どらごんぼーる考察

がんだまぁBlogからドラゴンボール記事を移植しました。以後ドラゴンボール考察はここで展開します。

「神と神」以降の世界観が示したセル編・ブウ編の「デフレ」

 「神と神」以降登場した「神の領域」により、ブウ編までの強さはカスみたいなものだったというレベルのインフレが発生しましたが、「力の大会編」では神の領域の強さが曖昧となり、戦闘力の高さの基準が良く分からなくなってしまった部分があります。

 ドラゴンボールはジャンプ漫画の例に漏れず、パワーインフレの歴史を重ねてきました。特に超サイヤ人が登場した後は、敵と味方が交互に少しずつ強くなっていくインフレゲームに突入していたイメージがあります。その中でどんどん強くなっていったキャラクターたちが、手も足も出ないビルスゴールデンフリーザという新たな敵と、ある程度戦えてしまう17号や他の宇宙の戦士たちは一体何なんだという感想を、ずっとドラゴンボールを見てきた人ほど思ってしまうと思います。

 

 ただ、よくよく考えると、そもそも人造人間・セル編からブウ編までの間、実はそんなにパワーインフレは起きていなかったんじゃないか、と思い始めました。実はこれらのシリーズの間、そんなに戦闘力の上昇は起きていなくて、一つコツをつかめば壁を越えられる程度の領域でしかなかったんじゃないか、ということです。

 

 というのも、例えば人造人間なんかは、実は超サイヤ人とそこまで実力は離れていなかったんじゃないかと思います。以前の考察でも述べましたが、人造人間の強みは吸収や永久エネルギー炉によってそれまでの戦い方をさせない点にありました。吸収タイプの人造人間には気功波の類が通用せず、物理攻撃でしかダメージを与えられませんし、永久タイプの人造人間はスタミナが無限であるため、瞬間的に大きな力で攻撃しないとジリ貧になってしまいます。ベジータ対18号の戦いなどはその典型で、最初はいい戦いが出来ていたものの、決定打を与えられないままエネルギーを消耗した結果、普通にダメージを受けて倒されてしまっています。それは裏を返せば、消耗さえしなければ勝ち目はあったということになります。

 通常、普通の気を持つ人間同士が互角の戦いをすれば、同じペースで消耗していき、戦いの終盤にはどちらもかなり大きく気を落としていることになります。例えば悟空とベジータが戦った際、悟空は界王拳で大きく消耗し、ベジータは大猿化のためのパワーボール生成にかなりエネルギーを使っていました。ダメージの大きさもあり、終盤は怒り状態になっているとはいえナッパにさえダメージを与えられなかった悟飯と互角レベルの戦闘力しか残っていませんでした。フリーザと悟空の戦いも、悟空は痛めつけられた上20倍界王拳を使った後の超サイヤ人化だった悟空と、元気玉で大ダメージを受けたフリーザの戦いであったため、なかなか決着がつきませんでした。悟空の体力が満タンであったなら、トランクスがやったようにフリーザは瞬殺できたはずです。

 それに対し人造人間は、同じように勝負しても全く戦闘力が落ちないため、段々消耗していく超サイヤ人では分が悪かったのだろうと思います(万全の状態の超サイヤ人と互角の勝負が出来るだけ十分凄いのですが)。それに対し、ベジータ精神と時の部屋で出した結論は、瞬間的により大きな気を出すために肉体を強靭化することでした。気の絶対量が増えたというよりは、「身体が耐えられないほどの全力を出しても耐えられるように肉体を一時的に強化する」という変身であり、それはかつてのフリーザのように、超サイヤ人自体が本当はもっと大きな戦闘力を持っていたということなのだろうと思います。そしてこの形態になれば、人造人間も、それを吸収したセルも相手にならないパワーを発揮することが出来ました。

 それを上回る完全体セルも、更なるパワー重視の変身をしたトランクスの戦闘力が自分より高いことを明言していました。つまり、単純な戦闘力の差であれば、超サイヤ人が全力を出した状態ではセルより上だったということになります。だからファイナルフラッシュや瞬間移動かめはめ波が直撃すれば半身が吹き飛ぶくらいにはダメージを受けてしまうわけです。

 

 では何故完全体のセルは超サイヤ人たちを圧倒することができたのか。セルは単純に超サイヤ人よりも優れた肉体を持っていたので、より超サイヤ人クラスの戦闘力をコントロールすることができたからなのではないかと思います。セルは超サイヤ人に近い特性を持っており、アニメではオーラが金色に同じ効果音でしたし、トランクスと同じパワー重視の変身も可能でした。自爆からの再生後は超サイヤ人2と同じスパークも発生していましたし、本質的には超サイヤ人と同質の力を持っていたと思われます。それを筋肉を増幅させたベジータやトランクスよりも、体を慣らした悟空や悟飯よりもコントロールできる肉体(と、17・18号のエネルギー炉?)を持っていたことから、彼らに負けることはなかったのだと思います。ある意味では旧劇場版のブロリーも同じようなものだと言えそうです。

 つまり超サイヤ人の領域に達した戦いでは、単純な戦闘力は超サイヤ人が独力で発揮できる限界パワーが最大であって、それをどこまで瞬間的にコントロールできるかどうかの勝負であったと言うことができます。もし超サイヤ人の戦闘力を1億5000万とするのであれば、おそらくそこから最大の戦闘力の数値はほとんど変わっていなかったのではないかと思います。1億5000万の戦闘力をどうやってコントロールして相手にぶつけるかの勝負に変わっていたと言うことです。

 この壁を一つ越えたのが、超サイヤ人2という形態でしょう。悟飯は肉体的に大きく変化したわけではないにも関わらず、これまでとは圧倒的に異なるレベルの力を発揮していました。再生前のセルがフルパワーで放ったかめはめ波も易々打ち返していることから、単純に気の絶対量、戦闘力で超サイヤ人レベルを上回っていたことがわかります。つまり根本的に1段階上のレベルに達したと言えます。

 この超サイヤ人2は、混血で凄まじい力を秘めた悟飯だからこそなれた形態だと当初は思われていましたが、その後悟空もベジータも修行で変身可能となったことから、鍛えればこの領域に達することは可能であったと考えられます。理屈はわかりませんが、セルが自爆からの再生で(サイヤ人の特性のおかげで)この領域に達したということを考えると、修練を積めば変身可能なもので、悟飯だけは元々秘めた力が大きいが故に大した修行もなくそれだけの変身ができたというところでしょうか。

 

 ブウ編に関しては、この超サイヤ人2の領域の戦いだったと言えます。ダーブラもそうでしたし、最初に登場した魔人ブウも、ベジータは一方的にボコボコにし気で体を貫くことも可能でした。ただ、ブウは物理攻撃で一切ダメージを受けない仕様である上、破片が少しでも残っていれば無限に再生可能で体力も減らないというチートすぎる肉体を持っていたので、そもそも「倒すことができない」存在でした。防御に気を使う必要がないため攻撃に気を全振りできることから、威力の高い技を一瞬で繰り出すことができ(セルの全力かめはめ波クラスを乱発できるというイメージ)、相手をお菓子にしたり回復させたりといった魔術的な能力も持っていることが、強さの理由です。そしてその肉体は、超サイヤ人2のベジータが命を燃やし尽くしても消しきれないほどのものであるため、耐久力は超サイヤ人2の全力以上であったと思われます(ベジータは地球を消さないように自爆したと思うので、地球ごと自爆してたらどうなっていたかはわかりませんが)。

 ブウを完全に消すために必要だったのが、「超サイヤ人3クラスの気」でした。悟空はそれが可能であったということから、超サイヤ人3の全力であればブウを消滅することが可能だったと言えます。もちろん、その超サイヤ人3のゴテンクスやそれ以上の力を得た悟飯を吸収したブウには、ベジットでなければ対抗できなかったのは言うまでもありません。

 超サイヤ人3の原理も名言はされていませんが、「エネルギーの消耗が激しい」「時間制限がある」「時間という概念がある現世では原則として変身してはいけないもの」というキーワードから、超サイヤ人2が持っているエネルギーを期間限定で凝縮・増幅させたものということなのかなと思います。それくらいの力を出せば、ブウを消滅させることができたということですが、本質的には超サイヤ人2+界王拳のようなものなんじゃないかと個人的には考えています。

 

 つまり、フリーザを倒したあとのドラゴンボールの物語において、合体・吸収を除けば超サイヤ人超サイヤ人2→超サイヤ人3の3段階しか戦闘力の増幅は起きていなかったんじゃないかと思います。セルは超サイヤ人超サイヤ人2の間、ブウは2と3の間くらいの戦闘力を持っていて、戦闘力以外の特殊能力を含めて悟空たちを苦しめていたイメージです。

 これはあくまで「超サイヤ人」が持っている気をいかに増幅させ、それを肉体でコントロールするかの過程のものであって、「技」の習得に近く、そのキャラ本人の力を鍛えるという意味でのレベルアップはあまり起きていなかったんじゃないかと思います。フリーザ編ではサイヤ人が瀕死と回復を繰り返して「本人自身が」何回も強くなっていきましたが、セル編以降はそのパワーアップは超サイヤ人1→2→3の2回しか起きていないということです。

 それに対し、老界王神の力でパワーアップした悟飯は、超サイヤ人にならずとも超サイヤ人3以上の戦闘力を発揮していました。これこそ、本当の意味での「レベルアップ」であり、超サイヤ人に頼らなくてもなれる素の最高レベルに達した状態であったのかなと思います。そしてその更に上がビルスら神の領域であり、それはフリーザがちょっと修行すれば簡単に達することができる領域でもあったのでしょう。だから他の宇宙でも才能ある者が修練を積めばそのレベルになることは可能なわけです。

 

 超サイヤ人ゴッド以降のパワーアップについては、映画「ブロリー」でもう少し整理されると思うので、それを待って考察してみたいと思います。

「悟空とベジータの共闘」という特殊なシチュエーションについて

ドラゴンボール超」では割と悟空とベジータが一緒に敵と戦う、というシチュエーションが発生していました。未来でのザマス戦でもそうですし、ジレン戦でもそうでした。しかし、悟空とベジータが「共通の敵と一緒に戦う」ということを行ったことは、原作では一度もありません。

 

そもそも原作では、複数のキャラが敵と一緒に戦う、というシチュエーション自体がほとんど起きたことがありません。悟空が絡んだ戦いとなると、ラディッツ戦での悟空とピッコロくらいだと思います。悟空以外のキャラの場合、ナッパ戦やリクーム戦、フリーザ戦などでピッコロや悟飯たちが連携して戦ったことはあります。

週刊連載漫画だったので、1人ずつ戦った方が尺も稼げるし盛り上げやすいという側面もあるのかなとは思いますが、特に悟空とベジータに関しては、一緒に戦える場面でもあえて1対1で戦う傾向があり(純粋ブウ戦や復活のFなど)、戦闘民族サイヤ人が1対1のバトルを好むということが強調されている側面があります。

そのため、原作目線では、悟空とベジータが「一緒に2対1で戦う」ということは「あり得ない」と言い切ることができます。「スラムダンク」で桜木と流川がパス交換するよりあり得ません。なので、「超」での描写には少し違和感がありました。

 

おそらく、悟空とベジータが共闘した初めての作品が、劇場版の「激突!100億パワーの戦士たち」だったかと思います。「勘違いするな~貴様を倒すのはこの俺だ」のくだりや、「俺に指図するな!」といって一緒に攻撃するシチュエーションなどは、この作品が原点です(ドラゴンボールにおいては)。

その後の劇場版でも、悟空とベジータが一緒に攻撃を仕掛けたシーンはなかったと思います(それぞれ別々に戦ってやられること多し)。強いて言うならジャネンバ戦ですが、早々に2人で戦うことはあきらめてフュージョンを試みてますし、基本的には「100億パワーの戦士たち」限定のシチュエーションだったと言えます。

アニメでは、ブウの体内でのオリジナルエピソードで、すぐデブブウを引き剥がさず2対1でブウと戦う話があり、2人で合体攻撃するような演出さえありましたが、これもそれが唯一だったかなと思います。

 

「超」では、1対1では勝てない相手において悟空とベジータが一緒に戦うという状況になりました(最後はフリーザとさえ一緒に戦いましたが、あれはまぁ最後の最後なのでOKです)。しかし鳥山明氏であれば、おそらく1対1で戦う事にこだわり、「手出しはするなよカカロット」的な演出になっていたと思います。バトルロイヤルの乱戦の中でやむなくという感じではなく、最後に残ったわずかな敵に対してもそうなってしまうと、ちょっと違うかなと思いますね。

そういう意味で、悟空とベジータの関係に関しては、もう少し気を使って欲しかったような気がします。まぁ「超」に関しては特に悟空の性格があまりにも原作と違いすぎる部分が多かったので、シナリオ書く人はもう少し頑張って欲しかったところです。

 

そもそも今となっては、「一緒に戦うよりフュージョンポタラで合体した方が強い」という設定が生まれてしまっているので、1対複数のバトル自体あまりやらない方がいいんじゃないかなと思いますね。

とか言ってこれで今度のブロリー映画で共闘させまくりだったらどうしよう(笑)

クリリンというキャラクターの位置づけの変遷

クリリンと言えば、ドラゴンボールにおける名脇役の1人として有名ですが、その立ち位置は割とシリーズごとに変化しています。その変化を追いつつ、クリリンというキャラクターについて少し掘り下げてみようと思います。

 

 

(1)少年時代:主人公の同門、ナンバー2キャラ

 クリリンは悟空と共に亀仙人の下で修行した、兄弟弟子というキャラでした。悟空にはないずる賢さを持つ反面、実力では常に悟空に一歩遅れるというポジションです。ただジャッキー・チュンや後のマジュニアを慌てさせる場面があるなど、ラスボス格のキャラに一矢報いるだけの実力は常に持っていました。

 悟空にとっては唯一同じ目線でしゃべれる親友(ブルマやヤムチャら、他のメインキャラは基本的に年上)であり、それ故に突然タンバリンに殺された時の衝撃は大きいものがありました。ピッコロ大魔王編がそれまでと大きく異なるシリアスさを演出できたのも、このクリリンの衝撃的過ぎる死にありました。

 

(2)サイヤ人編:実力が足りないなりの名サポート

 サイヤ人との戦いでは、他の戦士たちが次々と死んでいく中、悟空・悟飯親子以外で唯一生き残り、最後には元気玉べジータに当てて撤退に追いやる活躍を見せました。

 クリリンがここまで活躍できたのは、天津飯との戦い方との違いが物語っています。おそらくこの時点では、戦闘力上は天津飯の方が上だったと思います。それまでの経歴から、天津飯を上回るような修行をクリリンはしていないからです。

 しかし、天津飯はナッパの攻撃を真正面から受け止めてしまい、片腕を失い一気に致命傷を負ってしまう事になります。クリリンだったら、絶対逃げていた場面です。天津飯はなまじ自分の実力に自身があるが故に、そしてナッパの戦闘力を見誤ったが故に、受け止めてはいけない攻撃を受け止めようとしてしまった。その結果大ダメージを受けてしまい、死を早める事になってしまいました。

 それに対し、クリリンは相手の方が上であるということを認めた上で、虚を突く戦い方を繰り返し生き残っています。ガンダムで言う「こういう時、臆病なくらいがちょうどいいのよね」という奴です。ナッパ戦ではピッコロのサポートに徹し撹乱役を担い、べジータ戦でも尻尾の切断等要所のみ前面に出ています。

 しかも、クリリンには気のコントロールに優れるという長所が描かれるようになりました。拡散エネルギー弾や気円斬と言った気の性質を変化させる技を使いこなし、元気玉のコントロールも行って見せています。

 悟空やピッコロ、天津飯べジータと言った血気盛んな戦士とは違う一面を持っていることが、名脇役としての位置づけを確立させたとも言えます。

 

(3)フリーザ編:悟飯の良き兄貴分

 フリーザ編では、クリリンはさらに新しい一面を覗かせます。それが、親友・悟空の息子である悟飯と一緒に行動するという展開で現れます。ここでもクリリンは悟飯の方が実力は上であるということを認めつつ、悟飯に足りない経験や状況判断の部分をフォローし、より戦闘力の高い敵と遭遇しても逃げ切れるだけの立ち回りを見せました。作中でのコマ数という意味では、悟飯にとってピッコロや悟空よりも一緒にいる時間が長かった印象があり、父親や師匠としてではなく等身大の兄貴分として悟飯と接する姿が記憶に残りやすい物語であったと思います。だからこそ、フリーザ(第1変身)にやられた時、悟飯はピッコロがやられた時と同じくらい怒っていたんだろうなと思います。

 

(4)人造人間編:仙豆キープ係

 人造人間編では、早々に心臓病で退場してしまう悟空との絡みが少なく、ナメック星では親密だった悟飯との競演も少ないクリリンでしたが、ヤジロベーから渡された仙豆の所持役として、ヤムチャ・悟空・べジータ・ピッコロらを回復させる姿が多く見られました。血気盛んなキャラクターの中で「勝てない戦いはしないで逃げる」ことが出来る貴重なキャラだからこそ、自然にこの役が回ってきたのかなぁと思います。実際、17号・18号との戦いでも唯一戦闘に参加しなかった(できなかった)わけですからね。

 その後は18号とのロマンスが多少ありますが、ゲロの研究所や完全体セル戦などでトランクスに対しても兄貴役をしていたのも印象的ですね。実力では大きく置いていかれていても、リスペクトされる性格がそういうキャラにさせているとも言えます。

 

(5)ブウ編:そして戦力外へ

 ブウ編では髪を生やしたことで、もう一線を退いたということが明確化されます。一応バビディの宇宙船までは同行しましたが、事情が分かったところで撤退する気満々でした。その後も戦闘を行うことはなく、一般人ポジションのままでしたね。

 

(6)復活のF:まさかの戦線復帰

 フリーザの襲来に、頭を剃って戦線復帰しました。悟空とべジータが不在、悟天とトランクスは戦わせないという縛りでは、さすがにフリーザ一味と戦える戦力が少なく、戦線復帰せざるを得ない状況だったのかなと思います。実際、悟飯とピッコロと天津飯くらいしかあとは戦力がいませんからね。そりゃ亀仙人も出てくるというものです。

 しかし、もう一度ドラゴンボールの物語をちゃんと始めるのであれば、クリリンは欠かせないという判断だったのかなとも思います。その割に、宇宙サバイバル編では最初にやられてしまいましたが、あれは鳥山明氏の指定だったんですかねぇ…。

 

 

 というわけで、これらを総合すると、クリリンというキャラクターは、ドラゴンボールの物語において「勝てない相手とは正面からぶつからない」という戦い方をする事に希少性があると言えます。だからこそ悟空や悟飯のサポート役が務まり、他のキャラが一線から退いても活躍できる場があるのかなと。単に悟空の親友キャラというわけではないんですよね。

 メインキャラの中でも、クリリンの信頼は高い方だと思います。ナメック星に悟飯とブルマと3人だけで行くというのも、割とクリリンがいないと成り立たないトリオだと思いますね。ブルマにとってクリリンが男性とみなされていないのも重要なポイントです(笑)。

 悟空との絡みは、フリーザに殺されて以降あまりありませんが、そもそも悟空・悟飯・ピッコロ・クリリンあたりの絡み自体がかなり少なかった印象です。割と人造人間~セル編はべジータ・トランクス親子中心に回ってたのかなと思います。

 

 ちなみにコミュ力が高いのも密かな長所で、自分を殺した一味の親玉であるピッコロとは初の共闘ですぐに連携を取ったり(むしろ死んでたからこそピッコロ大魔王の恐ろしさを知らないのがプラスなのかもしれない)、フリーザ戦でもべジータと連携攻撃をしようとしたり、デンデに回復してもらうために半殺しにする役割を与えられるなど、悟空のかつての強敵と自然とコミュニケーションを取れる特異な能力を持っています。勝負に対するこだわりが少ない分、悟空よりも敵味方の概念が希薄なんじゃないかとさえ思いますね。敵キャラに対する敵対的な態度は「敵だから」というよりも「(殺されるかもしれないから)恐ろしいから」という感じですし。

 そういう意味で、ドラゴンボールに登場する戦闘要員の中でもかなり異質なキャラクターだと思います。そこが魅力なんでしょうね。

人造人間・セル編の本当の悪役は誰か

 たまたまドラゴンボール改CS放送で見ていて思ったのですが、やっぱり人造人間ってあんまり悪役っぽくないんですよね。

 例えば17号・18号は、誰も殺してないんですよ。悟空を殺すという造られた目的を果たすために行動してはいるものの、その過程で車を奪ったり服を奪ったりする中で一般人を傷つけてはいないんです。戦いを挑んできたベジータ達も殺してはいません。というか、17号と18号はベジータ達と戦う必然が全くないので、ただ因縁つけられたので返り討ちにしただけとさえ見えます(苦笑)。それをより強調しているのが16号ですね。悟空を殺すという使命は覚えているものの、それ以外については非常に温和です。

 また、セルについても、力を上げるために何人もの一般人を吸収してはいるものの、その目的は完全体になるという一点だけであり、単にそのために手段を選ばないだけという描かれ方をしています。だから、ピッコロもベジータもトランクスも殺していませんし、16号も完全破壊はしませんでした。最終的には踏みつぶして破壊しましたが、これも悟飯を怒らせるための一環でしょう。自爆からの再生後にトランクスを殺しましたが、これは流れ弾のようなもので特に狙ってやったわけではないような言い方をしていました。

 

 では、19号・20号についてはどうでしょうか。19号は20号の命令を聞くだけのマシーンでしかありませんでした。20号=ドクター・ゲロも、単に悟空を殺すためだけに人造人間を作っただけですし、自身を人造人間化したのは単に永遠の命を得るため、セルを作った目的も悟空の殺害ではなく単に究極の生物を作りたかっただけであるようです。マッドサイエンティストではあっても、ピッコロ大魔王やフリーザのような「戦わないと、地球人類が絶滅してしまう」レベルの極悪人とは少し趣が違うと言えます。

 

 そもそも、人造人間編の悟空たちの目的は何だったのでしょうか。それは、「滅びの未来を回避すること」でした。トランクスの未来のような悲劇が起きないようにするために、人造人間に先制攻撃を加え、戦って倒すことが目的でした。しかし、実は16号~20号までの人造人間も、セルさえも、トランクスの未来のような凄惨な世界を造る気はあまりなかったようなのです。

 起きたことだけを羅列します。

 

・悟空たちがトランクスに言われた人造人間の出現ポイントに移動。戦いを挑み19号を破壊、20号は逃走

・新たに現れた17号・18号にベジータ達が戦いを挑むも、敗れる。

・神様がセルの存在に気づき、ピッコロと融合。戦いを挑むも逃げられる。

・17号たちがカメハウスにたどり着いてしまったためピッコロが迎撃。そこにセルが現れて17号を吸収する。

・修業したベジータがセルを圧倒するも、好奇心から完全体になることを許した結果、逆転されトランクス共々敗れる。

・セルがセルゲームを開催。悟飯の秘められた力を知ったセルがそれを引き出させようと16号を破壊。覚醒した悟飯に倒される。

 

 こうしてみると、「誰も悪いことをしようとしていない」んですね。むしろ悪いことをする前に倒そうとして失敗を重ね、最終的に完全体になったセルが悟飯を怒らせて返り討ちに遭うというだけの話になってしまっています。

 そもそも最初に現れた19号・20号は何をしようとしていたのでしょうか。実はそこから不明のままなんです。悟空を殺すためだとしたら行動を起こす場所が無関係すぎますし、そもそも16号にインプットされていたくらいだからドクター・ゲロは悟空の家も知っていたはずです。セルのように一般人の気を吸収してパワーアップしようとしていたのかもしれませんが、ヤジロベーのエアカーを破壊したのは単なる無差別破壊のように見えました。「最初は未来の人造人間のように破壊活動を行う予定で描いていた」ということなのだと思いますが、本来の19号・20号の目的が何であったかは別として、悟空たちが19号・20号は「未来の人造人間と同じように行動するだろう」という予測に基づいて行動していたことは確かです。

 

 そう、すべての元凶は「未来の17号・18号がとんでもないワルだったこと」なんです。100%悪役と言えたのは、実はこの未来の人造人間だけなんですよ。こいつらだけは何の擁護すべき点もなく、トランクスに瞬殺されても惜しくない存在でした。こいつらがとんでもない悪であったせいで、原作世界の悟空たちは人造人間全てを悪と決めつけ、倒そうとしてしまったんです。

 つまり人造人間・セル編での悪役というのは、本当に「未来の人造人間」だけなんです。だから、これらをトランクスが倒して終わるわけですね。これらがいなければ、悟空たちは17号・18号と和解できたかもしれませんし、セルともいい好敵手になれたかもしれないんです。

 逆に言えば、ちゃんと人造人間編を「悪役を倒して終わる」話にするためには、何故未来の人造人間が悪い奴だったのかを明らかにし、同じ原因で悪に染まる存在を現代にも発生させるような演出が必要だったのかなと思います。以前考察で未来の17号・18号と魔人ブウの類似性を指摘しましたが、ブウの場合はそもそも存在そのものが悪だったということになりました。17号と18号の場合は、悟空を殺すという目的がすでに消失していたために暴走してしまったのではないかという推測を行いましたが、同じように「目的を消失してしまったことで暴走」したのであれば、例えばセルが完全体になることに失敗し、そのせいで暴走してしまい逆に手が付けられなくなってしまったという展開もありだったのかもしれませんね。ある意味自爆しようとしたセルがそれだったわけですが、それを単に悟空を死なせるための演出だけにせず、本当に倒さなければならない理由にしたら、もう少しすっきりした物語になったのかもしれません。

 

戦闘力をコントロールして戦うということ

 サイヤ人編~フリーザ編において、地球人は戦闘力をコントロールできる特殊な民族であるという説明がされていました。これに対し、フリーザ軍関係者はコントロールが出来ないので、スカウターで大体の戦闘力がわかる、という描写がされていたわけですが、実際には敵側もある程度戦闘力をコントロールしていたように見えます。

 地球側の人間が行う「戦闘力のコントロール」と、それ以外の宇宙人が行う戦い方にはどう違いがあるのかを、少し考えてみました。

 

 まず、地球側のキャラクターにおいて、当初「気の放出」は必殺技を使うときだけに行うものでした。かめはめ波魔貫光殺砲を使うときだけ戦闘力が急上昇するように描かれていたことから、元々地球では気は瞬間的に爆発させるものであって、普段から全開にして戦うということはなかったようです。

 そしてラディッツがこのことに驚いていたことから、サイヤ人フリーザ軍の人間は常時最大戦闘力を放出していると解釈できます。ただ、常にフルパワーでいるというのは身体的にきついと考えられ、おそらくは「戦闘モード」になると持っている気を全て開放するという戦い方をしていたのだと思います。その証拠に、ナッパもべジータも、戦う段階になって初めて気を集中させ、凄まじい戦闘力を発揮しています。

 

 つまり、地球とそれ以外の星の戦士たちでは、根本的に戦闘スタイルが異なっているのです。地球人は、大技を使うときしかフルパワーを出さず、それ以外の戦いでは基礎的なエネルギーしか使用していません。というかほとんど気を使わず、パンチやキックなどの格闘術だけで戦うという文化だったのだと思います。

 それに対し、他の宇宙人は、戦うときは持てる気を身にまとった状態で戦うのが当たり前だったようです。おそらく気の開放を身につけ、より高い戦闘力をまとって殴り合える者が強い者だったのでしょう。

 最大戦闘力を100としたとき、地球人は常に0~100の間で必要に応じて放出する気の量を変えられる(というか100使うことはまずない)のに対し、それ以外の宇宙人は10か100かしかモードがない、というイメージですね。

 

 明確に地球側のキャラが気を放出した状態で戦うようになったのは、ギニュー特戦隊と戦うときの悟飯・クリリンが初めてで、それまでは悟空も界王拳を使ったときしか「気の開放状態」にはなっていなかったように描かれていたと思います。悟飯とクリリンは最長老に潜在能力を引き出されて、自然と気の開放を行えるようになったのかもしれません。

 悟空は宇宙船内での修行で大きく実力を上げても、やはり気の開放状態にはならず、瞬間的に戦闘力を高めて一瞬で敵を倒す、という戦い方をしていました。これはフリーザ戦での10倍界王拳の使い方にも現れており、基本的に悟空は戦い方のスタイルは昔から変えていないようです。

 

 スタイルが変わったのは、超サイヤ人に変身できるようになってからですね。超サイヤ人は、常にオーラを発しており、フリーザ軍側同様常時戦闘力を発散している状態になっています。おそらくこれが「身体への負担が大きい」と老界王神に評された理由であり、精神と時の部屋で悟空と悟飯が克服しようとしたことでもあったのだと思います。

 簡単に言えば、フリーザ軍や超サイヤ人は常に「気の鎧」をまとった状態で戦うのに対し、地球人はこれをまとわず必要なときにだけ気を発する、という戦い方をするということですね。

 フリーザ軍側でも戦闘力のコントロールが可能なキャラとして、ギニューと1回目の変身のフリーザが明言されていました。ただこれは0~100のコントロールというよりは、10・50・100などの段階的なコントロールが可能だという意味なのかなと思います。最終形態のフリーザなんかも、50%や100%という表現をしていましたが、最初から凄まじい戦闘力であることが表現されていましたので、0にはできずデフォルトで数百万の戦闘力は常にまとっているのだと思います。

 

 超サイヤ人3までのバリエーション変身は、単純にまとう「気の鎧」の量を増すというものであると考えられます。べジータやトランクスが変身した第2、3段階の変身は、肉体を瞬間的に強化することでより大きな気に耐えられるようにしたもので、悟空と悟飯が身につけた第4段階の変身は、肉体に負荷をかけず自然に超サイヤ人でいられるほど身体を慣らしたことで、より強い「気の鎧」に耐えられるようになった状態と言えます。そこからさらにもう1段階強い「気の鎧」をまとえるようになったのが超サイヤ人2、生命力を無視するほどの凝縮された「気の鎧」を作り上げてまとうのが超サイヤ人3と言ったところでしょうか。

 「神の気」は気の質そのものがワンランク上になった状態で、それまでの普通の気をまとった状態では勝負にならないほどの差があると思われます。少なくとも「神と神」の説明ではそういうことなのだと思います。

 

 一方で、フリーザ超サイヤ人のレベルになると、本気で攻撃すれば星を一撃で破壊してしまうくらいの気の量になっていました。そのため全力を出して戦うことはあまりなく(セルとのかめはめ波合戦の時くらいでしょう)、いかに瞬間的に気を高め、相手の「気の鎧」の上からダメージを与えられるかの勝負になっていたと考えられます。

 例えば、完全体のセルは悟空たちを遥かに上回る戦闘力を持っていましたが、それでもファイナルフラッシュや瞬間移動かめはめ波を食らった際は肉体が吹き飛んでいました。つまり瞬間的なフルパワーを防げるほどには、その時点でのセルの「気の鎧」は強くなかったということになります。フルパワーで戦ってはすぐに星が壊れてしまうレベルの戦闘力であったが故に、瞬間的な気の爆発力で戦う次元になっていたというわけです。

 気がない人造人間は、気がないのではなく、人間の気とは違うエネルギーで動いているということだと思われ、それが神の気同様に感知できない理由であったと考えられます(エネルギーがなかったら、光弾を撃つこともできないですからね)。また気が見えないからこそ、どのくらいの気の量で攻撃したら倒せるかがわからず、それが戦いにくかった理由なのかなと思います。かといってずっとフルパワーで戦うとスタミナが先に切れてしまいますしね。18号と戦っていたべジータなんかはそんな感じで敗れたので、超サイヤ人とはそこまで実力は離れていなかったんじゃないかと思います。桁違いの戦闘力で殴られるとどうしようもなかったのか、パワーアップしたセルやトランクスには勝てませんでしたが、気が無尽蔵であることが気の総量の高さ以上に有利に働いていたと言えます。力の大会で17号が活躍できたのもその辺にあるのかもしれませんね。

 また魔人ブウはちょっと気の使い方が異なっていたのかなと思います。おそらく、その肉体が異常に衝撃に強いので、「気の鎧」をほとんどまとう必要がなく、それ故に登場時はそれほどでもない戦闘力であると思われたのでしょう。実際は、攻撃のときにのみ気を発するので、いきなり莫大な破壊力の攻撃を行うことが可能でした。ブウ本人の気の量ではなく、その肉体の耐久力を超える気を使わなければ倒せないため、融合や元気玉でなければ対処できなかったのでしょう。

 

 つまり、超サイヤ人登場以降は、いかに強大な「気の鎧」を身につけ、一瞬の攻撃でその「気の鎧」を破るダメージを与えるかの勝負になっていたということになります。

 人造人間が強かったのは「人工の気の鎧」を身につけていたからで、セルが強かったのはより強大な「気の鎧」をまとっていたからに過ぎません。もしかしたら17号・18号の永久エネルギー炉を吸収しているからこその力だったのかもしれませんね。

 魔人ブウは「気の鎧」の概念の外にある物質で出来ているために、これまでの戦い方が通用せず、気を攻撃力に全振りできるが故に苦戦した、ということなのかなと思います。「ブウ同士ならダメージを受ける」なんて描写もありましたが、ブウの気はブウの肉体にダメージを与えることができる性質のものだったのかもしれません。

 「神と神」以降は、「神の気」にダメージを与えられるレベルの気をコントロールすることが必要とされるようになったのかなと思います。「身勝手の極意」は、決して気の量が増えたり性質が変わったりするものではなく、考えるより早く身体が動く状態になることで、相手が攻撃や防御をするよりも速く、より高い気の力で攻撃や防御を行えるという状態なのでしょう。相手からすると「スピードが速すぎて防御が間に合わない」「反応が早すぎて攻撃が当たらない」という状態かなと思います。神の気も常にまとっているものではなく、必要なときだけ発するものであって、超サイヤ人ブルーのようにオーラを常にまとっている状態は、その性質が神の気であっても本来の神の戦い方ではないのだと思います。またゴールデンフリーザやヒット、ジレンのように超サイヤ人ブルー以上の戦闘力を持っていたキャラは、神の気に匹敵するレベルの「気の鎧」をまとうことができ、根本的にサイヤ人よりも優れた存在だったのだろうと思います(サイヤ人が「神」にならなければ到達できないレベルに、神にならなくても到達できるという意味)。

 

 こうなると、やはり何故人造人間が超サイヤ人に匹敵するレベルの人工の気の鎧をまとえていたのかが気になるところですね。人工エネルギーの研究をしていたら、あまりにも高すぎるエネルギーの生成に成功してしまったということなのでしょうか。実はドクター・ゲロはアンドロイドよりもエネルギー工学の天才だったのかもしれませんね。

 

 

 

ドラゴンボール超 宇宙サバイバル編 反省会

 ドラゴンボール超の宇宙サバイバル編が完結しました。

このシリーズは、開催前の戦いや前日談の時点で敵味方の強さが曖昧で、その時の演出でいくらでも強くなったり弱くなったりするので、そこに強い抵抗感を持っていたのですが、最後の纏め方はしっかりしていて、個人的には未来トランクス編よりずっと納得がいくシリーズでした。

 

というのも、ブルーより強いジレンに身勝手の極意・兆でも勝てず、極めることで圧倒するも、悟空の身体がそれに耐えられず止めを刺す前に逆転というところで、生き残っていたフリーザと悟空が2人がかりでジレンを落とし、17号が残っていたので第7宇宙の勝利、という流れはとても分かりやすかったからです。

それに最後の最後で悟空とフリーザが共闘するという演出も、作画も含めて見事でした。フリーザが最後に使った技がかつて悟空のかめはめ波を破った突撃というのも良かったと思います。

ラスト2、3話の構成はおそらく最初から練られていたのかもしれませんが、良く出来ていたと思いますね。それに至る話では、色々と困ったことがありましたが(苦笑)。

 

おそらく、最後にジレンだけが残った時点でほぼ負けは確定していたんだろうなと思います。一番強いジレンが、全員落とせば勝ちだという目論見だったところが、悟空とほぼ相討ちのような状態になったところで、より多くの仲間が残っていた第7宇宙の方が有利だったということです。

そういう意味では、もっとジレンのキャラを当初から出していればなぁと思いますね。一番強いが誰も信頼していないジレンは最後まで動かず、仲間が全員やられてから全力を出し、残っている満身創痍の敵を蹴散らして終わらせる、という算段が見えていればより綺麗な話になっていたと思います。

 

 

このシリーズの最大の問題点が、冒頭に述べたように「演出でいくらでもキャラの強さが変わること」でした。戦闘力を基準にして絶対的なキャラの強弱をつけるのが特徴であったドラゴンボールにあるまじき演出でしたし、そうでなくともボロボロになったキャラが次の話では再び全力で戦っていたりと、脚本家間の連携が取れていないような演出がいくつもあったのが気になりました。最たるものが、全ての力を使い切ったと明言されたべジータが次の話で普通に変身していたことでしょう(笑)。最後は本当に変身もできずにボロボロになって敗れたべジータですが、そこに至るまでの順番がめちゃくちゃでしたね。

ナメック星での悟飯・クリリンべジータの立ち回りのように、戦闘力で明確に劣っていても機転や工夫で生き延びるという演出は可能だったと思うんですが、それが全く見られなかったのは残念でした。

未来トランクス編でのゴクウブラックなんかもそうだったんですが、ブルーを瞬殺出来るように描きながら後半は劣勢になったりと、強敵を強く描きすぎる傾向もあったと思いますね。ジレンは当初触れることすら適わないような強さだったのに、いつの間にか悟空とべジータの2人がかりならいくらでも時間稼ぎできるような関係になっていて、強さの基準がよくわからなくなりました。

 

その延長として、強さの根拠が曖昧だったというのもありますね。悟空に関しては(原作者が設定しただけあって)「神の気」や「身勝手の極意」という明確な根拠があるのに対し、そのどちらもないジレンが何故強いのかとか、べジータが見せたブルーを超えた力は一体なんだったのか(破壊の力を無効化していたのは何故?)とか、そういう説明が一切ないというのが非常に「らしくない」と思いました。トランクスの擬似ブルー形態なんかもそうでしたね。

正直ゆでたまご理論レベルでもいいので、何らかの理屈を設定すべきだと思うんですよね。かつての劇場版だって悟空のオリジナルの決め技には常に何らかの理屈が設定されていましたし(龍拳は微妙ですが)、ある意味ジャンプ漫画の基本だと思うんですが。

 

また17号が悟空・フリーザに次ぐメインキャラ扱いだったというのも首をかしげるものでした。17号の強さにもやはり理屈が説明されていませんし、一応べジータフリーザには明確に劣るという演出はされていたものの、強さはともかくそこまで大きく扱われるようなキャラだったかねという疑問が生じました。原作ではどちらかというとべジータに近い(世界最強を自称したり、挑発に負けてセルにやられたり)タイプのキャラだったんですが、悟空に似ているという言われ方をしていましたし、なんか女性ファンを意識していたんでしょうか。

 

ただ返す返すも、単なるパワーアップ合戦で終わらせず満身創痍の状態で悟空とフリーザに協力させて決めるという演出は見事でした。瞬間的に悟空を超サイヤ人に変身させたのも見事。未来トランクス編は「過程は良かったが結末がクソ」でしたが、その逆だったかなと思います。

 

さて、この続きは劇場版となり、どうも悪そうな新しいサイヤ人が敵になるようです。フリーザ軍が復活したことで三つ巴の展開も予想されますし、結局コントロールできずに終わった身勝手の極意の完成は鳥山氏自身で描くことになりそうですが、過去2作の映画では原作で出来なかった落とし前をつける内容にしていただけに、次回もファンとして期待したいと思います。

個人的には、「未来トランクス編」はDBZで言う「魔凶星編」、「宇宙サバイバル編」は「あの世一武道会編」のようなもので、どちらも原作の穴埋めオリジナルエピソードでしかないと思っているので(シャンパ編は悟空とピッコロが免許取りに行く話程度のレベル)、次回の劇場版だけが真の「ドラゴンボール超」だと思って待ちたいですね。

「修行をすればするだけ強くなる」のがドラゴンボールの世界

 原作で限界を極めた悟空の、さらに上の領域として設定されたのが、「神」の領域です。神の気を持つ者はそれまでの魔人ブウまでの基準では全く太刀打ちできず、同じ神の気を得ないと対等には戦えない、というのが「神と神」で示されたラインでした。

 

 しかし、その後ゴールデンフリーザ、ヒット、ジレンと「超サイヤ人ゴッドの力を持った超サイヤ人」と同格以上の相手が次々と登場し、しかもそれらに神の気を持っているという描写がないことから、別に神の気を会得しなくても神のレベルには達することができるらしい…という雰囲気があります。これは一体どういうことなのか、という話です。

 

 結論から言ってしまえば、「サイヤ人より優れた宇宙人が鍛錬を重ねれば、神の気を得なくても破壊神クラスの戦闘力を得ることは可能」ということなのかなと思います。

 というのも、まず普通の超サイヤ人に瞬殺されるレベルのフリーザが、わずかな修行で超サイヤ人ブルーと同等以上の力を得たということから、フリーザのような超宇宙生物であれば鍛錬で神クラスの域に達することができる、というラインが示されたわけです。

 ヒットは詳細な描写はありませんが、ジレンは修行に修行を重ねて今の強さを得たということが語られたことから、基本的に「修行で神の領域に達することは可能」と言えます。

 

 原作漫画の時点では、敵役が修行してパワーアップする、ということはありませんでした。フリーザはもちろん、セルも魔人ブウも基本的に吸収でしかパワーアップしていません。しかしかつての敵である天津飯やピッコロ、べジータなどが修行によりどんどん強くなっていったのと同様に、セルやブウも修行によりさらにパワーアップする可能性は十分あったわけです(実際、ブウは力の大会のために修行していた時にパワーアップしていた節が見られた)。修行しない状態で当時の悟空たちを大きく上回る力を持っている敵に、修行することで対抗するのがドラゴンボールの基本的なプロットでしたが、敵側がもし本気で修行したとしたら…というのが「超」に登場する強敵たちと言えるのかもしれません。

 

 そして同様に、以前指摘したように、17号なんかも修行していたのでやたら強くなっていたということが言えます(苦笑)。おそらくヒットも殺し屋としての腕を磨くための修行は行っていたのでしょう。長く生きてるみたいですし。

 そういうわけで、それぞれの宇宙に悟空のように鍛錬を続けてきた者たちがいて、そのトップレベルは神レベルになり得る、というのが「超」の世界観なんじゃないかなと思います。そもそも破壊神もその宇宙からスカウトされて就任することが可能なわけで、そうであるなら誰かが神クラスにならなければ破壊神という存在は生まれないわけです。なので、神レベルは複数現れても問題ないと言えます。

 

 ただ、そうだとしても、神レベルの力を持つ者はみんな神の気(つまり簡単には感知できない気)を持っていてほしいなぁとは思ってしまいますね。これはすでに神の領域に達した悟空やべジータの気すらいつの間にかみんな感知できるという設定になってしまっているので、少なくとも力の大会編では「神の気は察知できない」という設定は無視されているんじゃないかと思います。演出的な都合で。

 

 おそらく、セルやブウのような「生まれながらにして」強い敵が、最初から神レベルの戦闘力を持っているということはないんだと思います。多分。いや、そうであってくれ…。