どらごんぼーる考察

がんだまぁBlogからドラゴンボール記事を移植しました。以後ドラゴンボール考察はここで展開します。

戦闘力をコントロールして戦うということ

 サイヤ人編~フリーザ編において、地球人は戦闘力をコントロールできる特殊な民族であるという説明がされていました。これに対し、フリーザ軍関係者はコントロールが出来ないので、スカウターで大体の戦闘力がわかる、という描写がされていたわけですが、実際には敵側もある程度戦闘力をコントロールしていたように見えます。

 地球側の人間が行う「戦闘力のコントロール」と、それ以外の宇宙人が行う戦い方にはどう違いがあるのかを、少し考えてみました。

 

 まず、地球側のキャラクターにおいて、当初「気の放出」は必殺技を使うときだけに行うものでした。かめはめ波魔貫光殺砲を使うときだけ戦闘力が急上昇するように描かれていたことから、元々地球では気は瞬間的に爆発させるものであって、普段から全開にして戦うということはなかったようです。

 そしてラディッツがこのことに驚いていたことから、サイヤ人フリーザ軍の人間は常時最大戦闘力を放出していると解釈できます。ただ、常にフルパワーでいるというのは身体的にきついと考えられ、おそらくは「戦闘モード」になると持っている気を全て開放するという戦い方をしていたのだと思います。その証拠に、ナッパもべジータも、戦う段階になって初めて気を集中させ、凄まじい戦闘力を発揮しています。

 

 つまり、地球とそれ以外の星の戦士たちでは、根本的に戦闘スタイルが異なっているのです。地球人は、大技を使うときしかフルパワーを出さず、それ以外の戦いでは基礎的なエネルギーしか使用していません。というかほとんど気を使わず、パンチやキックなどの格闘術だけで戦うという文化だったのだと思います。

 それに対し、他の宇宙人は、戦うときは持てる気を身にまとった状態で戦うのが当たり前だったようです。おそらく気の開放を身につけ、より高い戦闘力をまとって殴り合える者が強い者だったのでしょう。

 最大戦闘力を100としたとき、地球人は常に0~100の間で必要に応じて放出する気の量を変えられる(というか100使うことはまずない)のに対し、それ以外の宇宙人は10か100かしかモードがない、というイメージですね。

 

 明確に地球側のキャラが気を放出した状態で戦うようになったのは、ギニュー特戦隊と戦うときの悟飯・クリリンが初めてで、それまでは悟空も界王拳を使ったときしか「気の開放状態」にはなっていなかったように描かれていたと思います。悟飯とクリリンは最長老に潜在能力を引き出されて、自然と気の開放を行えるようになったのかもしれません。

 悟空は宇宙船内での修行で大きく実力を上げても、やはり気の開放状態にはならず、瞬間的に戦闘力を高めて一瞬で敵を倒す、という戦い方をしていました。これはフリーザ戦での10倍界王拳の使い方にも現れており、基本的に悟空は戦い方のスタイルは昔から変えていないようです。

 

 スタイルが変わったのは、超サイヤ人に変身できるようになってからですね。超サイヤ人は、常にオーラを発しており、フリーザ軍側同様常時戦闘力を発散している状態になっています。おそらくこれが「身体への負担が大きい」と老界王神に評された理由であり、精神と時の部屋で悟空と悟飯が克服しようとしたことでもあったのだと思います。

 簡単に言えば、フリーザ軍や超サイヤ人は常に「気の鎧」をまとった状態で戦うのに対し、地球人はこれをまとわず必要なときにだけ気を発する、という戦い方をするということですね。

 フリーザ軍側でも戦闘力のコントロールが可能なキャラとして、ギニューと1回目の変身のフリーザが明言されていました。ただこれは0~100のコントロールというよりは、10・50・100などの段階的なコントロールが可能だという意味なのかなと思います。最終形態のフリーザなんかも、50%や100%という表現をしていましたが、最初から凄まじい戦闘力であることが表現されていましたので、0にはできずデフォルトで数百万の戦闘力は常にまとっているのだと思います。

 

 超サイヤ人3までのバリエーション変身は、単純にまとう「気の鎧」の量を増すというものであると考えられます。べジータやトランクスが変身した第2、3段階の変身は、肉体を瞬間的に強化することでより大きな気に耐えられるようにしたもので、悟空と悟飯が身につけた第4段階の変身は、肉体に負荷をかけず自然に超サイヤ人でいられるほど身体を慣らしたことで、より強い「気の鎧」に耐えられるようになった状態と言えます。そこからさらにもう1段階強い「気の鎧」をまとえるようになったのが超サイヤ人2、生命力を無視するほどの凝縮された「気の鎧」を作り上げてまとうのが超サイヤ人3と言ったところでしょうか。

 「神の気」は気の質そのものがワンランク上になった状態で、それまでの普通の気をまとった状態では勝負にならないほどの差があると思われます。少なくとも「神と神」の説明ではそういうことなのだと思います。

 

 一方で、フリーザ超サイヤ人のレベルになると、本気で攻撃すれば星を一撃で破壊してしまうくらいの気の量になっていました。そのため全力を出して戦うことはあまりなく(セルとのかめはめ波合戦の時くらいでしょう)、いかに瞬間的に気を高め、相手の「気の鎧」の上からダメージを与えられるかの勝負になっていたと考えられます。

 例えば、完全体のセルは悟空たちを遥かに上回る戦闘力を持っていましたが、それでもファイナルフラッシュや瞬間移動かめはめ波を食らった際は肉体が吹き飛んでいました。つまり瞬間的なフルパワーを防げるほどには、その時点でのセルの「気の鎧」は強くなかったということになります。フルパワーで戦ってはすぐに星が壊れてしまうレベルの戦闘力であったが故に、瞬間的な気の爆発力で戦う次元になっていたというわけです。

 気がない人造人間は、気がないのではなく、人間の気とは違うエネルギーで動いているということだと思われ、それが神の気同様に感知できない理由であったと考えられます(エネルギーがなかったら、光弾を撃つこともできないですからね)。また気が見えないからこそ、どのくらいの気の量で攻撃したら倒せるかがわからず、それが戦いにくかった理由なのかなと思います。かといってずっとフルパワーで戦うとスタミナが先に切れてしまいますしね。18号と戦っていたべジータなんかはそんな感じで敗れたので、超サイヤ人とはそこまで実力は離れていなかったんじゃないかと思います。桁違いの戦闘力で殴られるとどうしようもなかったのか、パワーアップしたセルやトランクスには勝てませんでしたが、気が無尽蔵であることが気の総量の高さ以上に有利に働いていたと言えます。力の大会で17号が活躍できたのもその辺にあるのかもしれませんね。

 また魔人ブウはちょっと気の使い方が異なっていたのかなと思います。おそらく、その肉体が異常に衝撃に強いので、「気の鎧」をほとんどまとう必要がなく、それ故に登場時はそれほどでもない戦闘力であると思われたのでしょう。実際は、攻撃のときにのみ気を発するので、いきなり莫大な破壊力の攻撃を行うことが可能でした。ブウ本人の気の量ではなく、その肉体の耐久力を超える気を使わなければ倒せないため、融合や元気玉でなければ対処できなかったのでしょう。

 

 つまり、超サイヤ人登場以降は、いかに強大な「気の鎧」を身につけ、一瞬の攻撃でその「気の鎧」を破るダメージを与えるかの勝負になっていたということになります。

 人造人間が強かったのは「人工の気の鎧」を身につけていたからで、セルが強かったのはより強大な「気の鎧」をまとっていたからに過ぎません。もしかしたら17号・18号の永久エネルギー炉を吸収しているからこその力だったのかもしれませんね。

 魔人ブウは「気の鎧」の概念の外にある物質で出来ているために、これまでの戦い方が通用せず、気を攻撃力に全振りできるが故に苦戦した、ということなのかなと思います。「ブウ同士ならダメージを受ける」なんて描写もありましたが、ブウの気はブウの肉体にダメージを与えることができる性質のものだったのかもしれません。

 「神と神」以降は、「神の気」にダメージを与えられるレベルの気をコントロールすることが必要とされるようになったのかなと思います。「身勝手の極意」は、決して気の量が増えたり性質が変わったりするものではなく、考えるより早く身体が動く状態になることで、相手が攻撃や防御をするよりも速く、より高い気の力で攻撃や防御を行えるという状態なのでしょう。相手からすると「スピードが速すぎて防御が間に合わない」「反応が早すぎて攻撃が当たらない」という状態かなと思います。神の気も常にまとっているものではなく、必要なときだけ発するものであって、超サイヤ人ブルーのようにオーラを常にまとっている状態は、その性質が神の気であっても本来の神の戦い方ではないのだと思います。またゴールデンフリーザやヒット、ジレンのように超サイヤ人ブルー以上の戦闘力を持っていたキャラは、神の気に匹敵するレベルの「気の鎧」をまとうことができ、根本的にサイヤ人よりも優れた存在だったのだろうと思います(サイヤ人が「神」にならなければ到達できないレベルに、神にならなくても到達できるという意味)。

 

 こうなると、やはり何故人造人間が超サイヤ人に匹敵するレベルの人工の気の鎧をまとえていたのかが気になるところですね。人工エネルギーの研究をしていたら、あまりにも高すぎるエネルギーの生成に成功してしまったということなのでしょうか。実はドクター・ゲロはアンドロイドよりもエネルギー工学の天才だったのかもしれませんね。