いとはあまり信じられなかった部分があるのではないかと思います。実際、ベジータ超サイヤ人になったことでかなりの自信を見せており、18号に敗れた際はかなり困惑していました。

 悟空は強い相手を知る度に、それに勝つために修行に勤しむというパワーアップの仕方をしてきましたが、セルという相手がいても悟飯より先に超サイヤ人2になろうとはしなかったように、超サイヤ人への覚醒が悟空に「これ以上強くなる方法はないのではないか」と思わせてしまった側面があるのかなと思います。鳥山明氏が、超サイヤ人より強くするアイデアが思いつなかったと言っていましたから、作中の悟空もそう思っていたのでしょう。悟飯にセルの相手を任せたのは、悟飯が覚醒しないと超サイヤ人の上が見えなかったことの証左でもあります。

 

 そんな悟空が再び強さを目指すようになったのには、先述の通りビルスの登場が大きかったのですが、もう一つにベジータと一緒に修行するようになったというのが大きいのかなと思います。フリーザ編までは、亀仙人・カリン様・神様・界王様と何らかの師匠がいたことで強くなってきましたが、自分で修行するようになるとあまり身が入らなかったようにも思えます。同等の強さを持つ人物がいませんでしたし、精神と時の部屋では悟飯を超サイヤ人にして対等に修行をしていましたが、やはり息子相手では真剣になりにくかったのでしょう。

 そんな中で、それまで一緒に修行するなどとは(ベジータの方が)思わなかったところ、ベジータが悟空を認め和解したことで、一緒に修行をできるようになり、共に伸びるという楽しさを思い出したのかもしれません。ちょうど亀仙人の下でクリリンと一緒に修行していたのと、ウイスの下でベジータと一緒に修行しているのは同じ構図ですしね。

 その意味で、悟空にとっては「ベジータと一緒に競える環境」というのが非常に理想的で、その状況になるまでの間、孤高の最強戦士だった期間に悟空の驕りが形成されていったのかなと思います。

 

 しかし、亀仙人ジャッキー・チュンとして悟空の前に立ちはだかっていなかったら、もっと早く悟空は自分の強さに驕れるようになっていたのかもしれません。そう思うと、やはり亀仙人は師匠として素晴らしい人間だったと思いますね。

悟飯は何故超サイヤ人2に覚醒できたか

 悟飯が怒りによって秘められた力を目覚めさせ、超サイヤ人2になってセルを倒すというのが、セル編の終盤の展開ですが、その後悟空とベジータも自力で超サイヤ人2に変身できるようになっています。決して悟飯が地球人とサイヤ人の混血だったり、それが故に幼少時より高い戦闘力を持っていたことと、彼が超サイヤ人2に変身できたことは、必ずしも直結していません。では、何故悟飯は超サイヤ人2に一早く変身できたのでしょうか。

 悟飯は怒りで我を忘れた時に莫大な力を発揮する傾向がありますが、それが敵を倒す決定打になることはほとんどありませんでした。ラディッツを倒したのはピッコロですし、ナッパに放った怒りの魔閃光は簡単に弾かれています。フリーザにも2度怒りの攻撃を見舞っていますが、ダメージを与えることはできませんでした。

 悟飯は同年齢の悟空と比べればはるかに大きな戦闘力を持ち、修行や瀕死からの復活によりさらに伸ばしていきましたが、その時の悟空やベジータ以上の力を発揮することはほとんどありませんでした。年齢を差し引けば、決して秘めた戦闘力がずば抜けているというわけではないのです。

 

 そのため、悟飯が超サイヤ人2になれたのは、「その時点で悟空やベジータの戦闘力を単純に上回っていたから」ではないのではないか、と考えます。セル戦での演出では、悟空がフルパワーで戦っているようには見えないくらい、悟空と同等の力を得るには至っていたものの、それは悟空との修行で得た力であり、悟飯の戦闘力が単純に超サイヤ人2になれるレベルに至っていたから怒りで変身できた、と単純に理解すべきではないと思うのです。

 というのも、単にレベルが上がったから超サイヤ人2になれるのであれば、悟空もセル戦の時点でもっと修行すればなれていたはずなんです。どちらかと言うと、悟空にはそのなり方がわからなかった、と言った方が正しいと考えています。だからこそ、悟飯に先に超サイヤ人2になってもらう必要があった。それがセルにあえて悟飯を戦わせた意図なのだと思うのです。

 その意味で、悟飯が何故超サイヤ人2になれたかと言えば、それは悟飯が怒りをトリガーとして「瞬間的に戦闘力を引き上げる」という才能を持っていたからなのではないかと思うのです。それこそが、超サイヤ人2への変身に必要だったのではないでしょうか。実際、悟空もベジータも、超サイヤ人2への変身は割と一瞬で行っており、時間をかけていません。超サイヤ人に体を慣らした状態で、ほんの一瞬で一気に力を高めることが超サイヤ人2への変身条件で、悟飯は怒りに身を任せることでそれを容易にできた、ということであれば、すべてに説明がつきます。

 

 つまり悟飯は、怒りによって「秘めたパワーを発揮していた」のではなく、「瞬間的にパワーを増幅させることができていた」のではないかと思うのです。それが悟飯の強さの源泉であり、アルティメット化したことにより逆に失ったものでもあります。悟飯は老界王神に「限界以上に」潜在能力を引き出されたことにより、常時マックスパワーで戦えるようになりました。その反面、戦闘力をそれ以上瞬間的に高める余地もなくなったのです。そのため、戦い方に幅がなくなってしまったとも言えます。

 超サイヤ人のレベルを超えた戦いでは、全力を出せば確実に地球が吹き飛ぶエネルギーを発生させます。そのため、相手を倒すには瞬間的なパワーの放出で勝つしかないのですが、悟飯はアルティメット化したことにより逆にそれが不得意になってしまったのではないかと思うのです。

 悟飯に必要だったのは、「潜在能力を限界以上に引き出すこと」ではなく、「潜在能力を瞬間的に限界以上に引き出すテクニックを覚えること」だったのかもしれません。

「ベジータゴッド」から考えるベジータの性格

 映画「ブロリー」において、アニメでは初めて超サイヤ人ゴッドのベジータが登場しましたが、個人的には、このベジータゴッドの印象が非常に強く残りました。何故かと言うと、非常に落ち着いた、冷静な態度で戦っていたからです。

 悟空のゴッドにおいても、いわゆる「柔の拳」のような戦い方であったり、トリッキーな技を使ったりというのが印象的でしたが、悟空は元々亀仙人や神様の下で修行し、そういった穏やかな戦い方を習得しているため、久々かつ斬新ではありましたが、元々のキャラクターから離れた描写ではありませんでした。

 一方のベジータは、基本的に戦う時は感情を表に出して戦うことが多いキャラクターです。自分が優位にあり自信を持っている時は、自らの力を強く誇示し、相手を徹底的に蔑み、敵をゴミクズのようにいたぶる傾向があり、逆に自分が劣勢の時は、大きく焦り、怒り、あまりにも実力差がある時は絶望を隠さない傾向があります。これは、超サイヤ人に覚醒した後も、ゴッドの領域に到達した後も同様で、基本的にベジータは感情をむき出しにして戦うタイプなのです。

 それに比べると、ゴッドの状態のベジータは、落ち着いた表情で、無駄に相手を愚弄したりピンチに焦りを見せることなく、冷徹にブロリーに攻撃を加え、まさに「サイヤ人の王」であるかのような風格が漂っていました。

 

 元々、ベジータウイスに「日ごろから神経を張り詰めすぎ」という欠点を「復活のF」で指摘されていました。描写としては感情を表に出しすぎることが多いということと合わせて考えると、ベジータはおそらく自分にプレッシャーをかけすぎなのだろうと思います。

 優位な相手には徹底的に自分の優位性を誇示し、不利な相手には焦りと不安を隠さない点と、ベジータの生い立ちや性格を考えると、おそらく彼は「自分=サイヤ人の王子は宇宙最強でなければならない」というプレッシャーと常に戦っているのではないだろうかと推察されます。常に自分は最強でなければならない、と暗示をかけているが故に、自分の強さを必要以上にアピールし、そして自分より強い相手に直面したときに大きな焦りを感じてしまうのでしょう。

 このベジータの性格は、おそらくは父の影響が強いと思われ、サイヤ人が宇宙一の戦闘民族であり、その王子であるベジータは王である父よりも高い戦闘力を持つことから、一族の期待を常に受けていたものと思われます。同時に、幼少時からフリーザギニュー特戦隊といった次元の違う強者の存在も知っていたことから、いつか彼らを追い抜かなければならない、という目標を掲げていたとも考えられます。サイヤ人最強であることを誇りにしていると同時に、サイヤ人よりも強い宇宙人がいるという現実を早く打ち破らなければならないという焦りが、成長するにつれて高まっていたことは容易に想像できます。その壁はちょっと修行したくらいで埋まるものではなく、だからこそ「伝説の超サイヤ人にさえなれば、自分が宇宙最強になれる」という夢も描いていたのでしょう。

 ところが、サイヤ人では最強であるという誇りも、カカロットの登場により打ち砕かれることになってしまいます。超サイヤ人への目覚めなど、常に一歩先を行く存在はベジータにとって忌々しい存在でしたが、家族を得て心境に変化が生じた彼はカカロット孫悟空の強さを受け入れ、彼を最強のサイヤ人と認めることになります。それでも、長年染み付いた戦いのスタイルが変わるわけではなく、性格も簡単に変わるものではないため、弱い相手にイライラするなど、感情の浮き沈みの激しさの描かれ方はあまり変わりませんでした(「復活のF」での超サイヤ人ブルーは比較的冷静でしたが、フリーザへの長年の恨みが募っていたので冷静になりきれてはいなかったように思えます)。

 そんな中での、「ブロリー」での超サイヤ人ゴッドのベジータだったので、あの戦闘スタイルはある意味ベジータの最終到達点であったのではないかとさえ思えます。ブルーになるとどうしても超サイヤ人化するが故に気性の激しさが多少出てしまうと思うのですが、それがないゴッドはベジータが今後更に強くなるために必要な形態なのではないかとさえ思います。少しゴッドの状態で戦う訓練をした方がいいと思いますね(笑)

 

 悟空はウイスに「油断しすぎる」という欠点を指摘されていますが、悟空に足りないのが「冷徹さ」であるとすれば(それを克服するのが身勝手の極意)、ベジータに足りないのは「穏やかさ」なのかなぁと思います。もしベジータが身勝手の極意か、それに類する境地に達することがあるのであれば、その鍵となるのはそういった感情面の変化であるような気がしますね。もし今後鳥山明氏がベジータのパワーアップを考えるのであれば、そのような要素が加わると信じたいところです。