どらごんぼーる考察

がんだまぁBlogからドラゴンボール記事を移植しました。以後ドラゴンボール考察はここで展開します。

人造人間・セル編の本当の悪役は誰か

 たまたまドラゴンボール改CS放送で見ていて思ったのですが、やっぱり人造人間ってあんまり悪役っぽくないんですよね。

 例えば17号・18号は、誰も殺してないんですよ。悟空を殺すという造られた目的を果たすために行動してはいるものの、その過程で車を奪ったり服を奪ったりする中で一般人を傷つけてはいないんです。戦いを挑んできたベジータ達も殺してはいません。というか、17号と18号はベジータ達と戦う必然が全くないので、ただ因縁つけられたので返り討ちにしただけとさえ見えます(苦笑)。それをより強調しているのが16号ですね。悟空を殺すという使命は覚えているものの、それ以外については非常に温和です。

 また、セルについても、力を上げるために何人もの一般人を吸収してはいるものの、その目的は完全体になるという一点だけであり、単にそのために手段を選ばないだけという描かれ方をしています。だから、ピッコロもベジータもトランクスも殺していませんし、16号も完全破壊はしませんでした。最終的には踏みつぶして破壊しましたが、これも悟飯を怒らせるための一環でしょう。自爆からの再生後にトランクスを殺しましたが、これは流れ弾のようなもので特に狙ってやったわけではないような言い方をしていました。

 

 では、19号・20号についてはどうでしょうか。19号は20号の命令を聞くだけのマシーンでしかありませんでした。20号=ドクター・ゲロも、単に悟空を殺すためだけに人造人間を作っただけですし、自身を人造人間化したのは単に永遠の命を得るため、セルを作った目的も悟空の殺害ではなく単に究極の生物を作りたかっただけであるようです。マッドサイエンティストではあっても、ピッコロ大魔王やフリーザのような「戦わないと、地球人類が絶滅してしまう」レベルの極悪人とは少し趣が違うと言えます。

 

 そもそも、人造人間編の悟空たちの目的は何だったのでしょうか。それは、「滅びの未来を回避すること」でした。トランクスの未来のような悲劇が起きないようにするために、人造人間に先制攻撃を加え、戦って倒すことが目的でした。しかし、実は16号~20号までの人造人間も、セルさえも、トランクスの未来のような凄惨な世界を造る気はあまりなかったようなのです。

 起きたことだけを羅列します。

 

・悟空たちがトランクスに言われた人造人間の出現ポイントに移動。戦いを挑み19号を破壊、20号は逃走

・新たに現れた17号・18号にベジータ達が戦いを挑むも、敗れる。

・神様がセルの存在に気づき、ピッコロと融合。戦いを挑むも逃げられる。

・17号たちがカメハウスにたどり着いてしまったためピッコロが迎撃。そこにセルが現れて17号を吸収する。

・修業したベジータがセルを圧倒するも、好奇心から完全体になることを許した結果、逆転されトランクス共々敗れる。

・セルがセルゲームを開催。悟飯の秘められた力を知ったセルがそれを引き出させようと16号を破壊。覚醒した悟飯に倒される。

 

 こうしてみると、「誰も悪いことをしようとしていない」んですね。むしろ悪いことをする前に倒そうとして失敗を重ね、最終的に完全体になったセルが悟飯を怒らせて返り討ちに遭うというだけの話になってしまっています。

 そもそも最初に現れた19号・20号は何をしようとしていたのでしょうか。実はそこから不明のままなんです。悟空を殺すためだとしたら行動を起こす場所が無関係すぎますし、そもそも16号にインプットされていたくらいだからドクター・ゲロは悟空の家も知っていたはずです。セルのように一般人の気を吸収してパワーアップしようとしていたのかもしれませんが、ヤジロベーのエアカーを破壊したのは単なる無差別破壊のように見えました。「最初は未来の人造人間のように破壊活動を行う予定で描いていた」ということなのだと思いますが、本来の19号・20号の目的が何であったかは別として、悟空たちが19号・20号は「未来の人造人間と同じように行動するだろう」という予測に基づいて行動していたことは確かです。

 

 そう、すべての元凶は「未来の17号・18号がとんでもないワルだったこと」なんです。100%悪役と言えたのは、実はこの未来の人造人間だけなんですよ。こいつらだけは何の擁護すべき点もなく、トランクスに瞬殺されても惜しくない存在でした。こいつらがとんでもない悪であったせいで、原作世界の悟空たちは人造人間全てを悪と決めつけ、倒そうとしてしまったんです。

 つまり人造人間・セル編での悪役というのは、本当に「未来の人造人間」だけなんです。だから、これらをトランクスが倒して終わるわけですね。これらがいなければ、悟空たちは17号・18号と和解できたかもしれませんし、セルともいい好敵手になれたかもしれないんです。

 逆に言えば、ちゃんと人造人間編を「悪役を倒して終わる」話にするためには、何故未来の人造人間が悪い奴だったのかを明らかにし、同じ原因で悪に染まる存在を現代にも発生させるような演出が必要だったのかなと思います。以前考察で未来の17号・18号と魔人ブウの類似性を指摘しましたが、ブウの場合はそもそも存在そのものが悪だったということになりました。17号と18号の場合は、悟空を殺すという目的がすでに消失していたために暴走してしまったのではないかという推測を行いましたが、同じように「目的を消失してしまったことで暴走」したのであれば、例えばセルが完全体になることに失敗し、そのせいで暴走してしまい逆に手が付けられなくなってしまったという展開もありだったのかもしれませんね。ある意味自爆しようとしたセルがそれだったわけですが、それを単に悟空を死なせるための演出だけにせず、本当に倒さなければならない理由にしたら、もう少しすっきりした物語になったのかもしれません。

 

戦闘力をコントロールして戦うということ

 サイヤ人編~フリーザ編において、地球人は戦闘力をコントロールできる特殊な民族であるという説明がされていました。これに対し、フリーザ軍関係者はコントロールが出来ないので、スカウターで大体の戦闘力がわかる、という描写がされていたわけですが、実際には敵側もある程度戦闘力をコントロールしていたように見えます。

 地球側の人間が行う「戦闘力のコントロール」と、それ以外の宇宙人が行う戦い方にはどう違いがあるのかを、少し考えてみました。

 

 まず、地球側のキャラクターにおいて、当初「気の放出」は必殺技を使うときだけに行うものでした。かめはめ波魔貫光殺砲を使うときだけ戦闘力が急上昇するように描かれていたことから、元々地球では気は瞬間的に爆発させるものであって、普段から全開にして戦うということはなかったようです。

 そしてラディッツがこのことに驚いていたことから、サイヤ人フリーザ軍の人間は常時最大戦闘力を放出していると解釈できます。ただ、常にフルパワーでいるというのは身体的にきついと考えられ、おそらくは「戦闘モード」になると持っている気を全て開放するという戦い方をしていたのだと思います。その証拠に、ナッパもべジータも、戦う段階になって初めて気を集中させ、凄まじい戦闘力を発揮しています。

 

 つまり、地球とそれ以外の星の戦士たちでは、根本的に戦闘スタイルが異なっているのです。地球人は、大技を使うときしかフルパワーを出さず、それ以外の戦いでは基礎的なエネルギーしか使用していません。というかほとんど気を使わず、パンチやキックなどの格闘術だけで戦うという文化だったのだと思います。

 それに対し、他の宇宙人は、戦うときは持てる気を身にまとった状態で戦うのが当たり前だったようです。おそらく気の開放を身につけ、より高い戦闘力をまとって殴り合える者が強い者だったのでしょう。

 最大戦闘力を100としたとき、地球人は常に0~100の間で必要に応じて放出する気の量を変えられる(というか100使うことはまずない)のに対し、それ以外の宇宙人は10か100かしかモードがない、というイメージですね。

 

 明確に地球側のキャラが気を放出した状態で戦うようになったのは、ギニュー特戦隊と戦うときの悟飯・クリリンが初めてで、それまでは悟空も界王拳を使ったときしか「気の開放状態」にはなっていなかったように描かれていたと思います。悟飯とクリリンは最長老に潜在能力を引き出されて、自然と気の開放を行えるようになったのかもしれません。

 悟空は宇宙船内での修行で大きく実力を上げても、やはり気の開放状態にはならず、瞬間的に戦闘力を高めて一瞬で敵を倒す、という戦い方をしていました。これはフリーザ戦での10倍界王拳の使い方にも現れており、基本的に悟空は戦い方のスタイルは昔から変えていないようです。

 

 スタイルが変わったのは、超サイヤ人に変身できるようになってからですね。超サイヤ人は、常にオーラを発しており、フリーザ軍側同様常時戦闘力を発散している状態になっています。おそらくこれが「身体への負担が大きい」と老界王神に評された理由であり、精神と時の部屋で悟空と悟飯が克服しようとしたことでもあったのだと思います。

 簡単に言えば、フリーザ軍や超サイヤ人は常に「気の鎧」をまとった状態で戦うのに対し、地球人はこれをまとわず必要なときにだけ気を発する、という戦い方をするということですね。

 フリーザ軍側でも戦闘力のコントロールが可能なキャラとして、ギニューと1回目の変身のフリーザが明言されていました。ただこれは0~100のコントロールというよりは、10・50・100などの段階的なコントロールが可能だという意味なのかなと思います。最終形態のフリーザなんかも、50%や100%という表現をしていましたが、最初から凄まじい戦闘力であることが表現されていましたので、0にはできずデフォルトで数百万の戦闘力は常にまとっているのだと思います。

 

 超サイヤ人3までのバリエーション変身は、単純にまとう「気の鎧」の量を増すというものであると考えられます。べジータやトランクスが変身した第2、3段階の変身は、肉体を瞬間的に強化することでより大きな気に耐えられるようにしたもので、悟空と悟飯が身につけた第4段階の変身は、肉体に負荷をかけず自然に超サイヤ人でいられるほど身体を慣らしたことで、より強い「気の鎧」に耐えられるようになった状態と言えます。そこからさらにもう1段階強い「気の鎧」をまとえるようになったのが超サイヤ人2、生命力を無視するほどの凝縮された「気の鎧」を作り上げてまとうのが超サイヤ人3と言ったところでしょうか。

 「神の気」は気の質そのものがワンランク上になった状態で、それまでの普通の気をまとった状態では勝負にならないほどの差があると思われます。少なくとも「神と神」の説明ではそういうことなのだと思います。

 

 一方で、フリーザ超サイヤ人のレベルになると、本気で攻撃すれば星を一撃で破壊してしまうくらいの気の量になっていました。そのため全力を出して戦うことはあまりなく(セルとのかめはめ波合戦の時くらいでしょう)、いかに瞬間的に気を高め、相手の「気の鎧」の上からダメージを与えられるかの勝負になっていたと考えられます。

 例えば、完全体のセルは悟空たちを遥かに上回る戦闘力を持っていましたが、それでもファイナルフラッシュや瞬間移動かめはめ波を食らった際は肉体が吹き飛んでいました。つまり瞬間的なフルパワーを防げるほどには、その時点でのセルの「気の鎧」は強くなかったということになります。フルパワーで戦ってはすぐに星が壊れてしまうレベルの戦闘力であったが故に、瞬間的な気の爆発力で戦う次元になっていたというわけです。

 気がない人造人間は、気がないのではなく、人間の気とは違うエネルギーで動いているということだと思われ、それが神の気同様に感知できない理由であったと考えられます(エネルギーがなかったら、光弾を撃つこともできないですからね)。また気が見えないからこそ、どのくらいの気の量で攻撃したら倒せるかがわからず、それが戦いにくかった理由なのかなと思います。かといってずっとフルパワーで戦うとスタミナが先に切れてしまいますしね。18号と戦っていたべジータなんかはそんな感じで敗れたので、超サイヤ人とはそこまで実力は離れていなかったんじゃないかと思います。桁違いの戦闘力で殴られるとどうしようもなかったのか、パワーアップしたセルやトランクスには勝てませんでしたが、気が無尽蔵であることが気の総量の高さ以上に有利に働いていたと言えます。力の大会で17号が活躍できたのもその辺にあるのかもしれませんね。

 また魔人ブウはちょっと気の使い方が異なっていたのかなと思います。おそらく、その肉体が異常に衝撃に強いので、「気の鎧」をほとんどまとう必要がなく、それ故に登場時はそれほどでもない戦闘力であると思われたのでしょう。実際は、攻撃のときにのみ気を発するので、いきなり莫大な破壊力の攻撃を行うことが可能でした。ブウ本人の気の量ではなく、その肉体の耐久力を超える気を使わなければ倒せないため、融合や元気玉でなければ対処できなかったのでしょう。

 

 つまり、超サイヤ人登場以降は、いかに強大な「気の鎧」を身につけ、一瞬の攻撃でその「気の鎧」を破るダメージを与えるかの勝負になっていたということになります。

 人造人間が強かったのは「人工の気の鎧」を身につけていたからで、セルが強かったのはより強大な「気の鎧」をまとっていたからに過ぎません。もしかしたら17号・18号の永久エネルギー炉を吸収しているからこその力だったのかもしれませんね。

 魔人ブウは「気の鎧」の概念の外にある物質で出来ているために、これまでの戦い方が通用せず、気を攻撃力に全振りできるが故に苦戦した、ということなのかなと思います。「ブウ同士ならダメージを受ける」なんて描写もありましたが、ブウの気はブウの肉体にダメージを与えることができる性質のものだったのかもしれません。

 「神と神」以降は、「神の気」にダメージを与えられるレベルの気をコントロールすることが必要とされるようになったのかなと思います。「身勝手の極意」は、決して気の量が増えたり性質が変わったりするものではなく、考えるより早く身体が動く状態になることで、相手が攻撃や防御をするよりも速く、より高い気の力で攻撃や防御を行えるという状態なのでしょう。相手からすると「スピードが速すぎて防御が間に合わない」「反応が早すぎて攻撃が当たらない」という状態かなと思います。神の気も常にまとっているものではなく、必要なときだけ発するものであって、超サイヤ人ブルーのようにオーラを常にまとっている状態は、その性質が神の気であっても本来の神の戦い方ではないのだと思います。またゴールデンフリーザやヒット、ジレンのように超サイヤ人ブルー以上の戦闘力を持っていたキャラは、神の気に匹敵するレベルの「気の鎧」をまとうことができ、根本的にサイヤ人よりも優れた存在だったのだろうと思います(サイヤ人が「神」にならなければ到達できないレベルに、神にならなくても到達できるという意味)。

 

 こうなると、やはり何故人造人間が超サイヤ人に匹敵するレベルの人工の気の鎧をまとえていたのかが気になるところですね。人工エネルギーの研究をしていたら、あまりにも高すぎるエネルギーの生成に成功してしまったということなのでしょうか。実はドクター・ゲロはアンドロイドよりもエネルギー工学の天才だったのかもしれませんね。

 

 

 

ドラゴンボール超 宇宙サバイバル編 反省会

 ドラゴンボール超の宇宙サバイバル編が完結しました。

このシリーズは、開催前の戦いや前日談の時点で敵味方の強さが曖昧で、その時の演出でいくらでも強くなったり弱くなったりするので、そこに強い抵抗感を持っていたのですが、最後の纏め方はしっかりしていて、個人的には未来トランクス編よりずっと納得がいくシリーズでした。

 

というのも、ブルーより強いジレンに身勝手の極意・兆でも勝てず、極めることで圧倒するも、悟空の身体がそれに耐えられず止めを刺す前に逆転というところで、生き残っていたフリーザと悟空が2人がかりでジレンを落とし、17号が残っていたので第7宇宙の勝利、という流れはとても分かりやすかったからです。

それに最後の最後で悟空とフリーザが共闘するという演出も、作画も含めて見事でした。フリーザが最後に使った技がかつて悟空のかめはめ波を破った突撃というのも良かったと思います。

ラスト2、3話の構成はおそらく最初から練られていたのかもしれませんが、良く出来ていたと思いますね。それに至る話では、色々と困ったことがありましたが(苦笑)。

 

おそらく、最後にジレンだけが残った時点でほぼ負けは確定していたんだろうなと思います。一番強いジレンが、全員落とせば勝ちだという目論見だったところが、悟空とほぼ相討ちのような状態になったところで、より多くの仲間が残っていた第7宇宙の方が有利だったということです。

そういう意味では、もっとジレンのキャラを当初から出していればなぁと思いますね。一番強いが誰も信頼していないジレンは最後まで動かず、仲間が全員やられてから全力を出し、残っている満身創痍の敵を蹴散らして終わらせる、という算段が見えていればより綺麗な話になっていたと思います。

 

 

このシリーズの最大の問題点が、冒頭に述べたように「演出でいくらでもキャラの強さが変わること」でした。戦闘力を基準にして絶対的なキャラの強弱をつけるのが特徴であったドラゴンボールにあるまじき演出でしたし、そうでなくともボロボロになったキャラが次の話では再び全力で戦っていたりと、脚本家間の連携が取れていないような演出がいくつもあったのが気になりました。最たるものが、全ての力を使い切ったと明言されたべジータが次の話で普通に変身していたことでしょう(笑)。最後は本当に変身もできずにボロボロになって敗れたべジータですが、そこに至るまでの順番がめちゃくちゃでしたね。

ナメック星での悟飯・クリリンべジータの立ち回りのように、戦闘力で明確に劣っていても機転や工夫で生き延びるという演出は可能だったと思うんですが、それが全く見られなかったのは残念でした。

未来トランクス編でのゴクウブラックなんかもそうだったんですが、ブルーを瞬殺出来るように描きながら後半は劣勢になったりと、強敵を強く描きすぎる傾向もあったと思いますね。ジレンは当初触れることすら適わないような強さだったのに、いつの間にか悟空とべジータの2人がかりならいくらでも時間稼ぎできるような関係になっていて、強さの基準がよくわからなくなりました。

 

その延長として、強さの根拠が曖昧だったというのもありますね。悟空に関しては(原作者が設定しただけあって)「神の気」や「身勝手の極意」という明確な根拠があるのに対し、そのどちらもないジレンが何故強いのかとか、べジータが見せたブルーを超えた力は一体なんだったのか(破壊の力を無効化していたのは何故?)とか、そういう説明が一切ないというのが非常に「らしくない」と思いました。トランクスの擬似ブルー形態なんかもそうでしたね。

正直ゆでたまご理論レベルでもいいので、何らかの理屈を設定すべきだと思うんですよね。かつての劇場版だって悟空のオリジナルの決め技には常に何らかの理屈が設定されていましたし(龍拳は微妙ですが)、ある意味ジャンプ漫画の基本だと思うんですが。

 

また17号が悟空・フリーザに次ぐメインキャラ扱いだったというのも首をかしげるものでした。17号の強さにもやはり理屈が説明されていませんし、一応べジータフリーザには明確に劣るという演出はされていたものの、強さはともかくそこまで大きく扱われるようなキャラだったかねという疑問が生じました。原作ではどちらかというとべジータに近い(世界最強を自称したり、挑発に負けてセルにやられたり)タイプのキャラだったんですが、悟空に似ているという言われ方をしていましたし、なんか女性ファンを意識していたんでしょうか。

 

ただ返す返すも、単なるパワーアップ合戦で終わらせず満身創痍の状態で悟空とフリーザに協力させて決めるという演出は見事でした。瞬間的に悟空を超サイヤ人に変身させたのも見事。未来トランクス編は「過程は良かったが結末がクソ」でしたが、その逆だったかなと思います。

 

さて、この続きは劇場版となり、どうも悪そうな新しいサイヤ人が敵になるようです。フリーザ軍が復活したことで三つ巴の展開も予想されますし、結局コントロールできずに終わった身勝手の極意の完成は鳥山氏自身で描くことになりそうですが、過去2作の映画では原作で出来なかった落とし前をつける内容にしていただけに、次回もファンとして期待したいと思います。

個人的には、「未来トランクス編」はDBZで言う「魔凶星編」、「宇宙サバイバル編」は「あの世一武道会編」のようなもので、どちらも原作の穴埋めオリジナルエピソードでしかないと思っているので(シャンパ編は悟空とピッコロが免許取りに行く話程度のレベル)、次回の劇場版だけが真の「ドラゴンボール超」だと思って待ちたいですね。

「修行をすればするだけ強くなる」のがドラゴンボールの世界

 原作で限界を極めた悟空の、さらに上の領域として設定されたのが、「神」の領域です。神の気を持つ者はそれまでの魔人ブウまでの基準では全く太刀打ちできず、同じ神の気を得ないと対等には戦えない、というのが「神と神」で示されたラインでした。

 

 しかし、その後ゴールデンフリーザ、ヒット、ジレンと「超サイヤ人ゴッドの力を持った超サイヤ人」と同格以上の相手が次々と登場し、しかもそれらに神の気を持っているという描写がないことから、別に神の気を会得しなくても神のレベルには達することができるらしい…という雰囲気があります。これは一体どういうことなのか、という話です。

 

 結論から言ってしまえば、「サイヤ人より優れた宇宙人が鍛錬を重ねれば、神の気を得なくても破壊神クラスの戦闘力を得ることは可能」ということなのかなと思います。

 というのも、まず普通の超サイヤ人に瞬殺されるレベルのフリーザが、わずかな修行で超サイヤ人ブルーと同等以上の力を得たということから、フリーザのような超宇宙生物であれば鍛錬で神クラスの域に達することができる、というラインが示されたわけです。

 ヒットは詳細な描写はありませんが、ジレンは修行に修行を重ねて今の強さを得たということが語られたことから、基本的に「修行で神の領域に達することは可能」と言えます。

 

 原作漫画の時点では、敵役が修行してパワーアップする、ということはありませんでした。フリーザはもちろん、セルも魔人ブウも基本的に吸収でしかパワーアップしていません。しかしかつての敵である天津飯やピッコロ、べジータなどが修行によりどんどん強くなっていったのと同様に、セルやブウも修行によりさらにパワーアップする可能性は十分あったわけです(実際、ブウは力の大会のために修行していた時にパワーアップしていた節が見られた)。修行しない状態で当時の悟空たちを大きく上回る力を持っている敵に、修行することで対抗するのがドラゴンボールの基本的なプロットでしたが、敵側がもし本気で修行したとしたら…というのが「超」に登場する強敵たちと言えるのかもしれません。

 

 そして同様に、以前指摘したように、17号なんかも修行していたのでやたら強くなっていたということが言えます(苦笑)。おそらくヒットも殺し屋としての腕を磨くための修行は行っていたのでしょう。長く生きてるみたいですし。

 そういうわけで、それぞれの宇宙に悟空のように鍛錬を続けてきた者たちがいて、そのトップレベルは神レベルになり得る、というのが「超」の世界観なんじゃないかなと思います。そもそも破壊神もその宇宙からスカウトされて就任することが可能なわけで、そうであるなら誰かが神クラスにならなければ破壊神という存在は生まれないわけです。なので、神レベルは複数現れても問題ないと言えます。

 

 ただ、そうだとしても、神レベルの力を持つ者はみんな神の気(つまり簡単には感知できない気)を持っていてほしいなぁとは思ってしまいますね。これはすでに神の領域に達した悟空やべジータの気すらいつの間にかみんな感知できるという設定になってしまっているので、少なくとも力の大会編では「神の気は察知できない」という設定は無視されているんじゃないかと思います。演出的な都合で。

 

 おそらく、セルやブウのような「生まれながらにして」強い敵が、最初から神レベルの戦闘力を持っているということはないんだと思います。多分。いや、そうであってくれ…。

トランクスが歴史を変えても変わらなかったもの~DB世界の因果律?

トランクスが未来からやってきたことで、悟空は病死を回避し、人造人間にだれも殺されず、やってきたセルさえも倒すことができました。歴史は大きく変わり、トランクスのいた世界よりも平和な未来を実現することができましたが、魔人ブウ編まで含めて考えると、実はあまり大きく歴史は変わっていないとも言えます。

 

変わっていないものを列挙します。

 

・悟空の死亡→心臓病では死ななかったが、セル戦で死亡

べジータの死亡→人造人間には殺されなかったが、ブウ戦で死亡

クリリンヤムチャの死亡→人造人間には殺されなかったが、ブウに殺される

・悟飯・ピッコロ・天津飯の死亡→人造人間には殺されなかったが、地球消滅で死亡

・世界の多くの人々の死亡→人造人間にはあまり殺されなかったが、ブウによりほぼ全滅

・トランクスの死亡→未来のトランクスはいずれもセルに殺され、現代のトランクスは地球消滅で死亡

 

まぁブウにより悟空・べジータ・デンデ・サタン以外は全て死んでいるので、トランクスの未来と一致して当然ではあるんですが、結局のところ世界は、人造人間による破滅は免れても魔人ブウによる破滅を免れなかったということになります。

メインキャラの中でもまず悟空が死んでいるというのが一致しており、またトランクスはどの世界でも必ず一度死んでいるなど、実はタイミングは多少ずれたとしても、ドラゴンボールの世界のキャラはどんなに歴史を変えても「死ぬ」という運命を変えることができないのではないか…と推測できます。

 

もちろん、単に話の展開で「まだ殺せる=ドラゴンボールで生き返れる」キャラはとりあえず殺しとくような作り方をしているので、当たり前といえば当たり前ではあるんですが、これをあえて「実はドラゴンボールの世界では、死ぬ運命を覆すことが出来ない」と考えると、面白いのではないかと考えました。

 

そして、その「死ぬ運命」を唯一覆せるのが、ドラゴンボールです。これなら死んでも生き返ることができます。トランクスの未来と原作世界の最大の違いは、死んでも生き返る手段があったということです。因果律を唯一変えられるのがドラゴンボールであるとすれば、それは老界王神が「ナメック星人にだけ許された反則技」と言ったのも理解できます。GTに登場した邪悪龍も、ドラゴンボールにより因果律を操作しすぎた罰、と考えればなんとなくそれっぽいですね。

 

ただ、もしそうだとすると、ブウに一度消されている地球は、いずれ滅ぶ運命だったということになってしまいます。トランクスの未来は、「超」により宇宙そのものが消滅してしまいましたし(苦笑)、どうもドラゴンボールの世界の地球は呪われているようです。

もしかしたら、ドラゴンボールを使うことで因果律を操作すると、その反動でより強い破滅が訪れるようになっていたりするのかもしれません。ドラゴンボールでより多くの人間を生き返らせた結果、地球全体が消え、最終的には宇宙さえ消えるように事態が進んでいってしまっている、と考えると、悟空たちが延々と強い敵と戦わなければならないストーリー展開にマッチするのではないでしょうか(笑)まぁ、そう考えると因果律というのはジャンプ漫画に宿命付けられた運命と言い換えてもいいのかもしれませんが。

 

ある意味では、魔人ブウというのは因果律を超越して生き延び続ける者を滅ぼすための存在だったりしたのかもしれません。他の星まで滅ぼしかねないため、界王神は倒そうとしていましたが。最終的には全王こそがその究極的な存在とも言えますね。なんでも消すことができますし。言葉の意味的には破壊神こそブウの役割をする必要があるような気がしますが、ブウの発生(なんかビビディが作ったわけではなくなったそうなので)はビルスの活動停止と連動していたりするのかもしれませんね。

 

このように考えたとき、どんなに歴史を変えても変わらない現実があったとしても、一度変わった歴史の中で新たに生まれたものが因果律の異分子になる可能性がある、という考え方もできると思います。

何が言いたいかというと、悟天の存在です。トランクスの未来では生まれ得なかった悟天が、原作世界では悟空が生きている時間が長かったために産まれることができました。他の未来には存在しない悟天こそが、因果律の定めの呪縛から解き放つ可能性になるのだ…なんて話の展開を思いついてしまいました。まぁ、公式というか鳥山明氏はそんな話は作らないと思いますけどね(笑)。

 

成長した悟飯は本来どのようなキャラになるべきだったか

ドラゴンボール超の宇宙サバイバル編があまりにもご都合主義過ぎて思考停止に陥っていたのでしばらくネタが浮かびませんでした。とりあえず悟飯が落ちてサバイバル編の扱いに区切りが付いたので悟飯ネタで行こうと思います。

 

というのも、制作側がすごく悟飯の扱いに苦慮しているように見えたんですよね。悟空と同じような等身・服装でありながら、悟空とは違うキャラとして扱わなければならず、かといって「こういう役割」というキャラ付けがしにくくなっているからです。一応、リーダーという役割は与えられていましたが、物語も作戦もクソもない展開だったのでほとんど生かされていませんでしたし、強さ的にもザコではないが、悟空たちには及ばないというポジションの使い方が分からないからか、その時によって強くなったり弱くなったりする安定しない使われ方をしていました。

これが少年時代のままであったなら、子供というキャラでいくらでも使い方があり、実際セル編までの悟飯はアニメオリジナルや劇場版でも非常に動いていた印象があります。成長させてしまったのが失敗ではあるんですが、これは鳥山氏自身が認めているところで、今更どうにもなりません。

 

そもそも、原作者である鳥山氏自身が扱いきれずに主人公を放棄させたキャラなので、それを他人がどう扱おうとも上手くいかないのはある意味当然なのですが、もう少しキャラ付けはできるのではないかと思い、少し考えてみました。

 

まず、少年時代の悟飯の個性は、「戦いが好きではない」が「キレると瞬間的に凄まじい戦闘力を発揮する」というもので、その時に限って言えば悟空以上の力を発揮することもあり得るというのが明確な個性でした。

ただ、だからといってキレても敵のボスを倒せるほどの力を発揮するわけではなく、瞬間的に劣勢を覆したり、味方のピンチを救ったりするのが精一杯という扱いで、本当の意味で全力を開放して悟空を超えるのは、セル編の超サイヤ人2覚醒まで待たなければなりませんでした。

 

青年時代になると、元々少年時代からその片鱗はあったのですが、「悪いヤツには容赦しない」という個性が加わり、正義の味方としての戦い方をするようになります。悟飯はキレた相手については完膚なきまで叩きのめしたり、「死んじゃえー!」と言ってしまえるので、ある意味悟空よりも敵を「殺せる」キャラではあります。セルやセルジュニアに対しても容赦していませんでしたし、アルティメット化して甘さが消えた状態では悟空とは異質の冷徹さを見せていました。

 

つまり、悟飯の性格は「戦うのは好きではないが、本当に敵と見定めた相手は徹底的に潰す」というもので、悟空が戦うのが好きで、相手を殺すよりも生かしてずっと戦い続けることを望むのとは極めて対照的であると言えます。むしろ戦うのが嫌いだからこそ相手の息の根を止めてしまえると言ってもいいのかもしれません。

 

これは前々から言っていたことなのですが、悟飯は戦いを望まない=回避したいと考えるはずなので、もっと戦わない方法を模索するキャラであるべきだったのかなと思っています。例えば、人造人間と和解するきっかけになったり、ブウをサタンのように手懐けることも悟飯ならできたんじゃないかと思うんですよね。戦いありきのドラゴンボールではそういうキャラが許されなかったということではあると思うんですが、「考え直してはくれませんか?できれば戦いたくなかったのですが…仕方ないですね」とか言っていきなり本気出して一瞬で終わらせるキャラとかだったらもう少し悟空やべジータとは違うカッコよさを出せたんじゃないかなぁとか思います。

 

まぁ悟飯の場合、戦うモチベーションがないので強くさせにくい、というのは理解できます。何もしなくても勝手に強さを求めて修行する悟空と違って、悟飯は敵がいるから仕方なくピッコロや悟空に鍛えられていただけなので、自発的に修行することは難しいでしょう。また、鳥山氏が過去に語っていたように、戦いが好きじゃないキャラを無理矢理戦わせる展開にするのに違和感があったというのも分かります。最終的に戦いを引退させて学者であり良い父親にさせたというのは、ある意味では鳥山氏の親心のようなものなのかなとも思います。

とはいえ今後もドラゴンボールが続き、色々なキャラを強くしていなければならないのであれば、悟飯をどう戦いに参加させていくかということも考えなければなりません。

 

ドラゴンボール超の描写で見れば、悟飯が戦う理由は間違いなく妻と娘がいることにできるはずです。いざというときに悟空やべジータに頼らずに戦える力を得る、というのは十分理由になると思うので、その辺で修行をしていくしかないんだろうなと思います。宇宙サバイバル編では、アルティメットの力を取り戻すだけで精一杯でしたので(そもそもアルティメットは変身ではないので取り戻すとかそういう話ではないはずなんですが…)。

というかもしかしたら、実は悟空やフリーザなんかよりよほど破壊神に向いているような気もしますね(笑)できるだけ破壊を望まないものの、本当にダメなものは容赦なく破壊できるのは、くしゃみで適当に星を壊す誰かさんよりはずっと向いているような気がします。まぁ、ストレスは大きそうですが。

 

外見的に悟空とかぶってしまうのは最早仕方ないので、基本的に悟飯は悟空と違う戦場で戦わせるべきなんだろうなとも思います。かつてのZの劇場版でのトランクスくらいの扱いでいいんじゃないかなぁと思いますね。

あとはとにかく「戦いはできるだけ避けたいと思う」「戦うと決めたら容赦なく潰す」というところを徹底して欲しいかなぁと…そんな風に思うのでした。

 

ビルスは何故超サイヤ人ゴッドと戦いたがったか

 破壊神ビルスは、あまり仕事熱心な神ではありません。その責務を果たさないがために、魔人ブウの暴走もフリーザの跳梁も許してしまっています。しかし、そのビルスが長い眠りから覚めてまで戦いたがったのが、超サイヤ人ゴッドでした。

 決してサイヤ人ではなく、特に強いヤツと戦いたがる性格でもないビルスが、何故そうまでして超サイヤ人ゴッドを求めたのでしょうか。

 

 結論から言うと、ビルスは破壊神の座を誰かに譲りたいのだと思います。ビルスは何度か悟空に破壊神にならないかと誘っていますし、フリーザに譲ってもいいとくらい思っていそうな節が見られます。おそらく、本人は破壊神の責務というものが好きではないのでしょう。

 何故ビルスが破壊神になったのかというくだりが不明なため、現時点では状況証拠からしか推測できませんが、ビルスは基本的にめんどくさがりで、破壊神の役割をしっかりこなそうなどとは思っていないことがわかります。

 おそらく、ずっと破壊神の後釜を探していて、やっと見つけた「神の領域」の存在たる超サイヤ人ゴッドの兆しが見えたために、それを強く求めたのだと思います。今のところ、それくらいしか説明がつきません。

 フリーザを放置していたのも、フリーザに破壊神の役割を与える可能性を検討していたからなのではないでしょうか。性格的に、破壊神になってしまったら色々と世界がヤバいことになりそうですが、やらかしたら全王に消されてしまいますし、お目付け役の天使もいますので、仮にフリーザが破壊神になったとしてもそこまで自由にはなれないのかなと思います。だからこそ、ビルスもその役目に息苦しさを感じているのかもしれません。

 

 話の流れから考えて、ビルスの後を悟空が継ぐという可能性は考えられません。かつて地球の神の座も譲られそうになりましたが、当然断っているのが悟空です。しかしもしかしたら、次に鳥山明氏がシナリオを書くときが来たら、ビルスの後継問題というのももう少し話に絡んでくるかもしれませんね。すでにバトルロイヤル編でも、他の宇宙では破壊神クラスのキャラと破壊神の関係性が描かれ始めていますし、ビルスと悟空の関係も、もう少し違ったものになるかもしれません。