どらごんぼーる考察

がんだまぁBlogからドラゴンボール記事を移植しました。以後ドラゴンボール考察はここで展開します。

孫悟空の驕り

 「復活のF」で、悟空は自分の力に自信がありすぎるあまり、油断しすぎる傾向があるとウイスに指摘されていました。しかし、過去の作中の悟空の振る舞いからが、そこまで悟空が油断をするという描写はないような気がします。

 実際の悟空の振る舞いを思い返してみると、どうでしょうか。

 

 まず少年時代は、あまりそういう傾向は見られません。最初の天下一武道会ジャッキー・チュンに負けたこともあり、世界にはもっと強いヤツがいると常に上を目指して修行していました。

 いわゆる「舐めプ」っぽい行動がみられるようになったのは、成長し身長が伸びてからでしょうか。第23回天下一武道会での天津飯戦では、ズボンの帯を奪うなど相手をおちょくる戦い方をしていました。

 ナッパは界王拳で瞬殺できるのにすぐしなかったのは、消費を抑えたいのと殺された仲間の恨みを一発ずつお見舞いしたかったからだと思うので、舐めプとはちょっと違いますね。

 ギニュー特戦隊戦では、「おめえはオラには勝てねえ、戦わなくてもわかる」と無駄な戦いを避けるようになりました。このあたりで一定のレベルより下の相手は試合相手にもならないとみなすようになってきます。

 

 間を一度飛ばして、魔人ブウ編では、超サイヤ人3になる前に、「オラもベジータも甘く見すぎていたよ」と、魔人ブウがそんなに強いと思っていなかったという言葉を発しています。この時点での悟空は、もう自分に匹敵する強さの敵はこの世にはいない、というところまで極めた自信があったようです。実際、ダーブラ含めたバビディ一味に対してはかなり余裕の態度を見せていました。

 おそらく、悟空は超サイヤ人2になり、その上の3まで達したことで、これ以上の世界はないと思い至っていたのだと思います。その上の世界をビルスに教えられ、また上昇意欲が生まれるに至るのですが、それでも油断癖を指摘されるということは、それだけ「強くなった」という自覚があるからなのでしょう。復活したフリーザに対しても落ち着いた態度でいましたし、戦闘力では負けている自覚があっても、すぐにピークが過ぎると看過していましたし、簡単には負けない自信があるようでした。

 

 あえて飛ばしたセル編ですが、この頃は悟空が心臓病になってしまったこともあり、あまり悟空が強い相手にどう挑むかという姿勢を見ることができません。そのため判断が難しいのですが、トランクスに未来を教えられ猶予が3年あったにも関わらず、悟空はたいしてパワーアップしていなかったこと、その後精神と時の部屋で1年修行しただけで大幅にパワーアップしたことを考えると、そこまで真剣に力を伸ばすことを考えていなかったように思えます。もちろん、悟空と同等に戦える修行相手がいなかったからでもありますが、超サイヤ人になったことでかなり強くなった自覚があり、人造人間がそれ以上に強いとはあまり信じられなかった部分があるのではないかと思います。実際、ベジータ超サイヤ人になったことでかなりの自信を見せており、18号に敗れた際はかなり困惑していました。

 悟空は強い相手を知る度に、それに勝つために修行に勤しむというパワーアップの仕方をしてきましたが、セルという相手がいても悟飯より先に超サイヤ人2になろうとはしなかったように、超サイヤ人への覚醒が悟空に「これ以上強くなる方法はないのではないか」と思わせてしまった側面があるのかなと思います。鳥山明氏が、超サイヤ人より強くするアイデアが思いつなかったと言っていましたから、作中の悟空もそう思っていたのでしょう。悟飯にセルの相手を任せたのは、悟飯が覚醒しないと超サイヤ人の上が見えなかったことの証左でもあります。

 

 そんな悟空が再び強さを目指すようになったのには、先述の通りビルスの登場が大きかったのですが、もう一つにベジータと一緒に修行するようになったというのが大きいのかなと思います。フリーザ編までは、亀仙人・カリン様・神様・界王様と何らかの師匠がいたことで強くなってきましたが、自分で修行するようになるとあまり身が入らなかったようにも思えます。同等の強さを持つ人物がいませんでしたし、精神と時の部屋では悟飯を超サイヤ人にして対等に修行をしていましたが、やはり息子相手では真剣になりにくかったのでしょう。

 そんな中で、それまで一緒に修行するなどとは(ベジータの方が)思わなかったところ、ベジータが悟空を認め和解したことで、一緒に修行をできるようになり、共に伸びるという楽しさを思い出したのかもしれません。ちょうど亀仙人の下でクリリンと一緒に修行していたのと、ウイスの下でベジータと一緒に修行しているのは同じ構図ですしね。

 その意味で、悟空にとっては「ベジータと一緒に競える環境」というのが非常に理想的で、その状況になるまでの間、孤高の最強戦士だった期間に悟空の驕りが形成されていったのかなと思います。

 

 しかし、亀仙人ジャッキー・チュンとして悟空の前に立ちはだかっていなかったら、もっと早く悟空は自分の強さに驕れるようになっていたのかもしれません。そう思うと、やはり亀仙人は師匠として素晴らしい人間だったと思いますね。

悟飯は何故超サイヤ人2に覚醒できたか

 悟飯が怒りによって秘められた力を目覚めさせ、超サイヤ人2になってセルを倒すというのが、セル編の終盤の展開ですが、その後悟空とベジータも自力で超サイヤ人2に変身できるようになっています。決して悟飯が地球人とサイヤ人の混血だったり、それが故に幼少時より高い戦闘力を持っていたことと、彼が超サイヤ人2に変身できたことは、必ずしも直結していません。では、何故悟飯は超サイヤ人2に一早く変身できたのでしょうか。

 悟飯は怒りで我を忘れた時に莫大な力を発揮する傾向がありますが、それが敵を倒す決定打になることはほとんどありませんでした。ラディッツを倒したのはピッコロですし、ナッパに放った怒りの魔閃光は簡単に弾かれています。フリーザにも2度怒りの攻撃を見舞っていますが、ダメージを与えることはできませんでした。

 悟飯は同年齢の悟空と比べればはるかに大きな戦闘力を持ち、修行や瀕死からの復活によりさらに伸ばしていきましたが、その時の悟空やベジータ以上の力を発揮することはほとんどありませんでした。年齢を差し引けば、決して秘めた戦闘力がずば抜けているというわけではないのです。

 

 そのため、悟飯が超サイヤ人2になれたのは、「その時点で悟空やベジータの戦闘力を単純に上回っていたから」ではないのではないか、と考えます。セル戦での演出では、悟空がフルパワーで戦っているようには見えないくらい、悟空と同等の力を得るには至っていたものの、それは悟空との修行で得た力であり、悟飯の戦闘力が単純に超サイヤ人2になれるレベルに至っていたから怒りで変身できた、と単純に理解すべきではないと思うのです。

 というのも、単にレベルが上がったから超サイヤ人2になれるのであれば、悟空もセル戦の時点でもっと修行すればなれていたはずなんです。どちらかと言うと、悟空にはそのなり方がわからなかった、と言った方が正しいと考えています。だからこそ、悟飯に先に超サイヤ人2になってもらう必要があった。それがセルにあえて悟飯を戦わせた意図なのだと思うのです。

 その意味で、悟飯が何故超サイヤ人2になれたかと言えば、それは悟飯が怒りをトリガーとして「瞬間的に戦闘力を引き上げる」という才能を持っていたからなのではないかと思うのです。それこそが、超サイヤ人2への変身に必要だったのではないでしょうか。実際、悟空もベジータも、超サイヤ人2への変身は割と一瞬で行っており、時間をかけていません。超サイヤ人に体を慣らした状態で、ほんの一瞬で一気に力を高めることが超サイヤ人2への変身条件で、悟飯は怒りに身を任せることでそれを容易にできた、ということであれば、すべてに説明がつきます。

 

 つまり悟飯は、怒りによって「秘めたパワーを発揮していた」のではなく、「瞬間的にパワーを増幅させることができていた」のではないかと思うのです。それが悟飯の強さの源泉であり、アルティメット化したことにより逆に失ったものでもあります。悟飯は老界王神に「限界以上に」潜在能力を引き出されたことにより、常時マックスパワーで戦えるようになりました。その反面、戦闘力をそれ以上瞬間的に高める余地もなくなったのです。そのため、戦い方に幅がなくなってしまったとも言えます。

 超サイヤ人のレベルを超えた戦いでは、全力を出せば確実に地球が吹き飛ぶエネルギーを発生させます。そのため、相手を倒すには瞬間的なパワーの放出で勝つしかないのですが、悟飯はアルティメット化したことにより逆にそれが不得意になってしまったのではないかと思うのです。

 悟飯に必要だったのは、「潜在能力を限界以上に引き出すこと」ではなく、「潜在能力を瞬間的に限界以上に引き出すテクニックを覚えること」だったのかもしれません。

「ベジータゴッド」から考えるベジータの性格

 映画「ブロリー」において、アニメでは初めて超サイヤ人ゴッドのベジータが登場しましたが、個人的には、このベジータゴッドの印象が非常に強く残りました。何故かと言うと、非常に落ち着いた、冷静な態度で戦っていたからです。

 悟空のゴッドにおいても、いわゆる「柔の拳」のような戦い方であったり、トリッキーな技を使ったりというのが印象的でしたが、悟空は元々亀仙人や神様の下で修行し、そういった穏やかな戦い方を習得しているため、久々かつ斬新ではありましたが、元々のキャラクターから離れた描写ではありませんでした。

 一方のベジータは、基本的に戦う時は感情を表に出して戦うことが多いキャラクターです。自分が優位にあり自信を持っている時は、自らの力を強く誇示し、相手を徹底的に蔑み、敵をゴミクズのようにいたぶる傾向があり、逆に自分が劣勢の時は、大きく焦り、怒り、あまりにも実力差がある時は絶望を隠さない傾向があります。これは、超サイヤ人に覚醒した後も、ゴッドの領域に到達した後も同様で、基本的にベジータは感情をむき出しにして戦うタイプなのです。

 それに比べると、ゴッドの状態のベジータは、落ち着いた表情で、無駄に相手を愚弄したりピンチに焦りを見せることなく、冷徹にブロリーに攻撃を加え、まさに「サイヤ人の王」であるかのような風格が漂っていました。

 

 元々、ベジータウイスに「日ごろから神経を張り詰めすぎ」という欠点を「復活のF」で指摘されていました。描写としては感情を表に出しすぎることが多いということと合わせて考えると、ベジータはおそらく自分にプレッシャーをかけすぎなのだろうと思います。

 優位な相手には徹底的に自分の優位性を誇示し、不利な相手には焦りと不安を隠さない点と、ベジータの生い立ちや性格を考えると、おそらく彼は「自分=サイヤ人の王子は宇宙最強でなければならない」というプレッシャーと常に戦っているのではないだろうかと推察されます。常に自分は最強でなければならない、と暗示をかけているが故に、自分の強さを必要以上にアピールし、そして自分より強い相手に直面したときに大きな焦りを感じてしまうのでしょう。

 このベジータの性格は、おそらくは父の影響が強いと思われ、サイヤ人が宇宙一の戦闘民族であり、その王子であるベジータは王である父よりも高い戦闘力を持つことから、一族の期待を常に受けていたものと思われます。同時に、幼少時からフリーザギニュー特戦隊といった次元の違う強者の存在も知っていたことから、いつか彼らを追い抜かなければならない、という目標を掲げていたとも考えられます。サイヤ人最強であることを誇りにしていると同時に、サイヤ人よりも強い宇宙人がいるという現実を早く打ち破らなければならないという焦りが、成長するにつれて高まっていたことは容易に想像できます。その壁はちょっと修行したくらいで埋まるものではなく、だからこそ「伝説の超サイヤ人にさえなれば、自分が宇宙最強になれる」という夢も描いていたのでしょう。

 ところが、サイヤ人では最強であるという誇りも、カカロットの登場により打ち砕かれることになってしまいます。超サイヤ人への目覚めなど、常に一歩先を行く存在はベジータにとって忌々しい存在でしたが、家族を得て心境に変化が生じた彼はカカロット孫悟空の強さを受け入れ、彼を最強のサイヤ人と認めることになります。それでも、長年染み付いた戦いのスタイルが変わるわけではなく、性格も簡単に変わるものではないため、弱い相手にイライラするなど、感情の浮き沈みの激しさの描かれ方はあまり変わりませんでした(「復活のF」での超サイヤ人ブルーは比較的冷静でしたが、フリーザへの長年の恨みが募っていたので冷静になりきれてはいなかったように思えます)。

 そんな中での、「ブロリー」での超サイヤ人ゴッドのベジータだったので、あの戦闘スタイルはある意味ベジータの最終到達点であったのではないかとさえ思えます。ブルーになるとどうしても超サイヤ人化するが故に気性の激しさが多少出てしまうと思うのですが、それがないゴッドはベジータが今後更に強くなるために必要な形態なのではないかとさえ思います。少しゴッドの状態で戦う訓練をした方がいいと思いますね(笑)

 

 悟空はウイスに「油断しすぎる」という欠点を指摘されていますが、悟空に足りないのが「冷徹さ」であるとすれば(それを克服するのが身勝手の極意)、ベジータに足りないのは「穏やかさ」なのかなぁと思います。もしベジータが身勝手の極意か、それに類する境地に達することがあるのであれば、その鍵となるのはそういった感情面の変化であるような気がしますね。もし今後鳥山明氏がベジータのパワーアップを考えるのであれば、そのような要素が加わると信じたいところです。

ピッコロにとっての悟飯

悟飯とピッコロと言えば師弟関係です。

そして悟飯にとっては、ピッコロは師匠であり、父親よりも父親らしい存在であり、ピンチの時には必ず助けに来てくれる(劇場版限定)存在でした。

アニメではピッコロのことを「おじさん」と呼ぶことがあったなど、悟飯から見ると父親よりも背の高いピッコロは、かなり年上の存在であるように感じていたように描かれています。

 

しかし、実際のところピッコロが生まれたのはピッコロ大魔王が死んだ瞬間です。そこから3年後に悟空と天下一武道会で戦い、その5年後にサイヤ人ラディッツと戦っています。このときピッコロは8歳です。その時点で悟飯は4歳ですから、歳の差は4歳しか離れていません。

実際のところピッコロは3歳の時点ですでに身長や体格は完成していましたから、その成長速度は普通ではないのですが、それでも年齢的には、悟飯とは兄弟くらいにしか離れていないのです。

 

それを踏まえて、ピッコロへの悟飯への言動を振り返ってみると、悟飯にとってのピッコロが「尊敬すべき師匠」であり「おじさん」であったとしても、ピッコロにとっての悟飯はもう少し近い「弟」くらいの存在だったのではないか、と思い当たりました。

 

例えば、「恨むならてめえの運命を恨むんだな…このオレのように…」という台詞。この言葉を悟飯に向けて言った時の悟飯は、いずれ攻めてくるサイヤ人を迎え撃つためには莫大な戦闘力を秘めた悟飯の力に期待せざるを得ないことから、己の意思に関わらず戦えるように鍛えられるしか選択肢がないという状況でした。この状況に自分を重ねるということは、ピッコロ自身もまた、自分に選択肢が存在せず、ただ父の無念を晴らすために悟空を殺すことを目的とした修行をし続けるしかなかった現実が、本当は嫌だったという心情を表しています。

ピッコロにとっての悟空は、人造人間のそれと同じように、生まれたときから殺すことを宿命付けられた敵だったわけです。しかしその悟空は敗れても自分を殺さなかった、では目的を果たせず生き長らえた自分は何のために存在しているのか、そんな自問自答がサイヤ人来襲までのピッコロにはあったのかもしれません。

そして宿敵の息子・悟飯に、ピッコロ大魔王の息子である自分の姿を重ねたことが、その後の悟飯への心理的な傾倒に向かっていくのでしょう。

 

そしてもう一つピックアップしたいのが、悟飯をかばって死ぬときの有名な台詞。「オレとまともにしゃべってくれたのはおまえだけだった」「きさまといた数ヶ月…悪くなかったぜ」という言葉は、それまでのピッコロ像からは想像もつかないほどに丸い台詞でした。ここで、悟飯がピッコロを一方的に慕っているのではなく、ピッコロ自身も悟飯に救われていたことがわかります。

「ピッコロ大魔王の生まれ変わり」というだけで、一般人も悟空の仲間たちも逃げ出してしまうような世界だったわけですから、確かにピッコロとまともにしゃべってくれる地球人はいなかったでしょう。そのことをピッコロは辛いものだと感じていたことがわかる台詞になっています。

一方で父である大魔王を知らない悟飯にとっては、ピッコロは「昔お父さんと戦った強い人」くらいにしか思っていなかったのでしょう(悟空はピッコロを悪い奴だと思っていないので、悟飯にも悪い奴とは言わなかったでしょう。チチは分かりませんが、彼女はピッコロ大魔王一味から特に被害を受けていませんし)。つまり悪行の限りを尽くした大魔王の生まれ変わりであるという固定観念がなく、フラットにただの「(怖い)おじさん」として接してくれたこと自体が、ピッコロにとっては衝撃的だったのではないかと思われます。

 

つまりピッコロにとって、悟飯は最初の「敵ではない他人」だったのです。それは人間心理で言えば限りなく家族に近い存在と言えます。赤ん坊にとって初めての他人は家族だからです。

普通は最初の家族と言えば両親ですが、悟飯は年下なので弟に近い存在と言えます。ピッコロにとって悟飯は息子や弟子ではなく弟だったのです。そのように考えると、ピッコロの悟飯への態度も少し違って見えてくるのではないでしょうか。

 

ベジータは悟空に生かされたことによって、最終的に家族を知り、悟空よりも人間らしい存在になりましたが、ピッコロもまた悟空に生かされた事により、悟飯という兄弟を得て新しい存在になったとさえ言えます。

その後ピッコロは、自分自身のルーツを知る事になり、ただの「大魔王の生まれ変わり」なのではなく、ナメック星人の数少ない生き残りであるという自覚が生まれることになります。生き返った直後にすぐフリーザと戦いたがったのは、単に悟飯を助けたいというだけではなく、ナメック星に行ってみたい、ナメック星をめちゃくちゃにしたフリーザが許せないという感情もあったのだろうと思います。

さらにネイルと同化しナメック星人としての誇りを強く持ち、神様と同化することで地球のため、地球人のために生きることができるようになったと言えます。

それでも悟飯は、最初に出会った人生の兄弟として大切な存在で、だからこそ彼の家族をも大切にしたいと思えるのでしょう。

 

ただピッコロは、ひたすらに孤独です。自分自身は種を増やすことができませんし、神と分離する前の名前も知りません。ただ地球に逃げ延びてきてそこで神になったナメック星人の成れの果て、という事実しかないのがピッコロという存在です。ベジータと違いここからさらに人間臭くなるということはないのかなと思います。きっと寿命も悟飯よりずっと長いのでしょう。

 

むしろ神の気を得てナメック星人ゴッドにでもなってほしいと思っているんですけどね。鳥山明氏もアニメやゲームに関わるスタッフも、あまり活躍させる気はないようです。第7宇宙では一番破壊神に近いメンタルの持ち主ではあると思うんですが。

超サイヤ人ゴッド覚醒後の、金髪・赤髪・青髪の区別

 「神と神」で悟空が超サイヤ人ゴッドに変身した後、その力を取り込んだことにより、通常の超サイヤ人でもゴッド級の戦闘力を発揮できるようになりました。また、通常形態でも神の気の練り方を得たことにより、超サイヤ人3以上の戦闘力を発揮できるようになったようです。

 これは、「復活のF」においておそらく超サイヤ人悟飯を遥かに超える戦闘力をもっていたであろうフリーザ最終形態に対して悟空がノーマル状態で互角に戦っていたことと、「超」の複製ベジータ編で、ブルーに変身できる複製ベジータがノーマル状態で超サイヤ人3のゴテンクスを圧倒していたことから伺えます。

 

 一方で、「力の大会」や映画「ブロリー」(あとコミック版の未来トランクス編以降)では、悟空は超サイヤ人→ゴッド→ブルーと明らかに段階を変えて変身していました。「神と神」の時点で超サイヤ人→ゴッドの序列は明らかであり、「復活のF」でゴッドの上であるゴッド超サイヤ人(ブルー)が登場しましたが、具体的にこれらの形態がどう違っていて、どう区別されているのか、あまり明言されていません。なので、少し考察してみたいと思います。

 

 簡単な定義は作中でも説明されていて、超サイヤ人ゴッドは「神の気」を得たサイヤ人であると思われます。そしてこの力を取り込んだ上で、更に超サイヤ人に変身したのが「超サイヤ人ゴッドの力を持った超サイヤ人」こと超サイヤ人ブルーなのだろうと思われます。

 超サイヤ人ブルーは、コミック版ではエネルギー消費が激しく一度変身を解くとしばらく変身できない設定ですが、TVアニメ版・劇場版どちらもそのような描写はないため、これはコミック版独自の設定かと思います。アニメ準拠で考えた場合、超サイヤ人ブルーは大きなエネルギー消費はなく、通常の超サイヤ人と同じような感覚で戦えることから、悟空やベジータにとっては非常になじみ易い形態なのでしょう。

 超サイヤ人ゴッドが、名前に反して超サイヤ人化した見た目になっていないことから、その名称は便宜上のもので、本来は「神の気をまとったサイヤ人」という意味だと考えれば、そこから更に超サイヤ人に変身したのがブルーなのだろうと思います。

 つまり、ゴッド覚醒後の悟空やベジータは、「神の気をコントロールできるようになったことで基本的な気の質が上がった通常形態(旧超サイヤ人3以上の戦闘力を発揮可能)」→「神の気を全身にまとっている超サイヤ人ゴッド」→「神の気を持った超サイヤ人である超サイヤ人ブルー」という変身を経ていることになります。少なくとも「復活のF」まではそのような設定でした。

 

 しかし、「超」では「シャンパ編」以降、ブルーに変身できるにもかかわらず通常の超サイヤ人に変身するケースが多々ありました。「神と神」でもゴッド覚醒後にその力を取り込んだ超サイヤ人になっており、その後一瞬もう一度ゴッドに覚醒してビルスの攻撃を受け止めていることから、「ゴッド覚醒後の超サイヤ人1」はゴッドに劣ると言え、ノーマル→超サイヤ人超サイヤ人ゴッドの序列は当初から変わらないとは言えます。ただ実際の使い分けはどのようになっているのでしょうか。

 ゴッド覚醒後の通常形態が「神の気を扱えるようになった素の状態」であるならば、そこから超サイヤ人1に変身するのは「神の気を扱えるようになった超サイヤ人」ということになります。これでは超サイヤ人ブルーと同じ説明に感じられますが、ゴッドやブルーは神の気を「まとっている」ので、その点が違いと言えます。

 では何故ノーマル状態から神の気を開放した「ゴッド」よりも、悟空やベジータは「超サイヤ人1」の方を多用するのでしょうか。これは単純に「慣れているから」なのではないかと思います。ゴッドやブルーは神の気を練り上げて開放する必要があることから、通常の超サイヤ人変身よりもテクニックが必要なのでしょう。一方超サイヤ人は、その状態でも自然な状態でいられるよう修行したことから、何も考えずに簡単に変身できるのではないかと思います。ほぼ無意識的にできることの方が、便利であることに変わりはありません。そして超サイヤ人でも適わない相手には、ブルーになって全力で戦うのでしょう。相手の力を試しているときに限り、その間の形態であるゴッドになるのではないでしょうか。

 というようにもっともらしい理屈を考えてみましたが、まぁ超サイヤ人1が未だに出るのは単純に「カッコいいから」でしょうね(笑)。やっぱり金髪の超サイヤ人が一番カッコいいのは間違いないです。ブルーはより強いことにはなっているんですが、あんまり相手を圧倒したシーンがなかったんですよね。ゴールデンフリーザには力負けしてましたし、ヒットにもブラックにもトッポやジレンにもブルー単体では勝てませんでしたしね。

 

 さて、ではゴッド覚醒後の「超サイヤ人2」「超サイヤ人3」の戦闘力はどんなものなのでしょうか。超サイヤ人からいくら気を上げても、まとうオーラが神の気になっていないならそれはゴッド以下というのは間違いないですが、まぁゴッド覚醒前の頃と同じくらいの倍率ではパワーアップしているのではないでしょうか。ただゴッドやブルーになった方が遥かに高い倍率で戦闘力が上がるため、ほぼ使うことはないのでしょう。

 逆にブロリーは実質的に超サイヤ人1でしかないのに、超サイヤ人ブルーの悟空やベジータ以上、超サイヤ人1のゴジータでも苦戦するほどの戦闘力を発揮していました。これは、ブロリーは「神の気」は持っていないものの、「大猿の力」が加わっているために強いのだと解釈するしかありません。大猿にそこまでのパワーアップ倍率はないはずなのですが、超サイヤ人4が3を遥かに上回る戦闘力だったことを考えると、大猿の力を人型でコントロールするということは相当なパワーアップになるということなのでしょう。しかも「神の気」の超サイヤ人ブルーより「大猿の力」の超サイヤ人ブロリーのほうが強いわけですから、ある意味では大猿の力を得たブロリーは神以上のパワーアップを遂げているということになります。つまり悟空やベジータも大猿の力を得れば更にパワーアップできることになりますが…それが超サイヤ人4だと言うなら、実は「超」はまだ「GT」に繋がる余地を残しているのかもしれません。

新旧ブロリーの描かれ方を比較する

予告通り、新旧それぞれの劇場版におけるブロリーの扱いの差について比較してみようと思います。

 

 

(1)幼少時の扱い

 パワーが高すぎてベジータ王から追放、というくだりは同じですが、旧劇場版では「赤ん坊の時点で戦闘力1万」という扱いだったのに対し、新劇場版では「潜在能力の測定でベジータより上だったから」という扱いに変わりました。さすがに赤ちゃんの戦闘力がバーダックと互角はリアリティがないという判断でしょうか。

 

ブロリー:生まれたときから戦闘力が高い

ブロリー:生まれたときの潜在能力がベジータ以上

 

(2)カカロットとの関係

 旧ブロリーの重要な設定の一つが「保育器の隣だったカカロットに泣かされた」というエピソードですが、新劇場版ではバッサリカットされました。生まれたばかりの因縁をずっと覚えてるというのはちょっと非現実的で、しかもただ泣かされただけというのが、個人的にも理解に苦しむ設定だったので、無くなってよかったと思います。

 旧劇場版では、ブロリーカカロットに対して恨みを持っているという設定にしたくて、しかしカカロットとの接点があるとすれば赤ん坊の時しかあり得ないために、このような無茶な設定になったのだと思います。

 

ブロリーカカロットを赤ちゃんの頃から恨んでいる

ブロリーカカロットとの接点は皆無 

 

(3)追放後の扱い

 旧ブロリーは惑星ベジータの爆発からブロリーの力で生き残り、その後の過程は不明ですが新惑星ベジータを作ってベジータへの復讐の機会を狙うという描写になっていました。

 これに対し新ブロリーは辺境の惑星に送り込まれ、助けに行ったパラガスもろともその惑星に取り残され、ずっとそこで生き続けるという扱いに変わりました。

 まず宇宙空間で生き残ったところで、身体一つでどこへ行くんだという謎が旧劇場版にありますし、そこまですさまじい力を発揮したなら、フリーザ軍のスカウターに拾われていたんじゃないかという疑問もあることから、新劇場版の方がよりリアルに描いたということになります。

 

ブロリー:追放後は宇宙を放浪

ブロリー:追放後は一つの星にずっと滞在

 

(4)幼少時の戦闘力

 旧ブロリーは少年時代にはすでに超サイヤ人に覚醒していましたが、新ブロリー超サイヤ人には覚醒していませんでした。あくまでも大猿化とその応用によるパワーアップのみ可能でした。

 旧ブロリーは、ほぼ生まれついての超サイヤ人で、「1000年に一度現れる伝説の戦士」そのものと思えるように描かれていましたが、鳥山設定では超サイヤ人になる条件はどのサイヤ人でも平等ということなのでしょう。新ブロリーでは、むしろその強さの源泉は「素の状態」にあると考えられているのではないかと思います。

 

ブロリー:少年時代から超サイヤ人に覚醒

ブロリー:尻尾を失っても大猿の力を発揮可能に

 

(5)パラガスとの関係

 旧劇場版のパラガスは、超サイヤ人化したブロリーの制御ができないことから、宇宙人の科学者に作らせたコントロール装置で戦闘力をコントロールすることに成功します。これにより南の銀河を壊滅させたりしていました。

 新劇場版のパラガスは、大猿化のように理性を失うようになったため、首に電流が流れる首輪をつけさせて、動物を調教するようにコントロールしていました。これは、ずっと同じ惑星にいたのでそれ以上の技術は使えなかったということもありますし、ブロリーの力をコントロールする目的が「自分の身を守る」ためでしかなかったという違いもあるかと思います。

 一方で、旧ブロリーはパラガスを躊躇なく殺しましたが、新ブロリーはパラガスを殺された怒りで超サイヤ人に覚醒しています。新ブロリーにとっては唯一の他人であり肉親だったパラガスは、特別な存在であったのでしょう。一方旧ブロリーには、親への情はあまり感じられないようでした。

 

ブロリー:パラガスの意のままに操られるが、コントロールが解け殺害

ブロリー:パラガスに強制的に従わされるが、殺された怒りで覚醒

 

(6)悟空との比較

 新劇場版のブロリーは、幼少時よりずっと父親と二人きりで1つの星に住んでいたことから、非常に世間知らずで言葉にも疎いという意味で、幼少時の悟空によく似た描写になっていました。特にチライとブロリーの関係は、ブルマと悟空のそれによく似ているように思います。

 旧劇場版のブロリーは、制御用のリングを頭に装着していたことで、「西遊記」の孫悟空のオマージュとして描かれていましたが、新劇場版は「ドラゴンボール」におけるもう1人の孫悟空として描かれているように思います。

 

ブロリー:「西遊記」の孫悟空のオマージュ

ブロリー:「ドラゴンボール」の孫悟空が違う星にたどり着いた結果

 

(7)性格

 旧劇場版のブロリーは、平常時は大人しく無口で、カカロットが絡んだときだけ凶暴化するという性格でした。一度コントロールから解き放たれると、ただ破壊の限りを尽くすだけの存在と化し、わざと星を破壊したり俺は悪魔だと言い放ったり、とにかく邪悪で凶暴という性格でした。

 新劇場版のブロリーは、仲間が傷つけられると怒るという意味で、他人のために怒れる優しさを持っていました。また、本来戦いはあまり好きではなく、凶暴化するのも大猿化と同じ理由という扱いになっていました。

 

ブロリー:本質的に凶暴な性格

ブロリー:本来は心優しく、戦いが好きではない性格

 

(8)強さの源泉

 新旧どちらのブロリーも、理屈を超えた戦闘力を発揮していましたが、旧劇場版のブロリーが「伝説の超サイヤ人」という普通の超サイヤ人とは異質な存在であり、それ故か戦闘を続けても気が減少していくどころか高まっていく性質があるなど、基本的に「特殊な超サイヤ人」という扱いでした。

 新ブロリーは、その強さの理由はあくまでも「大猿の力を人間体のまま発揮できる」という点にあり、そこからさらに超サイヤ人になることで、超サイヤ人ゴッドを上回るパワーを発揮することができていました。

 

ブロリー:「伝説の超サイヤ人」という特殊な存在

ブロリー:「大猿」の力を取り込んだ超サイヤ人

 

(9)総合的な違い

  これらを総合すると見えてくるのが、旧ブロリーの「非人間性」と新ブロリーの「人間性」の差異です。性格的にも、強さの理屈的にも、元々人間的な部分がほとんど残っていないのが旧ブロリーであり、戦闘力的には同等かそれ以上のインパクトがありながら、あくまでも人間性を保っているのが新ブロリーと言えます。

 これはある意味ではアニメのドラゴンボールと漫画原作のドラゴンボールの違いとも言えるかもしれません。アニメのドラゴンボール、特に劇場版では、基本的に登場する敵は「悟空に倒される悪いヤツ」であり、殺されても仕方ない敵をやっつける勧善懲悪なストーリーがメインでしたが、原作のドラゴンボールでは悟空は常に殺し合いを望まず、再戦が可能ならできるだけ相手を殺さないで済ませようとするキャラでした。原作の世界観の延長にある鳥山原作の劇場版では、旧ブロリーのような存在は許されないということなのだと思います。

 ただ、旧ブロリーの存在が完全に否定されたわけではありません。超サイヤ人ゴッドが登場しても超サイヤ人4がゲームに出続けているように、原作と矛盾する存在も許されるのがドラゴンボールワールドです。「ストリートファイター」シリーズの殺意の波動に目覚めたリュウのように、正史には存在し得ない絶対悪の存在として、旧ブロリーは残り続けるのではないでしょうか。

 

ブロリー:「勧善懲悪」の物語だから許される、絶対悪の超サイヤ人

ブロリー:原作の世界観だから存在できる、別進化を遂げた超サイヤ人

映画「ドラゴンボール超 ブロリー」感想

見てきました。

このブログ的には、ブロリーの強さの根拠を鳥山氏がどのように説明してくるかに注目していたのですが、明示してくれたので考察のしがいがあります。ありがたいことです。

 

その辺は後述するとして、作品自体の感想から先に。

一言で言えば、「たったひとりの最終決戦」「燃え尽きろ!熱戦烈戦超激戦」「復活のフュージョン!悟空とベジータ」を一つのシナリオにして鳥山氏がリメイクしたような話だったかなと思います。アニメオリジナルキャラの中でもトップクラスの人気キャラであるバーダックブロリーゴジータを全部公式リメイクするプロジェクトでもあったのかなと。

逆に言えば中身としてはそれ以上はなく、鳥山氏もほぼビジネスに徹してゲームキャラの追加の余地を増やすことが最大の目的の作品だったようにも思います。まぁ、今やドラゴンボールは連載当時よりも稼げるコンテンツになってますし、世界中で大人気ですから致し方ない部分ではあります。それに対して、物語自体は事実上完結していますから、あまり話を広げることもできませんしね。

 

ただそれでも、鳥山氏がどのように彼らを描きたいのか、その意図はよく見えました。特に新旧ブロリーの違いは比較がしやすいですので、別エントリで今後語りたいと思います。

簡単に言えば完全に悪魔のような存在である旧ブロリーと、あくまでも人間である新ブロリーという比較になりますが、特に今回のブロリーは辺境の星で言葉もろくに知らずに育ったという意味で、旧ブロリー以上に「もう1人の悟空」という印象を強くしていたのかなと思います。パラガスが孫悟飯じいちゃんのポジションで、チライがブルマですね。

鳥山氏としては、旧ブロリーの、パラガスにコントロールされているだけで、解き放たれたらあとは破壊の限りを尽くすだけ、という人生を不憫だと感じたというか、そういう世界観はドラゴンボールにあるべきものではない、ということなんだろうなと思います。根っからの悪人はいなくて(フリーザがレッド総帥と同レベルの支配者だったという描かれ方はその典型)、いたとしても何らかの救済(ウーブへの生まれ変わり)があるべきという考え方ですので、ただ破壊の限りを尽くすだけで、コミュニケーションもまともに取れない絶対悪の存在、というのは認め難かったんでしょう。ある意味ではそういう、絶対悪の超サイヤ人が旧ブロリーの魅力でもありましたが、そういうキャラは公式の世界にはいるべきではない、ということです。バーダックでさえも、アニメスペシャルよりもかなり丸く、父親の情を感じる描写でした。当時よりも、ドラゴンボールを優しい世界に描きたいという意図は「神と神」の頃から感じます。本人が歳を取って、子供にも見せられる話というのを意識しているからなのかもしれません。

 

個人的には、新訳たったひとりの最終決戦とでも言うべき前半の回想シーンは納得のいくものでした。ギネがチチの声だったのはまぁ、2人は親子ではないけどバーダックと悟空は同じような嫁を持っていたということでしょうか。でも幼少ラディッツがピラフとほぼ同じ声ってのは、確かに昔から声優は同じなんですが酷いと思いました(苦笑)。わざとなんでしょうけど。

フリーザは当時は基本形態よりも一つ更にランクが低いような外見をしていましたが、これはやはり年齢と共に成長しているということなのかなと思います。コルドはフリーザ第2形態レベルまでしか成長できませんでしたが、フリーザは更に成長を遂げていて、ただパワーのコントロールが出来ないので前の形態に戻っていたというだけなのでしょう。現在ではデフォルトで最終形態になっていますので、兄同様戦闘力のコントロールをできるようになったんでしょうね。ゼロにはできないんでしょうけど。

スカウターフリーザ軍が与えたようになっていましたが、元々はツフル人が開発した技術であったように思います。まぁ、ツフル人の技術をサイヤ人では扱いきれないので、フリーザ軍がその技術を継承して発展させていたということなんじゃないかなと思います。サイヤ人の知性を考えると、その方が現実的でしょう。

あと地味にベジータ王の装飾品に旧ブロリーの意匠が残されているのが面白いと思いました。

バーダックが最後までフリーザに抵抗したくだりは、過程が全カットされていましたが、描写はかなり「たったひとりの~」をオマージュしていましたので、完全には矛盾しないように作っていたのかなと思います。

 

で、本編ですが、作画はセル編くらいの悟空とベジータをイメージしているように見えました。まぁ、セル編→ブウ編は特に悟空はほとんど歳を取っていませんので、問題はないかと思います。あとブルマの声はあまり違和感がありませんでした。いい感じです。

ブロリーの支配方法が良く分からない謎システムから電流に変わったのは、イメージのしやすさとパラガスの非道さを強調するためなんだろうなと思います。それでもブロリーにとってパラガスは唯一の肉親かつ他人でしたので、簡単に裏切れないというのもよく描けていました。

 

そのブロリーの強さの秘密ですが、「大猿の力をしっぽなしでも発揮できるようになった姿」という説明がされていました。これ、要するに超サイヤ人4なんですよね。あれは黄金大猿+理性が必要なので、もちろん全く同一の存在ではありませんが、超サイヤ人未覚醒なのに超サイヤ人以上ゴッド以下~ゴッド以上ブルー以下の戦闘力となると、超サイヤ人4クラスの戦闘力を引き出していると考えないと説明がつかないです。もう悟空やベジータが鳥山ワールドで超サイヤ人4になることはないでしょうから、要するに鳥山版超サイヤ人4なんだと考えるべきなんだろうと思います。つまり超サイヤ人化していなくても、大猿の力を人型でコントロールするだけで新ブロリーレベルの戦闘力は発揮できるということです。

そしてそこから更に超サイヤ人化したのが所謂「伝説の超サイヤ人」形態であったということになるので、これも良く分かるものでした。旧ブロリーも同じなのであれば、あれこそ実質真の超サイヤ人4だったということになります。だからブロリーがゲームで超サイヤ人4になるのはある意味矛盾しているのかもしれません(単に完全体に達したと考えることも可能ですが)。

TV版に登場したケールの暴走状態が超サイヤ人ブルーでも苦戦するレベルに描かれていましたので、本場ブロリーではブルーでも適わないというのもパワーバランス的には妥当です。

ゴジータに対しても、超サイヤ人とフルパワーブロリーが同程度、ブルー化すれば圧倒というバランスでしたので、ゴジータの無敵感の強さもよく描けていて良かったと思います。そう考えるとベジットブルーとも互角に見えた合体ザマスはブロリーより強いのかもしれません。

そのフルパワーブロリーは悟空の見立てではビルス以上だったとのことなので、ゴジータベジットのブルーもおそらく戦闘力ではビルス以上なんだろうなと思います。まぁビルスには破壊があるのでまた強さだけでは比較できないのですが。そのビルスが今回参加しなかったのは、ブロリーを破壊して話が終わってしまうからなのでしょうね。

そう考えると、大猿+超サイヤ人だけでブルーや破壊神を超えてしまうわけですから、ブロリーのポテンシャルは高すぎるとしか言えません。まぁ、大猿の力をコントロールすれば悟空やベジータが更に強くなる可能性があるということも言えますし、それがGTの超サイヤ人4なのかもしれませんが、この辺は今後の展開次第でどうにでも変わるだろうとも思います。最近のパワーバランスは色々信用できませんので(苦笑)。

 

シナリオ的には、回想部分は丁寧でしたが、後半は雑だったなぁという気がします。場面だけ追っていれば分からなくはないのですが、もう少し丁寧に描いて欲しかったなと。例えばパラガスが死んでブロリーが覚醒するシーンなんかは、もう少しブロリーのパラガスへの感情が表現される描写があってもいいと思いますし、「復活のF」では悟空とベジータが散々共闘を渋ったのに今回あっさり共闘するどころかフュージョンさえしたのは、単純にブロリーの理性がなく地球が破壊される可能性があった(つまり緊急性が異常に高い)からだと思うんですが、そういう解説も少なかったですし、最後に悟空にカカロットを名乗らせるのであれば、悟空にサイヤ人への誇りを目覚めさせるような描写(例えば冒頭の回想シーンのバーダック部分の話をベジータが悟空に語るとか)があるべきだったと思います。おそらく時間が足りなかったのだと思いますが、それらがしっかり描かれていれば文句なしの神作品でした。前2作のようにTV化されるならその辺が補完されるでしょうか(TVスタッフはあまり信用していないのですが)。

 

演出としては本当にオマージュシーンが多く、ブロリー絡みもそうですが、ゴジータもちゃんと前映画の技(所謂「ソウルパニッシャー」)を使って見せたりとサービスは豊富だったと思います。ベジータの作画がとても良かったのが印象的でした。特にゴッド。悟空と交代した後ずっと出てこなかったのはちょっと雑かなとも思いましたが。

あとはもっと技の出し合いが欲しかったかなとは思います。「神と神」も「復活のF」もそうなんですが、殴り合いを派手にやるだけで技の駆け引きがないのが原作との違いかなと思っていて、原作の悟空はフリーザやセルとは技でいかに意表をついて敵に攻撃をヒットさせるかの勝負をしていましたので、そういうのも見たいかなぁとは思います。何にせよ、ドラゴンボールは下手すると鳥山氏が亡くなっても続くコンテンツのような気がしますので、これからも楽しめそうです。

ブロリーは今後も登場できそうですが、下手に味方になると「あのブロリーが一撃で!?」みたいなかませ犬にされそうで怖いですね(笑)まぁ、ブロリーは大事なイメージがあるのでそう簡単にはやられ役にはしないかもしれませんが。