どらごんぼーる考察

がんだまぁBlogからドラゴンボール記事を移植しました。以後ドラゴンボール考察はここで展開します。

孫悟飯はどうすれば主人公であり続けられたか

悟空の息子・悟飯というキャラクターは、少年時代は「悟空以上の力を秘めているが、その力をコントロールできず激怒したときに瞬間的に発揮するだけ」というのが個性のキャラクターでした。その特性はピンチの度に幾度となく発揮するも、劣勢を覆すほどの活躍には繋がらず、あくまでも悟空が来るまでの戦いを盛り上げるだけのものでしたが、セルとの戦いではついにそれが戦いの切り札となり、セルを倒すに至っています。

 

しかし、この特性は青年になった後は、全く使われることはありませんでした。唯一ビーデルスポポビッチにボコボコにされた際に怒りを見せたものの、本気の戦いの場ではその力は発揮されませんでした。

青年時の悟飯は、「修行をサボっていたので本来の力を失っている」という設定で、最終的にその力を自力で取り戻すには至らず、老界王神の力で限界以上に引き出されそれまでのキャラクターの中では最強の戦闘力を得るも、魔人ブウを倒す力にはなりませんでした。

 

元々、悟飯の「怒ったときだけ力が引き出される」という特性は、子供かつ主人公ではないキャラだからこそのものでした。成長し主人公となったことによって、それに代わる新たなアイデンティティ(悟空で言う「より強い奴と戦いたいという純粋な気持ち」のような)を得ることが出来ず、その結果主役から降ろされてしまったのかなと思います。

 

では、主人公となった悟飯はどのようなキャラであるべきだったのでしょうか。

 

悟飯のもう一つの特性が「戦いは好きではないこと」で、これが少年誌的には非常に扱いにくかったのだろうと思います。ドラゴンボールはどうしても次から次へと強い敵が出てくる展開にならざるを得ず、それ故に悟空の好戦的な性格がマッチしていました。

悟飯が本気で戦わなければならない展開となると、より「悪い奴」を出さざるを得ず、戦わなければ世界や仲間が危機に陥るという展開にしなければなりませんでした。しかしその後登場したブウやビルスなどの敵キャラクターは、どれも絶対悪とは言い難いもので、おそらく鳥山明氏はあまり「凄く悪いキャラ」は出したくなかったのだろうと思います。そうなると、余計に悟飯の出番はなくなります。

 

つまり、悟飯が「戦うためのモチベーション」を得なければ、主人公たり得なかったことになります。おそらく、未来のトランクスの世界のような絶望的な状況になれば、悟飯も真剣に戦うのだと思いますが、作者がそういう世界観にはしたくないということになると、かなりアイデアは限られてきます。

 

戦いが好きではないけど本当は強い主人公、となると、「るろうに剣心」などが思い当たります。この場合、人殺しはもうしたくないが、目の前にいる困った人くらいは助けたい、という点がグレートサイヤマンに似ており、悟飯に近い方向性と言えます。ただこの作品はそこから「過去の自分に戻りつつあることへの葛藤」とか「過去に犯した罪への贖罪」などがテーマになっていき、同じことをドラゴンボールでやるのは難しいと言わざるを得ません。というか鳥山氏はそういう話できないでしょうし。

 

ただ、何も悟飯が最前線でずっと戦う必要はないのかなと思います。悟飯が登場した後の悟空は、ほぼ「ラスボスとの一騎打ち」専用のキャラとなっており、それまでの敵との戦いは悟飯やベジータらサブキャラの役割となっていました。悟飯が主人公になったとしても、同様にラスボス以外とは別のキャラが戦えばいいわけで、実際悟飯は老界王神に力を引き出されるまでずっと最前線には出てきませんでした。

 

あえて言うなら、その「老界王神に力を引き出される」というパワーアップ方法が良くなかったのかなと思います。悟飯を修行する方法がなかなか思いつかなかったのだと思いますが、本人の努力で力を得たわけではないので、劣勢になったときに覆すテクニックや技がなく、結局ブウに吸収されるしかなくなってしまったというのがいわゆる「アルティメット悟飯」の限界でした。

 

もしちゃんと悟飯が修行するのであれば、必要だったのは「戦闘力のコントロール」であったのだと思います。悟飯は作中最強の力を秘めている設定でしたが、それを自在にコントロールすることはずっとできないままでした。少年時代はずっと怒りというトリガーが必要でしたし、一応成長した後は自分の意思で超サイヤ人2になれたようですが、ダーブラ戦ではなっていないように見えたりと曖昧で、結局セルを倒した時ほどの力を引き出すことはできなくなっていました。

悟飯はそもそも自分の戦闘力をしっかりコントロールする訓練を積んでいません(子供だったから当たり前ではあるのですが)。平時でも超サイヤ人でいられる訓練は悟空とともに積みましたが、その後超サイヤ人2の力をコントロールする修行は、おそらく行っていなかったはずです。だから、もし悟飯が修行するのであれば、まずはそこからだったのだと思います。その上で、更に上の力を引き出す訓練をして、ようやくアルティメット悟飯となるのが本来あるべき流れだったはずです。

 

悟空は、少しずつ修行をして超サイヤ人の力をコントロールしていき、最終的に超サイヤ人3までたどりつきましたが、悟飯はかなり過程をすっ飛ばして超サイヤ人2までたどり着いています。そして、実際にはそれ以上の力が眠っていたわけで、これをコントロールするのは至難の業であったのではないかと思います。それこそ、フルパワーでいられる時間はそんなに長くない、と考えるのが自然な流れで、ノーリスクノー消費のアルティメット悟飯はあまりにもチートすぎます。チートすぎるが故に、その先を描くことができなくなってしまったとも言えます。

本来は、悟飯は「秘めた力をコントロールできるようにはなったが、ずっとその状態ではいられないので、瞬間的にその力を発揮する」という界王拳的な能力を得るべきだったのかなと思います。

 

もう一つ、悟空にはない悟飯の特性に、「怒った時は相手に容赦しない」というものがあります。キレた時は本気で相手を殺せるのが、悟空との違いです。フリーザに「お前なんか死んじゃえー!」と言えたり、セルジュニアを一撃で撲殺したりする一面が、悟飯の個性でもあります。これも、「本来の力を発揮したときだけ残忍になる」という形で反映させられたのかなと思います。

 

そこまで考えて、これってフリーザに近いのかなと思ってしまいました(笑)力の大会でフリーザが味方になる展開を知ったからそう思えたのかもしれませんが、フリーザは力をコントロールできないから変身してパワーを下げていたキャラですし、普段は敬語で穏やかにしゃべりますが、キレると荒っぽい口調になります。

悟飯も平時は穏やかな青年であるものの、力を解放すると残忍になるというキャラ付け、つまりフリーザの味方版的なポジションで主役として描かれれば、もう少し違った展開になれたのかなと思いますね。

主人公が相手を殺すのを躊躇わない残忍なキャラなのはドラゴンボールらしくない、かもしれませんが、そこはストッパーとして悟天なりビーデルなりがいるわけですし、ピッコロや家族を得たベジータもいますから、その辺が支えて心理的に成長すれば良いんじゃないでしょうか。

 

現在の「超」の時間軸でも、悟飯がそういうキャラになってもいいんじゃないかと思います。主人公ではないわけで、ゴッドとは別の力を得るもその時に性格が豹変してしまう、というのはアリだと思います。正直なところ、大人になった悟飯が「怒る」以外で戦闘力を上げるアイデアはやはり難しく、力の大会でも悟飯の活躍のさせ方にアニメスタッフがかなり苦心していたように見えましたから、そういう展開をむしろ希望したいところです。

ただ、鳥山明氏は悟飯を描くよりも悟空とベジータを描く方が楽しそうなので、多分アニメオリジナルでもない限りそういう話にはならないんだろうなぁ…とも思います。ただ、ピッコロが神の気を会得することも原理的には可能でしょうし、悟飯とピッコロにももう少しスポットを当ててもいいんじゃないかと思うので、そのあたりアニメには頑張って欲しいところです。未来トランクスのパワーアップのさせ方が酷かったのであまり期待はしていませんが。