どらごんぼーる考察

がんだまぁBlogからドラゴンボール記事を移植しました。以後ドラゴンボール考察はここで展開します。

フリーザ兄弟についての考察

 ドラゴンボールの劇場版オリジナルキャラに、フリーザの兄クウラがいます。このクウラは、初期状態がすでにフリーザの最終形態に相当する姿となっているのですが、これが「変身した姿」なのか、「一度も変身していない状態」なのかという点について、上映当時から情報が錯綜していたように記憶しています。

 クウラは劇中、「弟よりあと1回多く変身できる」といって変身しています。そう考えると、すでに初期形態のクウラは、すでに3回目の変身を遂げている状態であると解釈できます。
 しかし、同じ劇中で、クウラは惑星ベジータが破壊された時からその状態でいます。つまり、それから30年近く、変身しっぱなしだったことになります。一体、何故でしょうか。


 ここで、フリーザの最終形態について考えます。フリーザは、最後の変身を行う際、「真の姿」を見せると言っています。また、その後アニメや劇場版において地獄で登場した際、フリーザは最終形態のままでした。普通、変身するタイプのキャラは、死ぬと変身前の状態に戻ります。ザーボンもそうですし、超サイヤ人のまま死んだ悟空も死後は普通の状態に戻っています。しかし、フリーザだけは変身前の状態には戻りませんでした。
 このことから考えるに、フリーザは最終形態こそが基本形態なのだと思います。最初の変身をする際、フリーザが変身する理由を、パワーがありすぎて自分でも上手くコントロールできないから、と言っています。逆に言えば、パワーを抑えるためにわざと「退化」していると言えるのです。そう考えれば、フリーザが死んでも最終形態のままなのもわかります。
 となると、クウラもまた、フリーザと同じ状態こそが通常形態であると言うことができ、そしてフリーザと違いそれ以前の形態になっていない理由も説明できます。クウラは、気のコントロールができるのです。

 フリーザは、気のコントロールが出来ません。だからスカウターを使わないと相手の位置がわからないし、また常に莫大な気を放っているために、地球にやってきた際はまだ宇宙を飛んでいるにも関わらず、地球にいる悟飯たちに接近を感知されていました。
 一方のクウラは、悟空の目の前に現れるまで、だれもその接近に気づきませんでした。これは、明らかに気を消す事が出来ていたと言うことができます。だから、フリーザのように「退化」する必要がなかったのです。

 こう考えれば、原作で誰もがフリーザが宇宙最強であると思っていた理由もわかります。クウラは戦闘力をコントロールできるから、その存在はほとんど知られていなかったのです。また、知られていたとしても、普段戦闘力を抑えているので、フリーザよりも弱いと思われていたのかもしれません。もしかしたら、フリーザさえもそう思っていた可能性もあります。超サイヤ人さえいなくなれば自分が宇宙最強だと思っていたようですからね。

 しかし、クウラは宇宙最強は自分であると自覚していました。フリーザを超える力を身につけていたにもかかわらず、それを隠していたのでしょうね。「能ある鷹は爪を隠す」ってやつでしょうか。
 フリーザは自分の力を誇示するタイプです。わざわざ相手に戦闘力を伝えたり、そのままでも勝てるのにあえて変身したりします。しかし、クウラはそうではなかったのでしょう。そもそも、フリーザの次に強いのはギニューだったわけで、フリーザは変身せずとも戦闘力が53万あるのに対し、ギニューは12万しかありません。ナンバー2でもこれだけの差があるわけですから、クウラもわざわざ莫大な戦闘力を常に発しているのは無駄だと思っていたのかなと思います。

 ところで、クウラはその基本形態からさらに変身します。しかし、死ぬ直前に元の形態に戻っているなど、これは真の姿ではなく、あくまでザーボン同様のパワーアップ形態であると言うことができます。
 おそらく、このクウラの最終形態は、フリーザにおける100%状態に相当するのではないかと思います。フリーザは、100%の力を発揮すると、身体に大きな負担を強いる事になり、長時間この状態でいるとむしろどんどん戦闘力が下がってしまうというデメリットを抱えていました。これに対し、クウラは自分の身体を変身させる事で、100%の力を負担無く長時間維持できるようになっているのではないかと。変身する際はフリーザ100%同様全身の筋肉が膨張していることからも、それが伺えます。
 だとすると、フリーザとクウラの実力差も、実はそんなに大きくないのかもしれません。クウラの方が気をコントロールでき、100%の力もデメリットなく使用できるという意味では明らかにフリーザより優れていますが、最大戦闘力という点では大きく離れていないような気がします。どっちも、結局超サイヤ人の悟空に対しほとんど見せ場を作れず敗れていますし。


 ところで、では父親のコルド大王はどうなのか、という話なのですが、劇中で変身していないので、多分変身できないのだと思います。実力は最終形態のフリーザに比するものがあるようですが、レベルとしてはフリーザの1回目の変身で止まっている、ということになります。
 そう考えると、フリーザも昔は最初の形態で生まれてきたのかも知れません。そして成長していくうちに変身を遂げていき、普段は力を抑えるために昔の形態に戻っていたと。成長のたびに進化するポケモンみたいな種族なのかもしれませんね、フリーザ一家は。

ドラゴンボール改主題歌から考える孫悟空というキャラクター

 ドラゴンボールZのアニメから原作エピソード部分のみを抽出して再編集した作品が、日曜の朝に放映されています。いわば「新訳ドラゴンボール」…ではなく、むしろより原作に近い内容になっています。というか、いかに当初のアニメに無駄なエピソードが多かったかという話でもありますが(笑)

 ジャンプアニメの宿命として、普通にアニメ化すると本誌に追いついてしまうので、必要以上に話が引き伸ばされてしまうという現実があります。人気がある作品ほどそれが酷かったのですが、原作が終わっても更に続編が作られたと言う意味では、ドラゴンボールがその最たるものだったと言えるでしょう。
 そんな欠点を解消した形での再放送と言うべきアニメが、このドラゴンボール改なのです。BGMと声は完全に新録なのですが、あまり違和感は今のところないですね。むしろゲームでの台詞の方が違和感が強い印象です。やはり、ゲーム用の録音とアニメ用の録音では声優のテンションも違うのかなと思います。

 OP、EDも映像含めて完全に新作で、特に顔でもあった影山ヒロノブ氏をあえて起用しないという決断はなかなかの英断だったのかなという気もしますね。イメージとしては、鋼の錬金術師のアニメ版2作品のように、「改めて原作をアニメ化した」という側面の方が強いのかも知れません。メインターゲットは当時見ていた世代ではなく今の小学生でしょうし。

 ガンダム以上にドラゴンボールのオタクであると思っている自分としても、このように今回のドラゴンボール改は概ね肯定的に受け止めているのですが、一つだけ気になる点がありました。それは、EDテーマの歌詞にある「世界を守るため生まれたから」という言葉です。

 この歌詞に強烈な違和感を覚えました。というのも、主人公たる孫悟空というキャラクターは、本当の意味で「世界のため」に戦ったことはないはずなんですよ。劇場版を含めると微妙なところなのですが、原作だけでいえば、悟空は決して何かを守るために戦っていたキャラクターではありません。それは原作終盤にベジータが言っています。「負けないために戦っている」のだと。

 そもそも原作を振り返ってみれば、当初の悟空はドラゴンボールを探す過程で障害になった相手と戦っていただけでしたし、天下一武道会では純粋に優勝するためだけに戦っています。ピッコロ大魔王と戦ったのも、クリリン亀仙人といった仲間が殺された怒りからです。基本的に悟空は、自分の個人的な理由のためでしか戦っていません。
 サイヤ人が来た頃からは多少戦う目的が変化していますが、当初は自分の息子を救うためでしたし、ベジータやナッパと戦った際も、仲間が殺されたことを最大のモチベーションにしています。超サイヤ人になったのもクリリンが殺された怒りからでした。そもそもフリーザと戦うことになったのも、ドラゴンボールでピッコロたちを生き返らせる過程で競合したからです。
 もちろん、そこには「より強い奴と戦える」ということを喜びにしていた側面もあります。理由は無くても相手が強いと言うだけで戦う意味になっていたというか。それが、結果的に世界を守ることになっていただけなのです。

 ところが、悟空はいつしか自分が前面にでて戦うことを避けるようになっていきます。セルの相手は完全に悟飯にさせることしか考えていませんでしたし、魔人ブウが出てきた時も、自分以外の戦士が全員戦えなくなるまで自ら戦おうとはしませんでした。

 それは、悟空にとって世界を守るための戦いは自分の望む戦いではなかったから、なのではないでしょうか。
 セルは悟空を倒すために作られた存在ではありますが、そのために戦おうとはせず、純粋に自らの強さを誇示するために戦おうとしていました。悟空からしてみれば、別に目的が競合しているわけでもなければ、誰か仲間が殺されたわけでもない(結局セルが殺したのは16号とトランクスだけだった)。かといって、ピッコロやベジータのように純粋に強さのみを競う好敵手という感じでもなかったために、モチベーションが上がらなかったのではないかと思います。
 また、悟空は死んだ後に生き返るのを拒否しています。自分がいない方が世界は平和なのではないかということで。これは、人造人間が悟空を殺すために作られたものであった、という事実をかなり重大なことと受け止めていたからなのではないかと思います。自分だけを殺すために作られたものが、苦労してやっとこさ倒したフリーザを上回る戦闘力をもっていて、別の未来では世界を滅ぼしてさえいるという事実は、かなり重いです。
 責任感が強い人間であれば、自分のせいで生み出された存在は自分で倒す、と言うところなんですが、そこで自らの死を選んだのが悟空でした。そもそも悟空に責任感なんてものはあまりないですからね。あったら働いているでしょうし。

 そんな死に方をした悟空ですから、魔人ブウが出てきても戦う気はあまり起きなかったんだと思います。こっちは完全に悟空とは無関係の敵ですし。すでに死人だからという理由もありましたし、生き返っても、最初から合体して戦う気満々でした。自分とベジータ以外が誰もいなくなってしまって初めて、開き直って正面から戦う覚悟ができたようにも見えます。(そして劇場版の「俺がやらねば誰がやる」に繋がるんですが)

 要するに、悟空は世界を守るヒーローとかそういう柄じゃないんですね。そもそも鳥山明という漫画家自身がそういう考え方を好まないようにも思えます(だからどちらかというとヒーロー的であった悟飯を主人公に据えることができなかったのでしょう)。悟空って実は自分のやりたいことだけをやってたいという子供っぽいキャラクターであって、公のために戦う器ではないんです。
 原作を映像化しているだけに過ぎないアニメではなかなか作り手の意識というのは見えてきませんが、歌の歌詞というところで見えてきた部分を見ると、あまり原作をわかってないのかなぁ、なんて思ってしまったりもするのでした。ドラゴンボールのキャラクター心理って結構深いんですよ?