どらごんぼーる考察

がんだまぁBlogからドラゴンボール記事を移植しました。以後ドラゴンボール考察はここで展開します。

「ベジータゴッド」から考えるベジータの性格

 映画「ブロリー」において、アニメでは初めて超サイヤ人ゴッドのベジータが登場しましたが、個人的には、このベジータゴッドの印象が非常に強く残りました。何故かと言うと、非常に落ち着いた、冷静な態度で戦っていたからです。

 悟空のゴッドにおいても、いわゆる「柔の拳」のような戦い方であったり、トリッキーな技を使ったりというのが印象的でしたが、悟空は元々亀仙人や神様の下で修行し、そういった穏やかな戦い方を習得しているため、久々かつ斬新ではありましたが、元々のキャラクターから離れた描写ではありませんでした。

 一方のベジータは、基本的に戦う時は感情を表に出して戦うことが多いキャラクターです。自分が優位にあり自信を持っている時は、自らの力を強く誇示し、相手を徹底的に蔑み、敵をゴミクズのようにいたぶる傾向があり、逆に自分が劣勢の時は、大きく焦り、怒り、あまりにも実力差がある時は絶望を隠さない傾向があります。これは、超サイヤ人に覚醒した後も、ゴッドの領域に到達した後も同様で、基本的にベジータは感情をむき出しにして戦うタイプなのです。

 それに比べると、ゴッドの状態のベジータは、落ち着いた表情で、無駄に相手を愚弄したりピンチに焦りを見せることなく、冷徹にブロリーに攻撃を加え、まさに「サイヤ人の王」であるかのような風格が漂っていました。

 

 元々、ベジータウイスに「日ごろから神経を張り詰めすぎ」という欠点を「復活のF」で指摘されていました。描写としては感情を表に出しすぎることが多いということと合わせて考えると、ベジータはおそらく自分にプレッシャーをかけすぎなのだろうと思います。

 優位な相手には徹底的に自分の優位性を誇示し、不利な相手には焦りと不安を隠さない点と、ベジータの生い立ちや性格を考えると、おそらく彼は「自分=サイヤ人の王子は宇宙最強でなければならない」というプレッシャーと常に戦っているのではないだろうかと推察されます。常に自分は最強でなければならない、と暗示をかけているが故に、自分の強さを必要以上にアピールし、そして自分より強い相手に直面したときに大きな焦りを感じてしまうのでしょう。

 このベジータの性格は、おそらくは父の影響が強いと思われ、サイヤ人が宇宙一の戦闘民族であり、その王子であるベジータは王である父よりも高い戦闘力を持つことから、一族の期待を常に受けていたものと思われます。同時に、幼少時からフリーザギニュー特戦隊といった次元の違う強者の存在も知っていたことから、いつか彼らを追い抜かなければならない、という目標を掲げていたとも考えられます。サイヤ人最強であることを誇りにしていると同時に、サイヤ人よりも強い宇宙人がいるという現実を早く打ち破らなければならないという焦りが、成長するにつれて高まっていたことは容易に想像できます。その壁はちょっと修行したくらいで埋まるものではなく、だからこそ「伝説の超サイヤ人にさえなれば、自分が宇宙最強になれる」という夢も描いていたのでしょう。

 ところが、サイヤ人では最強であるという誇りも、カカロットの登場により打ち砕かれることになってしまいます。超サイヤ人への目覚めなど、常に一歩先を行く存在はベジータにとって忌々しい存在でしたが、家族を得て心境に変化が生じた彼はカカロット孫悟空の強さを受け入れ、彼を最強のサイヤ人と認めることになります。それでも、長年染み付いた戦いのスタイルが変わるわけではなく、性格も簡単に変わるものではないため、弱い相手にイライラするなど、感情の浮き沈みの激しさの描かれ方はあまり変わりませんでした(「復活のF」での超サイヤ人ブルーは比較的冷静でしたが、フリーザへの長年の恨みが募っていたので冷静になりきれてはいなかったように思えます)。

 そんな中での、「ブロリー」での超サイヤ人ゴッドのベジータだったので、あの戦闘スタイルはある意味ベジータの最終到達点であったのではないかとさえ思えます。ブルーになるとどうしても超サイヤ人化するが故に気性の激しさが多少出てしまうと思うのですが、それがないゴッドはベジータが今後更に強くなるために必要な形態なのではないかとさえ思います。少しゴッドの状態で戦う訓練をした方がいいと思いますね(笑)

 

 悟空はウイスに「油断しすぎる」という欠点を指摘されていますが、悟空に足りないのが「冷徹さ」であるとすれば(それを克服するのが身勝手の極意)、ベジータに足りないのは「穏やかさ」なのかなぁと思います。もしベジータが身勝手の極意か、それに類する境地に達することがあるのであれば、その鍵となるのはそういった感情面の変化であるような気がしますね。もし今後鳥山明氏がベジータのパワーアップを考えるのであれば、そのような要素が加わると信じたいところです。

ピッコロにとっての悟飯

悟飯とピッコロと言えば師弟関係です。

そして悟飯にとっては、ピッコロは師匠であり、父親よりも父親らしい存在であり、ピンチの時には必ず助けに来てくれる(劇場版限定)存在でした。

アニメではピッコロのことを「おじさん」と呼ぶことがあったなど、悟飯から見ると父親よりも背の高いピッコロは、かなり年上の存在であるように感じていたように描かれています。

 

しかし、実際のところピッコロが生まれたのはピッコロ大魔王が死んだ瞬間です。そこから3年後に悟空と天下一武道会で戦い、その5年後にサイヤ人ラディッツと戦っています。このときピッコロは8歳です。その時点で悟飯は4歳ですから、歳の差は4歳しか離れていません。

実際のところピッコロは3歳の時点ですでに身長や体格は完成していましたから、その成長速度は普通ではないのですが、それでも年齢的には、悟飯とは兄弟くらいにしか離れていないのです。

 

それを踏まえて、ピッコロへの悟飯への言動を振り返ってみると、悟飯にとってのピッコロが「尊敬すべき師匠」であり「おじさん」であったとしても、ピッコロにとっての悟飯はもう少し近い「弟」くらいの存在だったのではないか、と思い当たりました。

 

例えば、「恨むならてめえの運命を恨むんだな…このオレのように…」という台詞。この言葉を悟飯に向けて言った時の悟飯は、いずれ攻めてくるサイヤ人を迎え撃つためには莫大な戦闘力を秘めた悟飯の力に期待せざるを得ないことから、己の意思に関わらず戦えるように鍛えられるしか選択肢がないという状況でした。この状況に自分を重ねるということは、ピッコロ自身もまた、自分に選択肢が存在せず、ただ父の無念を晴らすために悟空を殺すことを目的とした修行をし続けるしかなかった現実が、本当は嫌だったという心情を表しています。

ピッコロにとっての悟空は、人造人間のそれと同じように、生まれたときから殺すことを宿命付けられた敵だったわけです。しかしその悟空は敗れても自分を殺さなかった、では目的を果たせず生き長らえた自分は何のために存在しているのか、そんな自問自答がサイヤ人来襲までのピッコロにはあったのかもしれません。

そして宿敵の息子・悟飯に、ピッコロ大魔王の息子である自分の姿を重ねたことが、その後の悟飯への心理的な傾倒に向かっていくのでしょう。

 

そしてもう一つピックアップしたいのが、悟飯をかばって死ぬときの有名な台詞。「オレとまともにしゃべってくれたのはおまえだけだった」「きさまといた数ヶ月…悪くなかったぜ」という言葉は、それまでのピッコロ像からは想像もつかないほどに丸い台詞でした。ここで、悟飯がピッコロを一方的に慕っているのではなく、ピッコロ自身も悟飯に救われていたことがわかります。

「ピッコロ大魔王の生まれ変わり」というだけで、一般人も悟空の仲間たちも逃げ出してしまうような世界だったわけですから、確かにピッコロとまともにしゃべってくれる地球人はいなかったでしょう。そのことをピッコロは辛いものだと感じていたことがわかる台詞になっています。

一方で父である大魔王を知らない悟飯にとっては、ピッコロは「昔お父さんと戦った強い人」くらいにしか思っていなかったのでしょう(悟空はピッコロを悪い奴だと思っていないので、悟飯にも悪い奴とは言わなかったでしょう。チチは分かりませんが、彼女はピッコロ大魔王一味から特に被害を受けていませんし)。つまり悪行の限りを尽くした大魔王の生まれ変わりであるという固定観念がなく、フラットにただの「(怖い)おじさん」として接してくれたこと自体が、ピッコロにとっては衝撃的だったのではないかと思われます。

 

つまりピッコロにとって、悟飯は最初の「敵ではない他人」だったのです。それは人間心理で言えば限りなく家族に近い存在と言えます。赤ん坊にとって初めての他人は家族だからです。

普通は最初の家族と言えば両親ですが、悟飯は年下なので弟に近い存在と言えます。ピッコロにとって悟飯は息子や弟子ではなく弟だったのです。そのように考えると、ピッコロの悟飯への態度も少し違って見えてくるのではないでしょうか。

 

ベジータは悟空に生かされたことによって、最終的に家族を知り、悟空よりも人間らしい存在になりましたが、ピッコロもまた悟空に生かされた事により、悟飯という兄弟を得て新しい存在になったとさえ言えます。

その後ピッコロは、自分自身のルーツを知る事になり、ただの「大魔王の生まれ変わり」なのではなく、ナメック星人の数少ない生き残りであるという自覚が生まれることになります。生き返った直後にすぐフリーザと戦いたがったのは、単に悟飯を助けたいというだけではなく、ナメック星に行ってみたい、ナメック星をめちゃくちゃにしたフリーザが許せないという感情もあったのだろうと思います。

さらにネイルと同化しナメック星人としての誇りを強く持ち、神様と同化することで地球のため、地球人のために生きることができるようになったと言えます。

それでも悟飯は、最初に出会った人生の兄弟として大切な存在で、だからこそ彼の家族をも大切にしたいと思えるのでしょう。

 

ただピッコロは、ひたすらに孤独です。自分自身は種を増やすことができませんし、神と分離する前の名前も知りません。ただ地球に逃げ延びてきてそこで神になったナメック星人の成れの果て、という事実しかないのがピッコロという存在です。ベジータと違いここからさらに人間臭くなるということはないのかなと思います。きっと寿命も悟飯よりずっと長いのでしょう。

 

むしろ神の気を得てナメック星人ゴッドにでもなってほしいと思っているんですけどね。鳥山明氏もアニメやゲームに関わるスタッフも、あまり活躍させる気はないようです。第7宇宙では一番破壊神に近いメンタルの持ち主ではあると思うんですが。

超サイヤ人ゴッド覚醒後の、金髪・赤髪・青髪の区別

 「神と神」で悟空が超サイヤ人ゴッドに変身した後、その力を取り込んだことにより、通常の超サイヤ人でもゴッド級の戦闘力を発揮できるようになりました。また、通常形態でも神の気の練り方を得たことにより、超サイヤ人3以上の戦闘力を発揮できるようになったようです。

 これは、「復活のF」においておそらく超サイヤ人悟飯を遥かに超える戦闘力をもっていたであろうフリーザ最終形態に対して悟空がノーマル状態で互角に戦っていたことと、「超」の複製ベジータ編で、ブルーに変身できる複製ベジータがノーマル状態で超サイヤ人3のゴテンクスを圧倒していたことから伺えます。

 

 一方で、「力の大会」や映画「ブロリー」(あとコミック版の未来トランクス編以降)では、悟空は超サイヤ人→ゴッド→ブルーと明らかに段階を変えて変身していました。「神と神」の時点で超サイヤ人→ゴッドの序列は明らかであり、「復活のF」でゴッドの上であるゴッド超サイヤ人(ブルー)が登場しましたが、具体的にこれらの形態がどう違っていて、どう区別されているのか、あまり明言されていません。なので、少し考察してみたいと思います。

 

 簡単な定義は作中でも説明されていて、超サイヤ人ゴッドは「神の気」を得たサイヤ人であると思われます。そしてこの力を取り込んだ上で、更に超サイヤ人に変身したのが「超サイヤ人ゴッドの力を持った超サイヤ人」こと超サイヤ人ブルーなのだろうと思われます。

 超サイヤ人ブルーは、コミック版ではエネルギー消費が激しく一度変身を解くとしばらく変身できない設定ですが、TVアニメ版・劇場版どちらもそのような描写はないため、これはコミック版独自の設定かと思います。アニメ準拠で考えた場合、超サイヤ人ブルーは大きなエネルギー消費はなく、通常の超サイヤ人と同じような感覚で戦えることから、悟空やベジータにとっては非常になじみ易い形態なのでしょう。

 超サイヤ人ゴッドが、名前に反して超サイヤ人化した見た目になっていないことから、その名称は便宜上のもので、本来は「神の気をまとったサイヤ人」という意味だと考えれば、そこから更に超サイヤ人に変身したのがブルーなのだろうと思います。

 つまり、ゴッド覚醒後の悟空やベジータは、「神の気をコントロールできるようになったことで基本的な気の質が上がった通常形態(旧超サイヤ人3以上の戦闘力を発揮可能)」→「神の気を全身にまとっている超サイヤ人ゴッド」→「神の気を持った超サイヤ人である超サイヤ人ブルー」という変身を経ていることになります。少なくとも「復活のF」まではそのような設定でした。

 

 しかし、「超」では「シャンパ編」以降、ブルーに変身できるにもかかわらず通常の超サイヤ人に変身するケースが多々ありました。「神と神」でもゴッド覚醒後にその力を取り込んだ超サイヤ人になっており、その後一瞬もう一度ゴッドに覚醒してビルスの攻撃を受け止めていることから、「ゴッド覚醒後の超サイヤ人1」はゴッドに劣ると言え、ノーマル→超サイヤ人超サイヤ人ゴッドの序列は当初から変わらないとは言えます。ただ実際の使い分けはどのようになっているのでしょうか。

 ゴッド覚醒後の通常形態が「神の気を扱えるようになった素の状態」であるならば、そこから超サイヤ人1に変身するのは「神の気を扱えるようになった超サイヤ人」ということになります。これでは超サイヤ人ブルーと同じ説明に感じられますが、ゴッドやブルーは神の気を「まとっている」ので、その点が違いと言えます。

 では何故ノーマル状態から神の気を開放した「ゴッド」よりも、悟空やベジータは「超サイヤ人1」の方を多用するのでしょうか。これは単純に「慣れているから」なのではないかと思います。ゴッドやブルーは神の気を練り上げて開放する必要があることから、通常の超サイヤ人変身よりもテクニックが必要なのでしょう。一方超サイヤ人は、その状態でも自然な状態でいられるよう修行したことから、何も考えずに簡単に変身できるのではないかと思います。ほぼ無意識的にできることの方が、便利であることに変わりはありません。そして超サイヤ人でも適わない相手には、ブルーになって全力で戦うのでしょう。相手の力を試しているときに限り、その間の形態であるゴッドになるのではないでしょうか。

 というようにもっともらしい理屈を考えてみましたが、まぁ超サイヤ人1が未だに出るのは単純に「カッコいいから」でしょうね(笑)。やっぱり金髪の超サイヤ人が一番カッコいいのは間違いないです。ブルーはより強いことにはなっているんですが、あんまり相手を圧倒したシーンがなかったんですよね。ゴールデンフリーザには力負けしてましたし、ヒットにもブラックにもトッポやジレンにもブルー単体では勝てませんでしたしね。

 

 さて、ではゴッド覚醒後の「超サイヤ人2」「超サイヤ人3」の戦闘力はどんなものなのでしょうか。超サイヤ人からいくら気を上げても、まとうオーラが神の気になっていないならそれはゴッド以下というのは間違いないですが、まぁゴッド覚醒前の頃と同じくらいの倍率ではパワーアップしているのではないでしょうか。ただゴッドやブルーになった方が遥かに高い倍率で戦闘力が上がるため、ほぼ使うことはないのでしょう。

 逆にブロリーは実質的に超サイヤ人1でしかないのに、超サイヤ人ブルーの悟空やベジータ以上、超サイヤ人1のゴジータでも苦戦するほどの戦闘力を発揮していました。これは、ブロリーは「神の気」は持っていないものの、「大猿の力」が加わっているために強いのだと解釈するしかありません。大猿にそこまでのパワーアップ倍率はないはずなのですが、超サイヤ人4が3を遥かに上回る戦闘力だったことを考えると、大猿の力を人型でコントロールするということは相当なパワーアップになるということなのでしょう。しかも「神の気」の超サイヤ人ブルーより「大猿の力」の超サイヤ人ブロリーのほうが強いわけですから、ある意味では大猿の力を得たブロリーは神以上のパワーアップを遂げているということになります。つまり悟空やベジータも大猿の力を得れば更にパワーアップできることになりますが…それが超サイヤ人4だと言うなら、実は「超」はまだ「GT」に繋がる余地を残しているのかもしれません。

新旧ブロリーの描かれ方を比較する

予告通り、新旧それぞれの劇場版におけるブロリーの扱いの差について比較してみようと思います。

 

 

(1)幼少時の扱い

 パワーが高すぎてベジータ王から追放、というくだりは同じですが、旧劇場版では「赤ん坊の時点で戦闘力1万」という扱いだったのに対し、新劇場版では「潜在能力の測定でベジータより上だったから」という扱いに変わりました。さすがに赤ちゃんの戦闘力がバーダックと互角はリアリティがないという判断でしょうか。

 

ブロリー:生まれたときから戦闘力が高い

ブロリー:生まれたときの潜在能力がベジータ以上

 

(2)カカロットとの関係

 旧ブロリーの重要な設定の一つが「保育器の隣だったカカロットに泣かされた」というエピソードですが、新劇場版ではバッサリカットされました。生まれたばかりの因縁をずっと覚えてるというのはちょっと非現実的で、しかもただ泣かされただけというのが、個人的にも理解に苦しむ設定だったので、無くなってよかったと思います。

 旧劇場版では、ブロリーカカロットに対して恨みを持っているという設定にしたくて、しかしカカロットとの接点があるとすれば赤ん坊の時しかあり得ないために、このような無茶な設定になったのだと思います。

 

ブロリーカカロットを赤ちゃんの頃から恨んでいる

ブロリーカカロットとの接点は皆無 

 

(3)追放後の扱い

 旧ブロリーは惑星ベジータの爆発からブロリーの力で生き残り、その後の過程は不明ですが新惑星ベジータを作ってベジータへの復讐の機会を狙うという描写になっていました。

 これに対し新ブロリーは辺境の惑星に送り込まれ、助けに行ったパラガスもろともその惑星に取り残され、ずっとそこで生き続けるという扱いに変わりました。

 まず宇宙空間で生き残ったところで、身体一つでどこへ行くんだという謎が旧劇場版にありますし、そこまですさまじい力を発揮したなら、フリーザ軍のスカウターに拾われていたんじゃないかという疑問もあることから、新劇場版の方がよりリアルに描いたということになります。

 

ブロリー:追放後は宇宙を放浪

ブロリー:追放後は一つの星にずっと滞在

 

(4)幼少時の戦闘力

 旧ブロリーは少年時代にはすでに超サイヤ人に覚醒していましたが、新ブロリー超サイヤ人には覚醒していませんでした。あくまでも大猿化とその応用によるパワーアップのみ可能でした。

 旧ブロリーは、ほぼ生まれついての超サイヤ人で、「1000年に一度現れる伝説の戦士」そのものと思えるように描かれていましたが、鳥山設定では超サイヤ人になる条件はどのサイヤ人でも平等ということなのでしょう。新ブロリーでは、むしろその強さの源泉は「素の状態」にあると考えられているのではないかと思います。

 

ブロリー:少年時代から超サイヤ人に覚醒

ブロリー:尻尾を失っても大猿の力を発揮可能に

 

(5)パラガスとの関係

 旧劇場版のパラガスは、超サイヤ人化したブロリーの制御ができないことから、宇宙人の科学者に作らせたコントロール装置で戦闘力をコントロールすることに成功します。これにより南の銀河を壊滅させたりしていました。

 新劇場版のパラガスは、大猿化のように理性を失うようになったため、首に電流が流れる首輪をつけさせて、動物を調教するようにコントロールしていました。これは、ずっと同じ惑星にいたのでそれ以上の技術は使えなかったということもありますし、ブロリーの力をコントロールする目的が「自分の身を守る」ためでしかなかったという違いもあるかと思います。

 一方で、旧ブロリーはパラガスを躊躇なく殺しましたが、新ブロリーはパラガスを殺された怒りで超サイヤ人に覚醒しています。新ブロリーにとっては唯一の他人であり肉親だったパラガスは、特別な存在であったのでしょう。一方旧ブロリーには、親への情はあまり感じられないようでした。

 

ブロリー:パラガスの意のままに操られるが、コントロールが解け殺害

ブロリー:パラガスに強制的に従わされるが、殺された怒りで覚醒

 

(6)悟空との比較

 新劇場版のブロリーは、幼少時よりずっと父親と二人きりで1つの星に住んでいたことから、非常に世間知らずで言葉にも疎いという意味で、幼少時の悟空によく似た描写になっていました。特にチライとブロリーの関係は、ブルマと悟空のそれによく似ているように思います。

 旧劇場版のブロリーは、制御用のリングを頭に装着していたことで、「西遊記」の孫悟空のオマージュとして描かれていましたが、新劇場版は「ドラゴンボール」におけるもう1人の孫悟空として描かれているように思います。

 

ブロリー:「西遊記」の孫悟空のオマージュ

ブロリー:「ドラゴンボール」の孫悟空が違う星にたどり着いた結果

 

(7)性格

 旧劇場版のブロリーは、平常時は大人しく無口で、カカロットが絡んだときだけ凶暴化するという性格でした。一度コントロールから解き放たれると、ただ破壊の限りを尽くすだけの存在と化し、わざと星を破壊したり俺は悪魔だと言い放ったり、とにかく邪悪で凶暴という性格でした。

 新劇場版のブロリーは、仲間が傷つけられると怒るという意味で、他人のために怒れる優しさを持っていました。また、本来戦いはあまり好きではなく、凶暴化するのも大猿化と同じ理由という扱いになっていました。

 

ブロリー:本質的に凶暴な性格

ブロリー:本来は心優しく、戦いが好きではない性格

 

(8)強さの源泉

 新旧どちらのブロリーも、理屈を超えた戦闘力を発揮していましたが、旧劇場版のブロリーが「伝説の超サイヤ人」という普通の超サイヤ人とは異質な存在であり、それ故か戦闘を続けても気が減少していくどころか高まっていく性質があるなど、基本的に「特殊な超サイヤ人」という扱いでした。

 新ブロリーは、その強さの理由はあくまでも「大猿の力を人間体のまま発揮できる」という点にあり、そこからさらに超サイヤ人になることで、超サイヤ人ゴッドを上回るパワーを発揮することができていました。

 

ブロリー:「伝説の超サイヤ人」という特殊な存在

ブロリー:「大猿」の力を取り込んだ超サイヤ人

 

(9)総合的な違い

  これらを総合すると見えてくるのが、旧ブロリーの「非人間性」と新ブロリーの「人間性」の差異です。性格的にも、強さの理屈的にも、元々人間的な部分がほとんど残っていないのが旧ブロリーであり、戦闘力的には同等かそれ以上のインパクトがありながら、あくまでも人間性を保っているのが新ブロリーと言えます。

 これはある意味ではアニメのドラゴンボールと漫画原作のドラゴンボールの違いとも言えるかもしれません。アニメのドラゴンボール、特に劇場版では、基本的に登場する敵は「悟空に倒される悪いヤツ」であり、殺されても仕方ない敵をやっつける勧善懲悪なストーリーがメインでしたが、原作のドラゴンボールでは悟空は常に殺し合いを望まず、再戦が可能ならできるだけ相手を殺さないで済ませようとするキャラでした。原作の世界観の延長にある鳥山原作の劇場版では、旧ブロリーのような存在は許されないということなのだと思います。

 ただ、旧ブロリーの存在が完全に否定されたわけではありません。超サイヤ人ゴッドが登場しても超サイヤ人4がゲームに出続けているように、原作と矛盾する存在も許されるのがドラゴンボールワールドです。「ストリートファイター」シリーズの殺意の波動に目覚めたリュウのように、正史には存在し得ない絶対悪の存在として、旧ブロリーは残り続けるのではないでしょうか。

 

ブロリー:「勧善懲悪」の物語だから許される、絶対悪の超サイヤ人

ブロリー:原作の世界観だから存在できる、別進化を遂げた超サイヤ人

映画「ドラゴンボール超 ブロリー」感想

見てきました。

このブログ的には、ブロリーの強さの根拠を鳥山氏がどのように説明してくるかに注目していたのですが、明示してくれたので考察のしがいがあります。ありがたいことです。

 

その辺は後述するとして、作品自体の感想から先に。

一言で言えば、「たったひとりの最終決戦」「燃え尽きろ!熱戦烈戦超激戦」「復活のフュージョン!悟空とベジータ」を一つのシナリオにして鳥山氏がリメイクしたような話だったかなと思います。アニメオリジナルキャラの中でもトップクラスの人気キャラであるバーダックブロリーゴジータを全部公式リメイクするプロジェクトでもあったのかなと。

逆に言えば中身としてはそれ以上はなく、鳥山氏もほぼビジネスに徹してゲームキャラの追加の余地を増やすことが最大の目的の作品だったようにも思います。まぁ、今やドラゴンボールは連載当時よりも稼げるコンテンツになってますし、世界中で大人気ですから致し方ない部分ではあります。それに対して、物語自体は事実上完結していますから、あまり話を広げることもできませんしね。

 

ただそれでも、鳥山氏がどのように彼らを描きたいのか、その意図はよく見えました。特に新旧ブロリーの違いは比較がしやすいですので、別エントリで今後語りたいと思います。

簡単に言えば完全に悪魔のような存在である旧ブロリーと、あくまでも人間である新ブロリーという比較になりますが、特に今回のブロリーは辺境の星で言葉もろくに知らずに育ったという意味で、旧ブロリー以上に「もう1人の悟空」という印象を強くしていたのかなと思います。パラガスが孫悟飯じいちゃんのポジションで、チライがブルマですね。

鳥山氏としては、旧ブロリーの、パラガスにコントロールされているだけで、解き放たれたらあとは破壊の限りを尽くすだけ、という人生を不憫だと感じたというか、そういう世界観はドラゴンボールにあるべきものではない、ということなんだろうなと思います。根っからの悪人はいなくて(フリーザがレッド総帥と同レベルの支配者だったという描かれ方はその典型)、いたとしても何らかの救済(ウーブへの生まれ変わり)があるべきという考え方ですので、ただ破壊の限りを尽くすだけで、コミュニケーションもまともに取れない絶対悪の存在、というのは認め難かったんでしょう。ある意味ではそういう、絶対悪の超サイヤ人が旧ブロリーの魅力でもありましたが、そういうキャラは公式の世界にはいるべきではない、ということです。バーダックでさえも、アニメスペシャルよりもかなり丸く、父親の情を感じる描写でした。当時よりも、ドラゴンボールを優しい世界に描きたいという意図は「神と神」の頃から感じます。本人が歳を取って、子供にも見せられる話というのを意識しているからなのかもしれません。

 

個人的には、新訳たったひとりの最終決戦とでも言うべき前半の回想シーンは納得のいくものでした。ギネがチチの声だったのはまぁ、2人は親子ではないけどバーダックと悟空は同じような嫁を持っていたということでしょうか。でも幼少ラディッツがピラフとほぼ同じ声ってのは、確かに昔から声優は同じなんですが酷いと思いました(苦笑)。わざとなんでしょうけど。

フリーザは当時は基本形態よりも一つ更にランクが低いような外見をしていましたが、これはやはり年齢と共に成長しているということなのかなと思います。コルドはフリーザ第2形態レベルまでしか成長できませんでしたが、フリーザは更に成長を遂げていて、ただパワーのコントロールが出来ないので前の形態に戻っていたというだけなのでしょう。現在ではデフォルトで最終形態になっていますので、兄同様戦闘力のコントロールをできるようになったんでしょうね。ゼロにはできないんでしょうけど。

スカウターフリーザ軍が与えたようになっていましたが、元々はツフル人が開発した技術であったように思います。まぁ、ツフル人の技術をサイヤ人では扱いきれないので、フリーザ軍がその技術を継承して発展させていたということなんじゃないかなと思います。サイヤ人の知性を考えると、その方が現実的でしょう。

あと地味にベジータ王の装飾品に旧ブロリーの意匠が残されているのが面白いと思いました。

バーダックが最後までフリーザに抵抗したくだりは、過程が全カットされていましたが、描写はかなり「たったひとりの~」をオマージュしていましたので、完全には矛盾しないように作っていたのかなと思います。

 

で、本編ですが、作画はセル編くらいの悟空とベジータをイメージしているように見えました。まぁ、セル編→ブウ編は特に悟空はほとんど歳を取っていませんので、問題はないかと思います。あとブルマの声はあまり違和感がありませんでした。いい感じです。

ブロリーの支配方法が良く分からない謎システムから電流に変わったのは、イメージのしやすさとパラガスの非道さを強調するためなんだろうなと思います。それでもブロリーにとってパラガスは唯一の肉親かつ他人でしたので、簡単に裏切れないというのもよく描けていました。

 

そのブロリーの強さの秘密ですが、「大猿の力をしっぽなしでも発揮できるようになった姿」という説明がされていました。これ、要するに超サイヤ人4なんですよね。あれは黄金大猿+理性が必要なので、もちろん全く同一の存在ではありませんが、超サイヤ人未覚醒なのに超サイヤ人以上ゴッド以下~ゴッド以上ブルー以下の戦闘力となると、超サイヤ人4クラスの戦闘力を引き出していると考えないと説明がつかないです。もう悟空やベジータが鳥山ワールドで超サイヤ人4になることはないでしょうから、要するに鳥山版超サイヤ人4なんだと考えるべきなんだろうと思います。つまり超サイヤ人化していなくても、大猿の力を人型でコントロールするだけで新ブロリーレベルの戦闘力は発揮できるということです。

そしてそこから更に超サイヤ人化したのが所謂「伝説の超サイヤ人」形態であったということになるので、これも良く分かるものでした。旧ブロリーも同じなのであれば、あれこそ実質真の超サイヤ人4だったということになります。だからブロリーがゲームで超サイヤ人4になるのはある意味矛盾しているのかもしれません(単に完全体に達したと考えることも可能ですが)。

TV版に登場したケールの暴走状態が超サイヤ人ブルーでも苦戦するレベルに描かれていましたので、本場ブロリーではブルーでも適わないというのもパワーバランス的には妥当です。

ゴジータに対しても、超サイヤ人とフルパワーブロリーが同程度、ブルー化すれば圧倒というバランスでしたので、ゴジータの無敵感の強さもよく描けていて良かったと思います。そう考えるとベジットブルーとも互角に見えた合体ザマスはブロリーより強いのかもしれません。

そのフルパワーブロリーは悟空の見立てではビルス以上だったとのことなので、ゴジータベジットのブルーもおそらく戦闘力ではビルス以上なんだろうなと思います。まぁビルスには破壊があるのでまた強さだけでは比較できないのですが。そのビルスが今回参加しなかったのは、ブロリーを破壊して話が終わってしまうからなのでしょうね。

そう考えると、大猿+超サイヤ人だけでブルーや破壊神を超えてしまうわけですから、ブロリーのポテンシャルは高すぎるとしか言えません。まぁ、大猿の力をコントロールすれば悟空やベジータが更に強くなる可能性があるということも言えますし、それがGTの超サイヤ人4なのかもしれませんが、この辺は今後の展開次第でどうにでも変わるだろうとも思います。最近のパワーバランスは色々信用できませんので(苦笑)。

 

シナリオ的には、回想部分は丁寧でしたが、後半は雑だったなぁという気がします。場面だけ追っていれば分からなくはないのですが、もう少し丁寧に描いて欲しかったなと。例えばパラガスが死んでブロリーが覚醒するシーンなんかは、もう少しブロリーのパラガスへの感情が表現される描写があってもいいと思いますし、「復活のF」では悟空とベジータが散々共闘を渋ったのに今回あっさり共闘するどころかフュージョンさえしたのは、単純にブロリーの理性がなく地球が破壊される可能性があった(つまり緊急性が異常に高い)からだと思うんですが、そういう解説も少なかったですし、最後に悟空にカカロットを名乗らせるのであれば、悟空にサイヤ人への誇りを目覚めさせるような描写(例えば冒頭の回想シーンのバーダック部分の話をベジータが悟空に語るとか)があるべきだったと思います。おそらく時間が足りなかったのだと思いますが、それらがしっかり描かれていれば文句なしの神作品でした。前2作のようにTV化されるならその辺が補完されるでしょうか(TVスタッフはあまり信用していないのですが)。

 

演出としては本当にオマージュシーンが多く、ブロリー絡みもそうですが、ゴジータもちゃんと前映画の技(所謂「ソウルパニッシャー」)を使って見せたりとサービスは豊富だったと思います。ベジータの作画がとても良かったのが印象的でした。特にゴッド。悟空と交代した後ずっと出てこなかったのはちょっと雑かなとも思いましたが。

あとはもっと技の出し合いが欲しかったかなとは思います。「神と神」も「復活のF」もそうなんですが、殴り合いを派手にやるだけで技の駆け引きがないのが原作との違いかなと思っていて、原作の悟空はフリーザやセルとは技でいかに意表をついて敵に攻撃をヒットさせるかの勝負をしていましたので、そういうのも見たいかなぁとは思います。何にせよ、ドラゴンボールは下手すると鳥山氏が亡くなっても続くコンテンツのような気がしますので、これからも楽しめそうです。

ブロリーは今後も登場できそうですが、下手に味方になると「あのブロリーが一撃で!?」みたいなかませ犬にされそうで怖いですね(笑)まぁ、ブロリーは大事なイメージがあるのでそう簡単にはやられ役にはしないかもしれませんが。

孫悟飯はどうすれば主人公であり続けられたか

悟空の息子・悟飯というキャラクターは、少年時代は「悟空以上の力を秘めているが、その力をコントロールできず激怒したときに瞬間的に発揮するだけ」というのが個性のキャラクターでした。その特性はピンチの度に幾度となく発揮するも、劣勢を覆すほどの活躍には繋がらず、あくまでも悟空が来るまでの戦いを盛り上げるだけのものでしたが、セルとの戦いではついにそれが戦いの切り札となり、セルを倒すに至っています。

 

しかし、この特性は青年になった後は、全く使われることはありませんでした。唯一ビーデルスポポビッチにボコボコにされた際に怒りを見せたものの、本気の戦いの場ではその力は発揮されませんでした。

青年時の悟飯は、「修行をサボっていたので本来の力を失っている」という設定で、最終的にその力を自力で取り戻すには至らず、老界王神の力で限界以上に引き出されそれまでのキャラクターの中では最強の戦闘力を得るも、魔人ブウを倒す力にはなりませんでした。

 

元々、悟飯の「怒ったときだけ力が引き出される」という特性は、子供かつ主人公ではないキャラだからこそのものでした。成長し主人公となったことによって、それに代わる新たなアイデンティティ(悟空で言う「より強い奴と戦いたいという純粋な気持ち」のような)を得ることが出来ず、その結果主役から降ろされてしまったのかなと思います。

 

では、主人公となった悟飯はどのようなキャラであるべきだったのでしょうか。

 

悟飯のもう一つの特性が「戦いは好きではないこと」で、これが少年誌的には非常に扱いにくかったのだろうと思います。ドラゴンボールはどうしても次から次へと強い敵が出てくる展開にならざるを得ず、それ故に悟空の好戦的な性格がマッチしていました。

悟飯が本気で戦わなければならない展開となると、より「悪い奴」を出さざるを得ず、戦わなければ世界や仲間が危機に陥るという展開にしなければなりませんでした。しかしその後登場したブウやビルスなどの敵キャラクターは、どれも絶対悪とは言い難いもので、おそらく鳥山明氏はあまり「凄く悪いキャラ」は出したくなかったのだろうと思います。そうなると、余計に悟飯の出番はなくなります。

 

つまり、悟飯が「戦うためのモチベーション」を得なければ、主人公たり得なかったことになります。おそらく、未来のトランクスの世界のような絶望的な状況になれば、悟飯も真剣に戦うのだと思いますが、作者がそういう世界観にはしたくないということになると、かなりアイデアは限られてきます。

 

戦いが好きではないけど本当は強い主人公、となると、「るろうに剣心」などが思い当たります。この場合、人殺しはもうしたくないが、目の前にいる困った人くらいは助けたい、という点がグレートサイヤマンに似ており、悟飯に近い方向性と言えます。ただこの作品はそこから「過去の自分に戻りつつあることへの葛藤」とか「過去に犯した罪への贖罪」などがテーマになっていき、同じことをドラゴンボールでやるのは難しいと言わざるを得ません。というか鳥山氏はそういう話できないでしょうし。

 

ただ、何も悟飯が最前線でずっと戦う必要はないのかなと思います。悟飯が登場した後の悟空は、ほぼ「ラスボスとの一騎打ち」専用のキャラとなっており、それまでの敵との戦いは悟飯やベジータらサブキャラの役割となっていました。悟飯が主人公になったとしても、同様にラスボス以外とは別のキャラが戦えばいいわけで、実際悟飯は老界王神に力を引き出されるまでずっと最前線には出てきませんでした。

 

あえて言うなら、その「老界王神に力を引き出される」というパワーアップ方法が良くなかったのかなと思います。悟飯を修行する方法がなかなか思いつかなかったのだと思いますが、本人の努力で力を得たわけではないので、劣勢になったときに覆すテクニックや技がなく、結局ブウに吸収されるしかなくなってしまったというのがいわゆる「アルティメット悟飯」の限界でした。

 

もしちゃんと悟飯が修行するのであれば、必要だったのは「戦闘力のコントロール」であったのだと思います。悟飯は作中最強の力を秘めている設定でしたが、それを自在にコントロールすることはずっとできないままでした。少年時代はずっと怒りというトリガーが必要でしたし、一応成長した後は自分の意思で超サイヤ人2になれたようですが、ダーブラ戦ではなっていないように見えたりと曖昧で、結局セルを倒した時ほどの力を引き出すことはできなくなっていました。

悟飯はそもそも自分の戦闘力をしっかりコントロールする訓練を積んでいません(子供だったから当たり前ではあるのですが)。平時でも超サイヤ人でいられる訓練は悟空とともに積みましたが、その後超サイヤ人2の力をコントロールする修行は、おそらく行っていなかったはずです。だから、もし悟飯が修行するのであれば、まずはそこからだったのだと思います。その上で、更に上の力を引き出す訓練をして、ようやくアルティメット悟飯となるのが本来あるべき流れだったはずです。

 

悟空は、少しずつ修行をして超サイヤ人の力をコントロールしていき、最終的に超サイヤ人3までたどりつきましたが、悟飯はかなり過程をすっ飛ばして超サイヤ人2までたどり着いています。そして、実際にはそれ以上の力が眠っていたわけで、これをコントロールするのは至難の業であったのではないかと思います。それこそ、フルパワーでいられる時間はそんなに長くない、と考えるのが自然な流れで、ノーリスクノー消費のアルティメット悟飯はあまりにもチートすぎます。チートすぎるが故に、その先を描くことができなくなってしまったとも言えます。

本来は、悟飯は「秘めた力をコントロールできるようにはなったが、ずっとその状態ではいられないので、瞬間的にその力を発揮する」という界王拳的な能力を得るべきだったのかなと思います。

 

もう一つ、悟空にはない悟飯の特性に、「怒った時は相手に容赦しない」というものがあります。キレた時は本気で相手を殺せるのが、悟空との違いです。フリーザに「お前なんか死んじゃえー!」と言えたり、セルジュニアを一撃で撲殺したりする一面が、悟飯の個性でもあります。これも、「本来の力を発揮したときだけ残忍になる」という形で反映させられたのかなと思います。

 

そこまで考えて、これってフリーザに近いのかなと思ってしまいました(笑)力の大会でフリーザが味方になる展開を知ったからそう思えたのかもしれませんが、フリーザは力をコントロールできないから変身してパワーを下げていたキャラですし、普段は敬語で穏やかにしゃべりますが、キレると荒っぽい口調になります。

悟飯も平時は穏やかな青年であるものの、力を解放すると残忍になるというキャラ付け、つまりフリーザの味方版的なポジションで主役として描かれれば、もう少し違った展開になれたのかなと思いますね。

主人公が相手を殺すのを躊躇わない残忍なキャラなのはドラゴンボールらしくない、かもしれませんが、そこはストッパーとして悟天なりビーデルなりがいるわけですし、ピッコロや家族を得たベジータもいますから、その辺が支えて心理的に成長すれば良いんじゃないでしょうか。

 

現在の「超」の時間軸でも、悟飯がそういうキャラになってもいいんじゃないかと思います。主人公ではないわけで、ゴッドとは別の力を得るもその時に性格が豹変してしまう、というのはアリだと思います。正直なところ、大人になった悟飯が「怒る」以外で戦闘力を上げるアイデアはやはり難しく、力の大会でも悟飯の活躍のさせ方にアニメスタッフがかなり苦心していたように見えましたから、そういう展開をむしろ希望したいところです。

ただ、鳥山明氏は悟飯を描くよりも悟空とベジータを描く方が楽しそうなので、多分アニメオリジナルでもない限りそういう話にはならないんだろうなぁ…とも思います。ただ、ピッコロが神の気を会得することも原理的には可能でしょうし、悟飯とピッコロにももう少しスポットを当ててもいいんじゃないかと思うので、そのあたりアニメには頑張って欲しいところです。未来トランクスのパワーアップのさせ方が酷かったのであまり期待はしていませんが。

「神と神」以降の世界観が示したセル編・ブウ編の「デフレ」

 「神と神」以降登場した「神の領域」により、ブウ編までの強さはカスみたいなものだったというレベルのインフレが発生しましたが、「力の大会編」では神の領域の強さが曖昧となり、戦闘力の高さの基準が良く分からなくなってしまった部分があります。

 ドラゴンボールはジャンプ漫画の例に漏れず、パワーインフレの歴史を重ねてきました。特に超サイヤ人が登場した後は、敵と味方が交互に少しずつ強くなっていくインフレゲームに突入していたイメージがあります。その中でどんどん強くなっていったキャラクターたちが、手も足も出ないビルスゴールデンフリーザという新たな敵と、ある程度戦えてしまう17号や他の宇宙の戦士たちは一体何なんだという感想を、ずっとドラゴンボールを見てきた人ほど思ってしまうと思います。

 

 ただ、よくよく考えると、そもそも人造人間・セル編からブウ編までの間、実はそんなにパワーインフレは起きていなかったんじゃないか、と思い始めました。実はこれらのシリーズの間、そんなに戦闘力の上昇は起きていなくて、一つコツをつかめば壁を越えられる程度の領域でしかなかったんじゃないか、ということです。

 

 というのも、例えば人造人間なんかは、実は超サイヤ人とそこまで実力は離れていなかったんじゃないかと思います。以前の考察でも述べましたが、人造人間の強みは吸収や永久エネルギー炉によってそれまでの戦い方をさせない点にありました。吸収タイプの人造人間には気功波の類が通用せず、物理攻撃でしかダメージを与えられませんし、永久タイプの人造人間はスタミナが無限であるため、瞬間的に大きな力で攻撃しないとジリ貧になってしまいます。ベジータ対18号の戦いなどはその典型で、最初はいい戦いが出来ていたものの、決定打を与えられないままエネルギーを消耗した結果、普通にダメージを受けて倒されてしまっています。それは裏を返せば、消耗さえしなければ勝ち目はあったということになります。

 通常、普通の気を持つ人間同士が互角の戦いをすれば、同じペースで消耗していき、戦いの終盤にはどちらもかなり大きく気を落としていることになります。例えば悟空とベジータが戦った際、悟空は界王拳で大きく消耗し、ベジータは大猿化のためのパワーボール生成にかなりエネルギーを使っていました。ダメージの大きさもあり、終盤は怒り状態になっているとはいえナッパにさえダメージを与えられなかった悟飯と互角レベルの戦闘力しか残っていませんでした。フリーザと悟空の戦いも、悟空は痛めつけられた上20倍界王拳を使った後の超サイヤ人化だった悟空と、元気玉で大ダメージを受けたフリーザの戦いであったため、なかなか決着がつきませんでした。悟空の体力が満タンであったなら、トランクスがやったようにフリーザは瞬殺できたはずです。

 それに対し人造人間は、同じように勝負しても全く戦闘力が落ちないため、段々消耗していく超サイヤ人では分が悪かったのだろうと思います(万全の状態の超サイヤ人と互角の勝負が出来るだけ十分凄いのですが)。それに対し、ベジータ精神と時の部屋で出した結論は、瞬間的により大きな気を出すために肉体を強靭化することでした。気の絶対量が増えたというよりは、「身体が耐えられないほどの全力を出しても耐えられるように肉体を一時的に強化する」という変身であり、それはかつてのフリーザのように、超サイヤ人自体が本当はもっと大きな戦闘力を持っていたということなのだろうと思います。そしてこの形態になれば、人造人間も、それを吸収したセルも相手にならないパワーを発揮することが出来ました。

 それを上回る完全体セルも、更なるパワー重視の変身をしたトランクスの戦闘力が自分より高いことを明言していました。つまり、単純な戦闘力の差であれば、超サイヤ人が全力を出した状態ではセルより上だったということになります。だからファイナルフラッシュや瞬間移動かめはめ波が直撃すれば半身が吹き飛ぶくらいにはダメージを受けてしまうわけです。

 

 では何故完全体のセルは超サイヤ人たちを圧倒することができたのか。セルは単純に超サイヤ人よりも優れた肉体を持っていたので、より超サイヤ人クラスの戦闘力をコントロールすることができたからなのではないかと思います。セルは超サイヤ人に近い特性を持っており、アニメではオーラが金色に同じ効果音でしたし、トランクスと同じパワー重視の変身も可能でした。自爆からの再生後は超サイヤ人2と同じスパークも発生していましたし、本質的には超サイヤ人と同質の力を持っていたと思われます。それを筋肉を増幅させたベジータやトランクスよりも、体を慣らした悟空や悟飯よりもコントロールできる肉体(と、17・18号のエネルギー炉?)を持っていたことから、彼らに負けることはなかったのだと思います。ある意味では旧劇場版のブロリーも同じようなものだと言えそうです。

 つまり超サイヤ人の領域に達した戦いでは、単純な戦闘力は超サイヤ人が独力で発揮できる限界パワーが最大であって、それをどこまで瞬間的にコントロールできるかどうかの勝負であったと言うことができます。もし超サイヤ人の戦闘力を1億5000万とするのであれば、おそらくそこから最大の戦闘力の数値はほとんど変わっていなかったのではないかと思います。1億5000万の戦闘力をどうやってコントロールして相手にぶつけるかの勝負に変わっていたと言うことです。

 この壁を一つ越えたのが、超サイヤ人2という形態でしょう。悟飯は肉体的に大きく変化したわけではないにも関わらず、これまでとは圧倒的に異なるレベルの力を発揮していました。再生前のセルがフルパワーで放ったかめはめ波も易々打ち返していることから、単純に気の絶対量、戦闘力で超サイヤ人レベルを上回っていたことがわかります。つまり根本的に1段階上のレベルに達したと言えます。

 この超サイヤ人2は、混血で凄まじい力を秘めた悟飯だからこそなれた形態だと当初は思われていましたが、その後悟空もベジータも修行で変身可能となったことから、鍛えればこの領域に達することは可能であったと考えられます。理屈はわかりませんが、セルが自爆からの再生で(サイヤ人の特性のおかげで)この領域に達したということを考えると、修練を積めば変身可能なもので、悟飯だけは元々秘めた力が大きいが故に大した修行もなくそれだけの変身ができたというところでしょうか。

 

 ブウ編に関しては、この超サイヤ人2の領域の戦いだったと言えます。ダーブラもそうでしたし、最初に登場した魔人ブウも、ベジータは一方的にボコボコにし気で体を貫くことも可能でした。ただ、ブウは物理攻撃で一切ダメージを受けない仕様である上、破片が少しでも残っていれば無限に再生可能で体力も減らないというチートすぎる肉体を持っていたので、そもそも「倒すことができない」存在でした。防御に気を使う必要がないため攻撃に気を全振りできることから、威力の高い技を一瞬で繰り出すことができ(セルの全力かめはめ波クラスを乱発できるというイメージ)、相手をお菓子にしたり回復させたりといった魔術的な能力も持っていることが、強さの理由です。そしてその肉体は、超サイヤ人2のベジータが命を燃やし尽くしても消しきれないほどのものであるため、耐久力は超サイヤ人2の全力以上であったと思われます(ベジータは地球を消さないように自爆したと思うので、地球ごと自爆してたらどうなっていたかはわかりませんが)。

 ブウを完全に消すために必要だったのが、「超サイヤ人3クラスの気」でした。悟空はそれが可能であったということから、超サイヤ人3の全力であればブウを消滅することが可能だったと言えます。もちろん、その超サイヤ人3のゴテンクスやそれ以上の力を得た悟飯を吸収したブウには、ベジットでなければ対抗できなかったのは言うまでもありません。

 超サイヤ人3の原理も名言はされていませんが、「エネルギーの消耗が激しい」「時間制限がある」「時間という概念がある現世では原則として変身してはいけないもの」というキーワードから、超サイヤ人2が持っているエネルギーを期間限定で凝縮・増幅させたものということなのかなと思います。それくらいの力を出せば、ブウを消滅させることができたということですが、本質的には超サイヤ人2+界王拳のようなものなんじゃないかと個人的には考えています。

 

 つまり、フリーザを倒したあとのドラゴンボールの物語において、合体・吸収を除けば超サイヤ人超サイヤ人2→超サイヤ人3の3段階しか戦闘力の増幅は起きていなかったんじゃないかと思います。セルは超サイヤ人超サイヤ人2の間、ブウは2と3の間くらいの戦闘力を持っていて、戦闘力以外の特殊能力を含めて悟空たちを苦しめていたイメージです。

 これはあくまで「超サイヤ人」が持っている気をいかに増幅させ、それを肉体でコントロールするかの過程のものであって、「技」の習得に近く、そのキャラ本人の力を鍛えるという意味でのレベルアップはあまり起きていなかったんじゃないかと思います。フリーザ編ではサイヤ人が瀕死と回復を繰り返して「本人自身が」何回も強くなっていきましたが、セル編以降はそのパワーアップは超サイヤ人1→2→3の2回しか起きていないということです。

 それに対し、老界王神の力でパワーアップした悟飯は、超サイヤ人にならずとも超サイヤ人3以上の戦闘力を発揮していました。これこそ、本当の意味での「レベルアップ」であり、超サイヤ人に頼らなくてもなれる素の最高レベルに達した状態であったのかなと思います。そしてその更に上がビルスら神の領域であり、それはフリーザがちょっと修行すれば簡単に達することができる領域でもあったのでしょう。だから他の宇宙でも才能ある者が修練を積めばそのレベルになることは可能なわけです。

 

 超サイヤ人ゴッド以降のパワーアップについては、映画「ブロリー」でもう少し整理されると思うので、それを待って考察してみたいと思います。